塩を舐める。

すべての陸上動物は塩の摂取なしに生きられないのですが、

豊かな時代になってから過剰摂取が高血圧の原因にもなり、

近年の生活習慣病の予防を考慮した程よい摂取量の目安は、

男女ともに一日6g未満が目標値だそうです。

塩に関して本で読んだイタリアの諺の『ひとりの人を理解するまで

には、少なくとも一トンの塩を一緒に舐めなければ駄目』という

言葉を知ったとき、色々な意味で深い言葉と記憶してしまいました。

塩なんて料理にそんなにたくさん使うものではないので、

一トンの塩を一緒に舐める間には、判り合える嬉しいことや

判り合えない悲しいことや、思うに任せぬ壁への苦しみなどがあり、

たったひとりの人間でも理解するには気が遠くなるような長い長い

時間が必要と言っている諺です。

これは夫婦でも親子でも友人関係においても言えることで、

喜怒哀楽の伴う人間関係を通じてお互いの人間性を確認するには、

『あっ、そうゆうふうに思うんだ』という別人格への承認が持てるまで、

冷や汗やあぶら汗をかいて塩分を失う過程と、生命維持のために

塩分を補給し続けなければならない長い日々を積み上げないと、

決して理解できないのがそれぞれの人間性なのだと思い到ります。

それは決して自分だけでなく相手も同じ思いを味わっており、

失った塩分を共にする食卓で補給する繰り返しの時間こそが、

癒し癒されるような傷を舐めあう関係に繋げる過程とも思えます。

日本の諺で『人に七癖、我が身に八癖』という言葉がありますが、

これは誰にでも七つ位は癖があるという意味と、

他人の癖はすぐ目につくが自分の欠点や癖には気がつかない

ものですよ! と忠告しているものです。

私などは誰の目にも判り易いほどに多くの癖があるのですが、

自分でも気が付いていなかった多くの悪癖は、結婚後の妻の

呆気にとられたような驚きの表情によって教えられました。

私の場合は『無くて七癖、有って四十八癖』のように、

一緒に暮らした人でないと判らないほどにたくさんあったようで、

塩を舐め尽くした十年後頃から妻は微笑み『いいんだよ』と

呆れるように言ってくれ、私はその言葉に救われ続けました。

塩を舐めるような関係は仕事や子育てや親類関係などにもあり、

生きるということは人間関係における葛藤と、金銭的な悩みの

狭間の中で困難辛苦と向き合い続けることで、その過程の中に

多少の充実感の伴う喜びや他者との連帯・共感という生への実感が

所々に散りばめられているようなものです。

人間とは日頃は見えず隠されている心の襞(ひだ)が何かの拍子に

表出するものですが、この隠されている傲慢さや優しさなどの

無数の心の襞を理解できる人とは、相手を『理解したい』と思い

続ける人だけが獲得できるもので、苦労を共にしてもこの思いを

持っていなければ相手の心の襞は決して理解できないものです。

成熟するということは『多くの他者を理解する』心の襞の数が

増えることで、若いときには全く見えなかったものが見えるようになり、

我慢できなかったことがごく自然に我慢できるようになるのも、

傷つき葛藤を繰り返し心の襞に刻んだ経験の記憶によるものです。

親から独立して、結婚して、子育てをして、老いてひとりになって、

それらの過程で上手く行ったことも挫折したことも含めて、

それぞれの人生の全てがそれぞれの心の襞に刻まれて、

それぞれ固有の人間性に到っております。

ひとりになって家族の有難味が判り、子育てをして親の有難味が判り、

伴侶を失って伴侶の有難味が判るような、人間の成熟には様々な

経験による心の襞を増やして行く以外に方法はないと思います。

塩を舐めるような苦労が成熟に繋がっていたと実感するためには、

若い頃に読んだ本や映画をもう一度読み見直すと一番判ります。

同じ本や映画でも様々な辛酸を舐めるような人生経験を重ねることで

意味や立場の解釈が変化したり、若いときには何も感じなかった

部分に感動を覚えるようになったりするなど、辛酸を舐めた量の多寡が

人生経験の豊かさになって理解が深まるもので、同じ小説や映画

なのに解釈の多様性が生まれてくることを実感できると思います。

書物も映画も隅から隅まで理解することの難しさがあるのですが、

若い頃に読んだ本を二十~三十年後に読んでみると、

心の襞に触れる箇所が全く違っていることに驚かされることがあります。

内容が全く同じ本や映画なのに、解釈も感動も全く別な箇所に

なる理由は、解釈する人間自体が変化し成長しているからです。

これは人間を隅から隅まで理解することの難しさにも通じており、

自分自身が変化し成長しないと見えず理解できないものがあり、

たくさんの喜怒哀楽の経験という長い時間軸で獲得するものです。

このような変化や成長が短期間でも顕著に出ているのが子供で、

孫達の好むアニメやテレビ番組などを見ていると、

単純なストーリーの善・悪ものから、成長と共に複雑な心理や

知識欲の伴ったものに変化してきており、厳しさが伴った愛情なども

少しづつ理解できるようになってきている昨今に成長を感じています。

この子育てなども『手塩にかける』という言葉があるように、

両親が一生懸命に世話をして大切に育てることの例えで、

上杉謙信が敵対する武田信玄に塩を送った故事に由来する

『敵に塩を送る』なども塩の大切さを物語っております。

妻によく怒られた塩の記憶では、『あなたの言葉は傷口に塩を塗る』

ようなのが多く,平気で口にする神経が理解できない! とよく

言われましたが、傷口を早く治す治療薬です! とひたすら弁解

していましたが、これも直截的な言葉を使う私の癖みたいなものです

塩の諺では元気がない様子を『青菜に塩』や、苦手なものに

出会って萎縮している様子を『ナメクジに塩』などと言いますが、

子供の頃ナメクジを見つけると塩をかけたことが想い出されます。

ちなみに人間は生涯どれくらいの量の塩を摂取しているのか?

を調べたところ、日本人の一日の平均塩分摂取量は男性約11g、

女性9.3gとされており、80歳まで生きたとして男性で321Kg

女性は272Kgになりますので1トンは比喩としての数字ですが、

ひとりの人を理解する難しさの比喩として含蓄のある言葉と思います。

似たような日本の言葉には『同じ釜の飯を食う』がありますが、

同じ釜の飯食っても判り合える人と判り合えない人があるのは、

前提として対象相手が好きか? 嫌いか? が存在するからです。

恋愛感情に置き換えると理解できると思いますが、

人間とは好きな人のことは何でもかんでも知りたくなるものですが、

嫌いな人のことは興味も失せてむしろ知りたくないものです。

しかし嫌いな人間の意外な一面に出会ったり垣間見たりしたとき、

突然その人間に興味が起こることがあり、好奇心が刺激され、

嫌いが大好きになるようなことがあるのは、自分のこれまでの

人生経験にはなかった衝撃が心の襞に深く刻まれたときです。

反対に好きな人が嫌いになるときは、今まで思いもしなかった

醜い心の襞に触れ思い知ったときで、自分が信じていた分だけ

相手の裏切りに思えるので憎しみとして倍増するのです。

最終的には塩を一緒に舐めても同じ釜の飯を食っても、

相手が好きでお互いに相手を理解しようとする気持ちがないと、

時間だけでは埋められないものがあるから熟年離婚があり、

たとえ短い期間でも濃密な理解に繋げられる人もいるのですが、

冒頭のイタリアの諺は人間理解に繋げる忍耐の言葉として良い

だと私は思っており、少しでも多くの人を理解し楽しい人間関係の

構築に繋げる教訓として心に刻んでいます。