好きな人ができて結婚して子供ができ、生まれた瞬間から突然親に
なり子供が授かったときの喜びは感動を伴うのですが、そこから
始まる子育てとは先の見えない不安な冒険旅行のようなものです。
子供に何かあるたびに不安になるのは、子供によって対応策が違い
正解など判らない試行錯誤の連続だからで、祖父・祖母になっても
子供達や孫達に『どのように振る舞うべきか?』など、親になってから
死を迎えるまで終わりなき親としての修行の連続なのです。
子供の成長と共に父親と母親として成長して行くための修行ですが、
同時に妻として夫として和解を深め成熟した関係を育むことで、
家族全員が一緒に育っていくところが家庭という場所なのです。
三組に一組が離婚している原因は何か? を最近考えたのですが、
それは『家族がいても家庭を創造できなかった』からではないか?
と思われ、そこにはバラバラな家族がいるだけで、それぞれが
それぞれを思いやる安らぎの家庭を築けなかった破綻だと思います。
最初は夫婦や親子に会話がない家庭内別居から始まるのですが、
ではなぜそうなってしまうのか? の理由の答えはひとつで、
『他者と共に暮らす忍耐』をするという、精神的に成熟しようとする
愛情を継続して持てない人達が増えた結果のように思います。
この耐える力を落としたものは核家族化で、昔は大家族の中で
お互いに干渉し合って暮らしていたので、必然的に日常生活で
我慢を強いられていたから自然に身に付いたのだと思います。
現在『伴侶や子供の悩みや関心事を知っていますか?』と
と聞かれて、多分でも良いので答えられる人がどれだけいるか?
この質問に答えられる人が家庭を構成している家族と言えて、
いつも過剰ではない適度の関心を家族に持ち続け、時には
適度に干渉し応援するという絆で結ばれた家庭が創造できます。
この関心・干渉・応援がなければ『家族がいても家庭が存在しない』
ことに繋がり、そこから発生するお互いの愛情確認ができないので、
家庭が癒し癒される会話のある場所へと発展しないのですが、
この家庭が癒しの場でないことが子供の非行や家庭内別居や
離婚の原因に繋がっていると私は思っています。
子供がいない家庭の離婚は大人ふたりだけの問題ですが、
私は母子・父子家庭の増加は少しでも減少させたい思いが強く、
それは子供のためだけではなく片親による金銭的・肉体的・
精神的な負担の重さに加えて、日本は母子・父子家庭に対して
国家的な援助が金銭的にも福祉面でも少ない厳しい状況なので、
安易な離婚に至らない考え方の一助になればと思うのです。
家族や家庭の形とは様々なのですが、それは違った文化で育った
他人同士の同居から始まっていることが最初の難問としてあり、
その上に職業的な違いのサラリーマンか? 農家か? 自営業か?
などの違いにも一長一短があり、最近のように共働き世帯が増えると
会話の時間的な余裕も少なくなり、子育てが始まると尚更に忙しくなり、
家族の会話だけでなく触れ合いの時間である関心・干渉・応援も
減少するので、家庭の平和を維持する難問が次々に起ってきます。
そんな難問を抱えたときほど意識の持ち方が非常に重要で、
人間はいつも今の問題を最大に考え捉われがちですので、意識的に
いつも少し先の問題を考えるようにすると心に余裕が生まれます。
幼児期の子育ては主に肉体的な忙しさですが、成長してあまり手が
かからなくなると今度は金銭的な忙しさに追われるようになります。
人生とはエンドレスで次から次へと問題が起こるようにできており、
子供が自立してホッとすると親の介護の問題などが起こり、
それを無事に終えたときは自分自身の老いの問題が迫っています。
これが人生の実態なのですから、いつも今を楽しむ心の余裕
を持つことが様々な未来の問題を小さくするという認識を持つ
ことが大切で、この余裕が家庭の平和を支えているのです。
夫婦ふたりの問題などより、子供が生まれ家族が増えるほどに
様々な問題も山積してくるのですが、この子育てを無事に
乗り切ることが未来の様々な問題を小さくすることですので、
そのことを中心にそのための心構えと対処法を述べたいと思います。
まず親としての適正を持っている人などいないと認識することで、
『育児とは育自』で子供を育てながら同時に自分達も親として
育っていくある種の戦いなのですが、基本的に子供には学業よりも
『他人に迷惑をかけない』人間に育てることを目標にすることです。
教育とは『社会的適応による子供の自立』を最終目標にしており、
社会に出て他者と関わり自分を表現して生活する社会性の獲得が
自立なので、他人に迷惑をかけない人間になることが最優先です。
次が遊びや好きなことへの『集中力』を伸ばしてあげることで、
次が『感情の豊かさ』を育み見守り続けることで、この二つを育み
見守っていると学業は自然と時期が来ると伸びて行くものです。
エジソンもアインシュタインも子供の頃は出来が悪かったように、
大器晩成型の方が伸びるのはこの要素が関係しているからです。
家庭の基本は両親が仲良くして連携プレーの息が合っていることで、
それぞれの役割分担を夫婦で話し合い、お互いを信頼し
話し合って問題対処への方針をしっかり決めて進めることですので、
夫の方も仕事と同じ比重で家庭にも配慮することが大切で、
時には仕事より家庭を優先する決断ができなければ家長失格です。
借財に追われ続けた私も最初の頃は『働くことが家族のため』と
思い込んでいたのですが、初めての子育てに戸惑う妻の様子を
見ていて、お金は取り戻せても妻と娘の今は取り戻せないと思い、
今こそふたりへの関心を持ち干渉と応援をすべきと決意しました。
これは子育てにおける例えですが、母親は検察官に徹して
父親は裁判官の役目をするような形が理想的だと思っています。
検察官とは事件の内容を精査し起訴と不起訴を決定するのが
役目ですが、母親は子供の日常を日々正確につかみ、
父親に報告し判断を仰ぐべきか? この程度のことは自分で
処理すべきか? を検察官のような立場で精査するのです。
この姿勢で最終判断を裁判官である父親に委ねるようにすると、
自然と父親も子育てへの責任が発生し決断しなければならず、
又この過程には二人の合議によるという、性急な結論を出さない
熟慮が伴っていますので、様々な判断ミスを防ぐことに繋がって
いるので、子供に適切な対処ができることにも繋がっています。
また結論を急がないことが『子供の気持ちを思い測る』ことにも
繋がっており、特に思春期は友人関係でも進路でも迷いから
本音を言わない時期ですので、時には意識的に自分の思春期の
失敗などを子供に正直に話しながら急がずに対処すべきです。
一般的には学業の成績に片寄りがちですが、大切なのは社会性と
本人自身の気持ちなのですが、その本人の気持ち自体が漠然と
しているのが思春期の特徴なのですから、両親が自分達の思春期の
頃を振り返りながら子供との意思の疎通を測って向い合うだけで、
起こり得る様々な問題の半分以上は防げると私は思っています。
子供の意見を聞く前に、親が自分の思春期の悩みや葛藤を話す
と子供も話し易くなり、話すうちに子供の漠然とした悩みや葛藤が
明確になる福音効果にも繋がっています。
子供の大きな障害に繋がる一番の要因は両親の方針が違うことで、
進路などでも子供の意見を聞く前に両親で話し合っておくことです。
その後に子供の希望を聞き、父親が責任を持って最終決断を下す
ことが夫婦の結束にも繋がり、このような過程を踏むことが子供の
自覚と覚悟も生みますので、子供への関心・干渉・応援が
両親の愛情であることが正確に伝わります。
問題児を生んでいる家庭の特徴は母親任せで、母親が調書を作る
検察官と判決を下す裁判官の二役をしており、将来を俯瞰した視点で
捉える第三者的な役割を担う夫不在の家庭が多い片輪走行だから、
子供も母親も精神面が不安定になりがちなので、まるで漂流する
ように社会の荒波に巻き込まれ流されて行くのだと思います。
父親とは金銭的に家庭を社会の荒波から守るだけではなく、
家族全員が精神的な面でも漂流しないようにする舵取りと、
船の錨のような重しの効いた役目を果たす責任があると思います。
このような責任と決断の役目を夫が果たしていたら、妻の方も子供を
じっくり眺め観察する義務と責任に張り合いと安心が生まれます。
特に進路などは社会との繋がりが多い父親がアドバイスすることは
有効で、最終的な子供の決断にも参考になると思います。
幼児期の問題のほとんどは親が介入して解決できることですが、
思春期以後は本人が解決しなければならないことばかりですので、
それまでに如何にして子供の自主性を育てるか? が大切で、
幼児期から過干渉にならないように育てることが親に求められます。
何ごとも結果への対処療法になりがちですが、物事の結果には
必ず原因があり子供の問題などは、両親の意志の疎通があれば
ほとんどが未然に防げるもので、この両親の意思の疎通こそが
実は夫婦の絆を強くし幹を太く育てている家庭の根幹なのです。
たとえ思春期に問題行動を起こしても、父親が騒がずに学校や
社会に対して毅然とした態度で謝罪し責任を取ると、子供に小言を
言うよりも子供の薬になるもので、それを見た子供も妻も父の潔さに
敬意と大黒柱として逞しさを覚えるので、これこそが父親の役目です。
一般的には『親に恥をかかせた』などと騒ぎ立てますが、
『この子を育てた私の責任です』と謝罪し恥をかくのが親の役割で、
子供が何か認められることがあれば、それは親を越えた子供自身の
力なのだと素直に子供を称賛することが更なる飛躍に繋がります。
親の仕事とはひたすら子供への責任を果たすことで、子供の
努力による成果は全て子供自身の力と認め自由に飛び立てる
ようにすることなのですが、一般的にはこの責任を果たさない親ほど
成功した子供にハイエナのようにまとわりつく毒親が多いのです。
このようになる親は夫婦仲が悪いのが特徴で、夫は子供の教育は
妻の責任にして文句だけ言い、家計のやりくりを責めて機嫌が
悪いと家族に当たり散らし、妻の両親の悪口を平気で言ったり、
妻や子供に説教したりする奴ほど自分の責任を果たさない人です。
この義務と責任を家族に押し付け、自分の自由と権利を振り廻す
幼児体質の夫は、いつも自分が正しいという主張に終始するので、
この未熟な夫によることなども離婚原因として多いと思います。
妻も子供の前で夫の悪口を言い、自分の正当性は言っても
子供や夫の立場を立てて仲介役を果たすようなことがないので、
絶えずお互いを攻め合うような会話だけの家庭になります。
夫婦だけならそれでも良いのですが、このような家庭環境の中で
育つ子供が勉強だけでなく何かに前向きに取り組むように果たして
なれるものか? 子供の立場になって考えると判ると思います。
これは人間関係だけでなく、何事においても壊すのは簡単ですが
創り上げ維持することには努力と忍耐が必要で、人間関係とは
壊れやすいものと認識して『一時の感情に振り回されない』忍耐を
お互いに持ち続ける以外に方策はなく、この他者と共存する
ための忍耐を家庭生活の核として両親が意識すべきことなのです。
家庭において夫婦が居心地の良い場所であれば、
その家庭は子供にとっても居心地の良い場所になるのですから、
当然子供に起こり得る様々な問題は少なくなると思います。
ハリネズミが身体を寄せ合えばお互いを傷つけ合うように、
一緒に暮らす家族もお互いの人格を尊重した適正な距離を保つ
ことで、その適正な距離から家庭の温もりと癒しが生まれるのです。
母子・父子家庭でも癌細胞のような父や母がいない方が、
片親の懸命な姿を子供が見て育てば真っ直ぐに育つもので、
最後は親の生きる姿勢みたいなものが子供を育てているのです。
私の場合は特殊で駄目な父を反面教師として学んだのですが、
それができたのは祖父母との同居の中で、他の兄弟も知らない所で
祖父からの慈愛を私だけが授かったことが多々あったからで、
もし核家族でこの慈愛による自己肯定感を獲得できなかったら、
私はきっと押し潰され生きる力に変換できなかったと思います。
夫婦の会話がなくなる理由は先に書きましたが、子供との会話が
なくなる最大の理由が『勉強しろ』で、私はこの勉強というただ一つの
価値観から親自身が離れてみる必要があると思っていたので、
娘を育てるとき『勉強しなさい』とは一度も言わなかったと思います。
娘に『なぜ勉強するのか』を聞かれたときに理由を話し、勉強は
生き抜くための手段であり目的ではないが、手段を多く持っている
方が生き残りの確率が上がり快適に生きることに繋がると話しました。
勉強は習慣が大切なので、小学校三年生頃まではテストが
戻ってくると間違っているところを一緒に復習し、理解できたら
点数を『100点』に書き直したので娘は喜んで復習し習慣化しました。
私は勉強より遊びの中で身に付ける会話力の方がずーっと大切
と思っていたので、その頃の娘の高校では許可しなかったのですが、
大人との会話練習にセブンイレブンのバイトを私が許可しました。
小学校の高学年頃からは自立への始まりとして子供への干渉を
減らして行くことで、勉強なども自分なりに工夫するようにするために、
少しずつ言いたいことを我慢することを意識的にすることです。
その中で失敗することを学び、試行錯誤を通じて葛藤しながら
自分なりの生き方を模索し、自我を確立する大切な時期なのです。
この頃から親も子離れを準備する始まりと意識すべきで、
その理由はかすがいの子供が巣立ち夫婦ふたりになってから、
会話がない生活になったら何とも虚しく寂しいものですので、
子供の思春期頃からは夫婦の会話を意識的に増やすことで、
その方が子供にも居心地の良い和やかな癒し癒される家庭に
繋がり、充分に依存感情を満たした子供は見事に巣立って行きます。
日本では豊かになるにつれて鬱病や自殺が増え高止まりして
いますが、それは家庭が癒し癒される場でなくなったからで、
その一番の原因が本来手段であるべきものを目的化したことです。
勉強もお金も生活と何かしたいこと実現の手段なのに目的化し、
競争に勝つことを目的に努力するという、本末転倒現象によって
焦燥感に苛まれ鬱に追い込まれているのです。
同時に『人にどう思われるか?』を過剰に意識する傾向が強いのは、
手段の目的化による競争激化が不安の増大に繋がっているからで、
この横並び志向の不安なども健全な自己肯定感が家庭生活の中で
子供時代に養われていないからです。
子供を育てるとき夫婦がお互いの長所に感謝し欠点には耐えて
仲良く過ごし、家族への適度な関心を示しながら干渉し応援する
姿勢を保つことが子供の自立への近道であり、その過程にこそ
家族それぞれの人生の意義があり、その間に耐え忍んだ回り道が
安心で平和な老後を迎えられることに繋がっているのです。
たった一度の人生をお金や地位や権力を得ることに費やすより、
多くの人と心を通わせ家族全員が家族を思う家庭を創造する方が、
生きた証として実感でき死も穏やかに迎えられるとは思っても、
離婚した方がそれぞれが幸せな夫婦の形があるのも事実です。
どんなに立派な豪邸や億ションに住み高級車に乗っていても、そこで
生活する家族が『癒されない場所だったら』そこには家庭はなく、
賃貸住宅でも家族相互の思いやりという温もりがあれば家庭です。
見えている物などに愛の実態はない虚像で、見えないものにこそ
実は愛の実態が存在しており生きる力を育んでいる家庭なのです。
ひとり身になった今の私は、『お帰りなさい、ご苦労様』と言って
くれた妻との温もりの想い出を糧に生き長らえている毎日ですが、
親子や夫婦の愛憎を耐え忍ぶ先に和解と人間的な成熟があり、
この忍耐こそが子供にとっても親としての成熟にも必要条件で、
干渉の葛藤と応援の和解の繰り返しで情愛と絆を育み続けることが、
ささやかな幸せを手に入れ維持する十分条件のような気がします。
夫婦や親子の愛憎などは結果論でしか語れないのですが、
同様にそれぞれの家庭のあり方なども結果論でしか語れないので、
私の考えに異論やご不満などがあるのは承知の上ですが、
物事の結果とは偶然より必然で起こっていることの方が多いのです。