共犯関係の絆と化学反応。

人間の絆を形造り強めるためには様々な方策があるのですが、

その方策は対象相手との関係性によって多少方法が違います。

親子や師弟関係の場合には日常生活の中に上下関係が

存在しますので、その日常の中に親や先生から愛情を肌で感じ

取るような声掛けや行為を受け取っていることが前提にないと、

芽を吹くような絆の糸は子供や生徒から発芽して来ないのです。

人間の強さを生む根源は『自分は愛されている』という自覚で、

この自覚は親や先生による自分への自己犠牲的な行為を

目の当たりにしたとき実感され、その瞬間から絆を求める糸は

静かに芽吹き始めますが、最初は極めて利己的で一方的なものです。

私が思う人間の成熟度の指標は、自分の贈与を小さく見積もり

恩に着せず他者からの贈与を大きく感じる人が成熟した人で、

未熟な人は利害関係で贈与を考えるタイプで、自分の贈与を

恩に着せ他者からの贈与を軽く考え恩をすぐ忘れるような人です。

子供は未成熟で生まれてきていますが、成熟した大人と接する

ことが成熟への近道ですので、できるだけ寛容の精神で

未成熟を容認してあげ気付きを待ち耐え続ける愛情が必要です。

親子でも夫婦でも『愛』を育て絆の幹を太くするのは忍耐ですが、

最後の砦は『相手を信じ切る強さ』をどれだけ持てるか? で、

さりげない日常における利己的な振る舞いや不信を、

大切な場面で如何に払拭し信頼し切るか? にかかっており、

その信頼の強さが相手の内省力を育み絆を太くするのです。

友人や私と孫達のような上下関係のない横の繋がりの場合は、

ある罪悪行為の共犯関係が存在すると絆が強化されるようで、

高校・短大・就職まで一緒だった友人とは、警察沙汰にならない

程度ですが学校へ行かず遊び呆けるなど様々な悪事を共有した

連続でしたが、信義における根本的な価値観みたいなものは

一致していたから今まで関係が継続できたのだと思います。

私と孫達だけ三人のときも上下関係は存在しないのですが、

対社会的な状況に置かれたとき孫達はわきまえていて、

『爺じは大人でしょ』とふたりは言って私に対処を促します。

お迎えを頼まれたときは一時間ほど一緒に過ごし、

車の中で親に内緒でチョコやグミを食べたり、公園で二人に

ミッションを与え達成するとご褒美を与えたりして過ごすのですが、

帰宅時間がきて家に到着するとふたりは車の鏡に向かい

私にティッシュペーパーを要求し口のまわりを拭います。

娘も婿殿も知らないふりをしてくれていますが、この秘密行為の

共有こそが三人だけの信頼と絆を育んでいることに繋がっていて、

何か親にも言えない悩みや苦悩を抱えたとき相談してくれます。

四年生のお姉ちゃんは時々その悩みを吐露したり、

解決策の助言を求めたりするようになっておりますが、

学校での勉強や友人関係の葛藤があるときは、家に着いても

中々車から降りないのですが、私がひたすら待っていると

先日は突然『爺じといると何だかホッツとするんだよね!』と言い、

抱えている悩みを話し始めました。

この安心感はお姉ちゃんの弱さや邪悪さも私が容認していることを

指しており、このようなガス抜きの役目が私にあると思っていますが、

悩みや苦しみの葛藤が成熟への道なので、何となく判っていても

相談されるまでは決して助言はしないように心掛けています。

子供は成長と共に役割が増えて行き、頭で判っている事と

実際の自分が行っている事との狭間で葛藤を積み重ねて成長する

のですが、『この人はどんな自分でも愛してくれる』という人が

存在すれば、子供は必ずしなやかな強さに繋げて行くものです。

下の孫も来年は一年生になるので、遊ぶだけの保育園とは違う

相対評価環境が強まり葛藤が増えますので、今のうちに

ふたりとは邪悪さの共有という共犯関係で絆を強化しているのです。

夫婦関係なども長い年月を経過すると、親子や兄弟よりも

固い信頼関係で結ばれるようになるのは、辛苦を共にする

だけでなく剥き出しにした感情のやりとりの経験や、夫婦という

利害が一致した立場による共犯関係などが存在しているからです。

人はひとりでは生きられない動物で、誰かからの愛情と信頼を

受け取って生きる力に繋げているのですが、無意識なのですが

同じ病気を持っているとか、同じ職業だとか、同じ境遇だったとか

などの共通項があると何気ない言葉が身に染みてくるのも、

この共犯関係の絆に似たところがあるように私は思っています。

人間性を形造るのは学びと経験によるのですが、最終的に

血となり肉となるものは経験の方で、この経験の想い出が

良いものが多いか? 悪いものが多いか? に影響されながら、

最終的には生まれ持った性格との化学反応で形造られます。

化学反応というと私は妻との生活を想い出すのですが、

人間には相性というものがあるようで、お互いを触媒として

良い化学反応を起こすか? 悪い化学反応で猛毒を発生させるか?

の違いなどは相性というより言葉がありませんが、相性が悪いと

共犯関係の絆などは決して築くことができないように思います。

孫達の未来を思うと、子供のときは愛を求めますが大人になると

『愛する人がいないと強くなれない』ことに無意識的に気付くから、

性と自我に目覚める思春期頃から愛する人を求めるようになる

のですが、その人を愛するときに愛された経験が役に立ち、

正しい方法と形で人を愛することができる未来に繋がっています。

この愛する行為に一番必要なのが自制心ですので、

私は孫達のチョコやグミの食べる量は決して制限せず、

声掛けは『晩ご飯を食べられるように、よろしくお願いしまーす

言うだけで、ひたすら欲望と快楽の解放を見守っております。

最初は自制が効かず失敗を重ねますが、次第に失敗から学び

最近はお姉ちゃんが『この辺で止めよう』と言うと,妹も思案しながら

お姉ちゃんから学び少しづつですが自制できるようになっています。

勉強や仕事や家事を含めた人間の日常行為は、楽をしたい怠惰と

五感が求める快楽と闘いなのですが、その怠惰と快楽の誘惑を

強制ではなく自らの意志で断ち切る勇気が自制心ですので、

この自制心を幼少期から育んで身に付けさせてあげたいのです。

このように自らの失敗から学ぶ形で自己肯定感を育んでいくと、

分別が自然に身に付き飢えからの過剰な要求もしなくなるので

二人の成長を褒めちぎるのですが、褒め言葉は自制心の成長を

自ら自覚し確認できるのでやがて善循環が起こり始めます。

妻が生きていたら孫達は妻を触媒にどんな化学反応を起こして

いたか? を思うときがあり、妻も孫達を触媒にどんな化学反応を

起こしていたか? を想像しながら二人と接しています。

子供ができると責任と自覚が生まれるのも化学反応ですが、

日常に様々な出会いによる良い意味での化学反応が多い人ほど

人生を楽しく豊かにできるのではないか? と思っていますが、

そんな人間関係の中で清廉潔白を求めたり、つまらぬ正義など

振り廻したりするから心が窮屈になり関係が悪化するのです。

何が正しいことか? は自明のことで誰でも判っているのですから、

あえて目をつぶって利己的な欲望を放出させるのが深い愛です。

私も世間的には悪いと判っていて行った行為がたくさんあり、

月曜日が定休日なので娘が病気と学校に嘘の電話をして

家族で一日遊び呆けて夜の十時頃帰宅するなどしたのですが、

そんなときも妻は建前の綺麗事を何も言わず一緒に共犯者に

なり楽しんでくれたので、私への信頼と愛情を確信したものです。

残り少ない私の余生も、孫達と秘密の少し邪悪な薬味を

効かせて日常にコクを出すような濃密な共犯関係を築き

三人だけの善悪の境界線を少しずつ広げて行くことで楽しい

想い出を増やして行き、そこから生まれる絆をより一層強く太くして

たくさんの想い出を妻への冥土のみやげにしたいと思っています。