愛を語るとき男女の愛と、肉親の愛と、友人への愛などがありますが、
広い意味では人道的な人類愛や動物愛などもあります。
文明と文化がコインの裏表のように、愛情と嫉妬もコインの裏表の
要素が関係性の中に必ず存在しております。
愛情と憎しみをコインの裏表という人もおりますが、
私は愛情の中に憎しみは同居していると思っています。
日常生活においては愛一筋だけでは成り立たない複雑な感情があり、
特に恋愛や結婚はお互いを独占し合うような関係なので、
その独占関係が犯されるようなときに嫉妬という感情が起こるのは、
自分にはその権利があるという所有意識が存在するからです。
嫉妬に似た言葉に『羨み』がありますが、これは全く知らない人の
成功などに触れたときに持つ感情で、嫉妬は自分の所有物と
思っている人に対して持つ権利を伴う感情で、羨みは全く知らない
所有・権利関係のない他人に持つ感情なので似て非なものです。
このように考えると理解できると思うのですが、所有関係のない
友人や親族に対して嫉妬する感情は我儘な行為なのですが、
この我儘な嫉妬の感情を持つ人は実に多く、所有関係のない人に
その感情を抱くのは人間として未成熟な人である証です。
一般的にはある種の僻みで嫉妬の感情を持つ人が多くおりますが、
結婚や恋愛に所有意識が存在しているのは、その関係性の中には
お互いの合意とある種の契約関係に似たものが存在しており、
その合意には義務と責任が付随しているから権利があるです。
友人や親族への嫉妬も身近な人であるから起こってしまう感情
なのですが、義務と責任が伴わない所有関係がない人への嫉妬は、
幼児などが持つ単なる僻み感情だから未熟なのです。
子供が自立し扶養義務と責任が消滅しても、所有意識を捨てることが
できない親が多いから毒親という軋轢が起こっているのですが、
殺人の半数以上が親族間であることも嫉妬に起因したもので、
その間違った嫉妬を昇華できない精神的な未熟さが原因です。
勿論恋人や伴侶などを独占したいと思う感情は当然のことで、
義務と責任の裏に存在している権利があるから嫉妬は起こりますが、
ストーカーなどのように相互に恋愛感情が成立していないのに
嫉妬する行為などは、合意もなく義務と責任も果たしていない
人間による完全な権利の侵害行為だから違法行為になるのです。
親子の愛に例えると理解できると思うのですが、基本的に
愛情とは贈与するもので返礼を要求するものではないのですが、
夫婦や子供などが思春期頃になると、伴侶や子供達にも
『私がこんなに思っているのに』と贈与の返礼を求めがちですが、
返礼を要求すると建設的な愛情へと高まることには決して繋がらず、
もつれた糸のようになり愛が自我衝突の原因になってしまいます。
恋愛と違って日常的な愛情を育てるには、意識的に情熱的な感情を
抑制し、その情熱を浄化させてから愛を向上させる動機にして
行かないと、愛情は健全な形に育って行かないような気がします。
子供のためと言いながら勉強など様々なことを強要していると、
その反動として非行や引き籠りなどの社会現象が起こっているのは、
『本当に子供のためか? もしかしたら親自身の見栄のためか?』
自問自答してみる余裕がなく、親自身が判らなくなって起こっています。
この浄化とは愛することに対して利己的な考え方を排除することで、
『純真な気持ちで相手を信頼する』ということを指しているのですが、
その姿勢さえ保っていれば夫婦の愛も、親子の愛も、他者との愛も
自然に健全な形で育っていく理由は、この純真な信頼行為には
相手への同情があり相手を赦すことがいつも含まれているからです。
時折不純な感情として見受けられるのが『嫉妬されることの快楽』を
楽しむ傾向のある人がおりますが、これはある種の優越感を味わう
愛を育てるためには極めて危険な感情で、それが相手を貶める
利己心の肥大を生むので大切な愛が破綻する道に繋がっています。
私は決して博愛主義者ではなく、身近な好きな人しか愛せないという
非人情の部分が多い人間ですが、悲しみに暮れている人には
心から同情しますし、喜びに浸っている人には心から『よかったね』と
思うのですが、最近の傾向として感じることは人の不幸を見て
自分の幸せを確認し、人の幸せを見て自分の不幸を確認するという、
幸せを相対評価で考える人が増加したような気がしていますが、
幸せとは絶対評価で考えないと見つけ得られないものです。
もうひとつの不純さの蔓延は、社会的な弱者を標的にして
『声高に正義を振り廻す』傾向が増長していることで、
匿名による誹謗中傷やクレーマーの増加などは、
嫉妬を越えた僻み・妬み感情の放出ですが、そこには他者への
愛情の欠片も持てない愛に飢え開き直った獣がいるように感じます。
愛情を育てるということは同情し同化することが基本で、
子供なども赤ちゃんのときは愛されることは無条件に存在して
いたのですが、成長するにつれてお互いに不平や不満が生まれ
条件的な愛に変貌しがちなのですが、この頃から自分の子供でも
『ひとりの人間としての人格を尊重する』姿勢で臨むことを
意識的にしていないと、条件的な愛の罠に嵌まり込んでしまいます。
同情と同化とは相手の身になって考えることで、これを考えないで
子供に接することはたとえ親でも我儘な言動になると知ることです。
誰でも自分の子供を愛しながらも、親も子供に愛されたい思いは
あるのですが、思春期頃からは世代的な考え方の違いを強要しない
ことが大切で、注意したいときは子供の考え方の良い所を認めてから
親の意見を添える配慮をすると愛情として確実に伝わります。
人は廻りの人間に非難されたり理解されないとき孤独感に
苛まれますが、このようなときに感じるのは僻みなのですが、
そんなときその中心にいる人に対して嫉妬心を持ちます。
しかしその嫉妬心が傲慢なものであることには気付いておらず
自分への理解を求めますが、他人を自分の思い通りにしようするのは
傲慢で不遜な考えで、思い通りにできるのは自分だけと知ることです。
他人の考えに振り回されずに自分らしく振る舞うことが一番大切で、
そんなあなたを理解してくれる人は必ず現れ、そこから恋愛や友情が
生まれ家族愛なども不遜と傲慢を捨てると確実に育って行きます。
嫉妬や僻みや妬みなどの悪情が起こるのは、自分の思いを理解
して欲しいという自我の強さのためで、その悪感情を鎮める方策は
その悪状況に抗わずに身を任せ『身体と心の力を抜く』ことです。
誰の人生にもピンチもあればチャンスもあるのですが、
ピンチに抗う人ほど蟻地獄に嵌って抜けられなくなるもので、
ピンチを受け入れ耐えて身を任せ流される勇気のある人には不思議と
チャンスが訪れるのは、その人が気づかない所で潔く耐えている
様子を愛情を持って見守っている人が必ずいるからです。
嫉妬心とは基本的に相手を自分と同等か? より下と見なしている
感情から起こっているもので、その理由は飛び抜けて才能のある人に
対して羨望はあっても嫉妬心は決して起こらないからです。
時折ですが嫉妬心が異常に強い人がおりますが、この様な人は
自分自身に自信が持てない自尊心が低いために起こっており、
養育期に十分な愛情に満たされなかった自己肯定感の獲得に
失敗した経歴が原因ですので、専門のメンタルクリニックにおいて
自尊心を高める訓練プログラムを受けることが望まれます。
過剰な嫉妬心とは相手を信頼するという愛情不足から起こっており、
それが支配欲に発展しDV行為に繋がる場合がありますので、
そんな人との交際は早めに断ち切ることが賢明で必要な対策です。
愛情とは確信を持って相手を信頼し赦す心を持ち続けることで、
嫉妬とは逆の不安から相手を疑い自分自身も相手も傷つけるという
極めて危険な心理状態に陥って起こっています。
嫉妬心の根底にあるものは自分の価値を認めて欲しいという
『承認欲求』なのですが、この気持ちが強すぎるから反対に
承認されない悪循環に落ち込んでしまっているのです。
自分自身の価値観を認めて欲しければ、相手の価値観を認める
ところから始めないと駄目なのですが、そうすると自分自身の
アイデンティティやプライドが傷つくと思ってしまう未熟さなのです。
このような人達が増えた背景には核家族化の中で、家族関係が
もつれそれぞれが孤立した環境に追い込まれた結果と、
安易な逃げ道として普及したネット社会との繋がりがあります。
インターネットで自分に都合の良い情報だけにアクセスし続け、
不都合な意見を排除しているうちに『自分で自分を洗脳』して
しまう罠に嵌まってしまい、ある種の信念のようになってしまって
自分の言動は正しいと思い込んで行っているから危険なのです。
トルストイの言葉ですが『嫉妬とは愛の保証への要求である』は
誰もが持つ承認欲求であり、『愛は理性の帰結ではない、歓喜に
満ちた生命活動そのものである』は愛すべき対象がいること
こそが人間の生きる喜びに繋がっているものであるということで、
『家が幸福でなければ、どこでも幸福になれない』という言葉
こそが真実で、家族に囲まれた家庭こそが人間の生まれた原点で、
愛と嫉妬と幸せを厳粛に見つめた含蓄に富んだ深い言葉です。
人間は自分自身のために生きていると思いがちですが、
実は誰かのために生きる愛で強さが発揮され身に付いており、
誰かのための愛に生きているときにこそ充実感を感じているという
逆説的で矛盾した複雑な生き物が人間なのです。