脱サラしてから行商一年半を経てプレハブ小屋で十年、今の店舗で
三十六年を経過しましたが、店舗を持ってからはホステスのように
ひたすら来店客を待つという受け身の生活を延々と続けてきたの
ですが、その間ずーっとガラスドアー二枚越しに世間を眺め続け
過ごしてきたのだなぁーという感慨に耽っている此の頃です。
商いとは単純に商品と金銭のやり取りのように捉えがちですが、
そこには生の人間の様々な人間模様を垣間見て学ぶだけでなく、
人間が持つ傲慢さや醜悪さや卑しさだけでなく優しさや高邁さにも
触れる機会があり、特に金銭的な利害が絡んだときの人間の本性が
剥き出しになる意外性などにも出会い、つくづく人間を理解することの
難しさを思い知らされる繰り返しの毎日でした。
社会的な地位や振る舞いだけでは判断できない人間性とは
育ったバックボーンが大きく影響しており、この育った環境の中で
どのような親で育ちどのような人と出会って、そのときにその人が
どのように対処したか? などの経験が決めているのですが、
特に思春期頃までの経験が家に例えると基礎に当たる
人間性の土台になっているようで、その人間性がその後の人生に
深く長く良くも悪くも作用し続けるものと思い到ります。
思春期ころまでは肉体的にも金銭的にも弱者なのですが、
その弱者のときに慈愛を授かった経験があるか? ないか?
物質的に満たされたか? 満たされなかったか? などの
様々な精神的・物質的な飢えを経験したか? しなかったか?
などは、本人が自覚しても自覚していなくても身体のシミのように
心の襞に染み込んでおり、人生の様々な場面における選択と
決断のときに逃れようのない人間性として表出してしている
怖いもので、その紙一重の選択が幸運や悪運に繋がっています。
親子の場合は良いことも悪いことも、まるで母の体臭として
父の体臭として記憶されているもので、その記憶は五感を伴って
身体の奥深くまで染み込んでしまうもののような気がします。
多くのお客様と接して思うことは、どんなに美人でも紳士でも
醜い行為や言葉の中にある傲慢さに接すると醜く見えるもので、
反対に特別美人でも紳士でなくても奥ゆかしさや優しさや潔さなど
が垣間見えると、何とも言えぬ爽快な体臭が漂って好感を覚え、
その内面的な美しさが表情や仕草などに出ているのが判ります。
こんなことを考えて店頭にいるので、必然的に偽善者は警戒する
ので固定客にはならず、ほとんどの固定客の人は夫婦や家族の
ことなども自然に話され相談されたりするので、様々な夫婦の形と
様々な家庭の文化があることを思い知らされ学んできました。
一番心を痛めた相談は夫のDV被害で、これなどほとんどの人は
口を閉ざしますので潜在的には思っているより沢山いると思います。
妻にDVをする男は子供にもしており、身体的な暴力だけでなく
言葉の暴力などは私も初めて言ってしまったとき、妻の悲しそうな
表情を見て好きな人を傷つけてしまった自己嫌悪に落ちこみ
謝罪しましたが、妻は執念深く覚えていて最初の頃はその言葉を
時々持ち出されたのでひたすらの謝罪だけでした。
DVとは人間の誰もが持つ一種の征服欲の表出で、
強弱はあっても全然ないと言える人はいないと思いますが、
大切なのはその征服欲を誰に向けるか? がキーポイントです。
妻がウジウジ・チクチク言ったのは私の征服欲への一種の反逆で、
DVとは日頃抱えている鬱屈の反作用から、自分より弱者を見つけて
征服欲で消化するという精神的に弱く醜い人間のすることですので、
他者への征服欲こそが自分自身の弱さの証明と自覚させられました。
この無意識に行う他者への征服欲という弱さを自覚してから、
自分の弱さを克服し自分自身を征服しなければと思い、
その方法は果たしてどのような行為なのか? を思案し、
考え続けて出た答えは逆説の相手に征服されることで、
相手の喜ぶことをしてあげることでした。
この征服されるという自虐的な行為には、日常的な返礼として
微笑みや好感という心地良いものが添付されていたので、
いつも一緒にいてホッとするような安寧のときが訪れたのでした。
それは相手の喜びを見て自分の喜びに感じる気持ちですが、
これは自己満足の快楽よりはるかに強く持続する快楽で、
愛される快楽よりも満足度が高い、愛する快楽に繋がっていました。
食欲と性欲は本能的なもので教養などとは無関係なものですが、
男も女も愛のないセックスに走る人は性的な充足感は得られず、
人間の生きる源泉である自尊心の低下を必ず招くのは、
単なる肉体的な征服感に終わるからで、この自己顕示的な行為後の
虚無感の積み重ねはヒステリー傾向の精神病に進んで行きます。
性的な肉体的なものも精神的なものも相手に喜びを与えることを
優先し、その喜びを見て自分の喜びにする行為を心掛けてから、
私の日常生活の情緒が極めて安定して過ごせるようになり、
不思議なことにストレスへの耐性が強くなっていました。
一見邪悪な言葉の『征服欲』ですが、それを他者にむけるか?
自分の中に潜む邪悪さの征服に向けるか? でその後の行為は
全く違ったものになることを妻のささやかな抵抗が教えたのです。
つまり暴力のDVでも言葉によるパワハラでも行っている人は、
自分自身の弱さに怯え怒り狂っている真の弱者行為なのです。
男が持つ普遍性とは好色で無邪気でケチで虚栄心が強く、
図太さと臆病さを併せ持っていることで、それらの獣的な要素を
克服できずに混沌から抜け出そうともがいている悲しい性が
男にはあり、男それぞれの弱さと強さや失敗と成功の結果が、
家庭における行動に投影され人間性として表出しているのです。
私自身は妻や娘だけでなく誰にも手を上げるような暴力の
経験はないのですが、言葉によるパワハラ的な暴力は自制できず
少ないけれどやはりあったと自覚しています。
この経験を振り返ってみても邪悪な征服欲に害はあっても益はなく、
人間関係の悪化を招いていただけでなく、肝心の相手の内省を
促すような良い結果には決して繋がってはいなかったのです。
征服欲とは相手と仲良く暮らしたいという思いより、対象相手を
思い通りにしたいという支配欲の方が強い人が持つもので、
このタイプは思い通りにならないと急激に愛情が冷める人達です。
似たような言葉に独占欲がありますが、こちらは対象相手を
独り占めしたいという幼児的なストーカーに見られる感情で、
付き合いや生活を始めてから執着心が強くなる傾向があり、
その裏側には相手の心が自分から離れてしまうのではないか?
という不安心理が強く働いて起こっています。
征服欲と独占欲はどちらも自分に自信がないタイプが多く持ち、
その不安心理の裏返し行為なのですが、どちらも過度な人物は
精神的な未成熟による分裂病タイプが多いので極めて危険です。
言葉で成熟・未熟と言っても、誰しもが未成熟な状態で生まれており、
成熟という熟成のためには腐ることが必要条件としてあるので、
若いときは腐敗を避けず恐れずさらけだして過ごすことも必要です。
この腐敗が尊いものになるか? 卑しいものになるか? は
熟成という年月が決めるのですが、その腐敗を発酵させ熟成に
繋げる発酵の触媒になる酵母は様々な人達との出会いです。
子供の腐敗時期などは、そのような余裕を持って眺めている方が
意外と良い結果を生むのではないか? と私は思っており、
そんな親の心の余裕が子供の心の余裕を生むことに必ず繋がって
いるから、決して大事に到らず子供はむしろ飛躍的に成長します。
そんなことを考えながら店頭から世間を眺めているのですが、
出会いにおける有益な触媒になる人物の選択基準ですが、
権力を得た多くの人を征服している人を選択するのではなく、
自分自身の邪悪さを征服する努力をしている本物の強さを持った
優しい人との出会いを優先することで、そんな真の人間観察眼の
知恵を身に付けると腐敗が発酵し熟成して人間性にコクがでます。
金銭的に豊かな生活を目指すことが常識化されていますが、
長い人生を実りある豊かなものにするためには金銭優先は邪道で、
物質的な満足より精神的な満足が最終的な生きた証になるのです。
安寧の幸せを手に入れる十分条件は、地位やお金や権力ではなく、
対象相手の人間性を尊重し接する正道を守り続けることです。
長年に渡り金銭的に余裕がない生活を続けた私が言うのは
『負け犬の遠吠え』なのですが、少しでも多くの人と思い思われる
関係を築くのが人生の意義と思うので、やがて訪れる死を
心の片隅に置いて、残りの人生もそのような関係の構築を目指して
毎日を楽しみ過ごしたいと願っております。