病気後のせいか? 年齢を重ねたせいか? ちょっとしたことで
妙に寂しい気持ちになることが増えたように感じるこの頃です。
それは長年に渡ってお世話になっていたお客様達の訃報や、
施設に入るとかお子様の所や近くに引っ越すなどを聞いた後で、
若いときとは違った寂寥感を味わうことなのですが、
最近はこの寂寥感をいつまでも引きずって長く続くのが辛く、
元気な間はずーっと店を続けたい気持ちが揺らぐときがあります。
通信販売でも二十年~三十年のお付き合いの方達なども、
定期的にご注文頂いていた方からお電話が来なくなると
心配なのですが、電話は『注文を催促する』ような誤解に取られる
ような難しさもあり、風の噂で元気な消息を知ると少しホットしたり、
消息が判らず仕舞いの人達もいたり様々です。
長年のお付き合いでお互いに高齢になり発病リスクが高まり、
癌や脳梗塞や心筋梗塞など様々な病気で痩せたり身体が自由に
なったりする人などもあると、肉体的な苦しみが精神的な苦しみを
生みますので、私の経験による病気を受け入れるまでの
人間の弱さや苦しみの過程を正直にお話して、リハビリの継続に
繋げる一助にして欲しいとお願いするような機会も多くなりました。
同年輩の方達などでも私のように伴侶を失う場面も増えて、
その寂しさゆえにお茶やコーヒーなどを『たしなむ』心の余裕が
失われ機会が減少しますが、このような経験は私もしています
のでお気持ちはよく理解できます。
これからはこのような寂しさを味わう機会が増え続けるのが
宿命なのですが、その寂しさに耐えていつまで続けるのか?
を思うと、 『出ずるときは人に任せ、退くときは自ら決せよ』
という言葉を思い出すのですが、心の揺らぎは一層強くなります。
妻を失った思いが強くなるのはこんなときで、寂しさや弱さを
吐き出し聞いてくれる相手がいなくなったことを思い知らされ、
私の心の穴を大きくして寂寥感に拍車をかけるのです。
このような老いてみなければ判らないことが連綿と続くと
覚悟はしていたのですが、現実に直面するとたじろぎ対処に悩み
ながらも、最終的には娘達家族になるべく迷惑や負担をかけない
身の処し方を優先すべきと自分に言い聞かせて過ごしております。
あまり忙しくない真夏の期間には人生を振り返ることが多く、
一番夢中で生きていた頃が懐かしく想い出されるのですが、それは
娘が生まれ守るべき人が増えてお客様達も若く元気だったときで、
その頃は一億総中流と言われた中間層の厚い時代でしたので、
お客様との話題なども活力に満ちていた楽しい時代でした。
今は高齢者が多い時代ですが、この頃は団塊の世代が子育て中の
現役世代の層が厚い国家的にも理想的な世代構成でした。
『今日の眼で昨日を見てはいけない』という言葉があり、
これは過去の過ちを現在の視点で判断してはいけない意味ですが、
過去を懐かしみ現在を嘆くような別の意味でも捉えられ、
羨んだり懐かしがったりしてはいけない教訓でもありますので、
ひたすら私自身に言い聞かせている此の頃です。
ここまで生きて来て振り返ると危機と揺らぎの連続でしたが、
大切なのは泣きそうで逃げ出したいような気持ちのときこそ、
泣きながらでも耐えて逃げないことが道を切り開いていたと思え、
その紙一重の積み重ねが現在の道に繋がっていたと思い到ります。
誰でも何事においても人は楽な道への誘惑に駆られるのですが、
一時の誘惑に耐えられずに選択する楽な道は悪運へと、
苦難と努力の伴うイバラの道を選択する勇気が、脱皮するような
新しい自分になれる幸運を運んでいるように思いますが、
この揺らぎが人間にある種の快楽をもたらしているのも確かです。
八十年程前に発見された『揺らぎ理論』というのがありますが、
この中には人間が癒されるような感覚を持つ『1/fゆらぎ』
別名『ピンクノイズ』というものがあり、ロウソクの炎や滝の音や
小川のせせらぎ音などを眺めたり聞いたりしていると落ち着く感覚で、
不規則な状態の揺らぎなのに不快ではなく心地良いのは、
人間の身体の中にある不規則な揺れと呼応しているからです。
音楽や歌手の声にもこの『1/fゆらぎ』を持つものがあり、
モーツアルトの曲や小田和正の声などには、この『1/fゆらぎ』の
揺らぎがあるから不思議に癒されるのだそうです。
こんなことを例に上げたのは、選択や決断への悩みや葛藤で
心が揺らぐことも、きっと癒しに繋がっているような効果があるように
思うからで、時計のように規則的で揺らぎのないものに癒しを
感じないように、揺らぎという微妙な不安定さの中で保っている
平衡感覚にある種の美しさや輝きを感じるからだと思います。
人生なども立派な親によって決められたレールの上を走っている
方が安定し揺らぎはないのですが、なぜかその安定感に不愉快さを
覚えるのに似ており、その揺らぎのない人生に達成感も充実感も持て
ない理由は、それが自分で獲得した平衡感覚ではないからです。
自分の人生の選択と決断で悩み不安に揺らぐ過程がなければ、
たとえどんなに良い結果を得ても無意識領域まで癒されるような
心からの喜びを持てない精神性が人間の根幹に潜んでいるのです。
誰でも安定を望むのですが、人生とは規則性の中に突発性があり
予測からの逸脱などにも遭遇する中で、それぞれが自分にとって
居心地のよい状態を作り上げる試練の繰り返しが人生のようなものです。
この不安定な状態を何とか克服して平衡感覚に持ち込むような、
危うい揺らぎの過程に快楽を覚える生得的な官能機能が人間に
備わっているから、奇跡の逆転劇に胸が震え感動するのですが、
これらも1/fゆらぎのような癒し感覚と繋がっているのではないか?
と思ってしまうのです。
七十四年も生きていると過去の経験から、幼児や若者の葛藤や
努力の様子を見ていると、現在の在り方から未来への繋がりと
結果が予測できるので心の中で『頑張って』と励ましを贈っています。
四年生のお姉ちゃんは入学という新しい環境になってから、
様々な葛藤を重ね両親の見守りで成長してきたのですが、
親にも言えない自分の不安と心の揺れを抱えたときや、
自分の弱さを自覚したときなど私とのドライブ中に吐露します。
成長した最近は直接的な質問ではなく婉曲な表現で、先日は
『爺じはリハビリ・水泳・パークゴルフ・ピアノに頑張って偉いね』
と少し自虐的に言ったので、『爺じもやる前は、やりたくない!』という
気持ちがあって怠けることもありますと言うと、『爺じもそうなんだー』と
少し安心したように言ったのは、自分自身の怠け心との葛藤があり
頑張れない自分に自己嫌悪を感じていたからです。
人間は良い結果が出ると頑張るのが楽しくなり、また頑張る勇気が
湧いてくるのが善循環と言って、悪い結果が出ると嫌な気持ちになり
頑張る気持ちが失われ努力を止める繰り返しが悪循環ですと話し、
その良い結果が出るまで続けるのが辛く苦しいのは誰でも一緒
ですよ! と説明しました。
爺じは何もすることがないと退屈で楽しくないので本を読み
趣味を持っているだけで、リハビリも自分の身体が不自由なままが
嫌だからやりたくない気持ちと闘いながら続けているだけです。
『爺じは??ちゃんが元気でいれば』それだけで十分で、
その元気な姿を見ているだけで嬉しい気持ちですよと伝えました。
子供は視野が狭く短絡的なので逃げ道がなくなると危険なので、
俯瞰して見る目を育てるために『ご飯を作らないお母さん』や
『働かないお父さん』を許せますか? と聞き、家族にはそれぞれ
役割があり一人ひとりがその役割を果たして楽しい家族になっている
と思うと話し、でも本当に嫌で辛いときは『絶対頑張らないでね!』
とお願いをしておきました。
誰でも不安で心が揺れると助言してくれる人が思い浮かびますが、
そんなとき大切なのは助言などより胸の内を安心して吐き出せる
信頼を勝ち取ることで、その人に自分の弱さも醜さもさらけだす
ことが躊躇なくできたとき不思議と勇気が湧き上がってきます。
そんな繰り返しで何か達成できたとき自信が生まれ確信に繋げ、
次々に訪れる壁をブレイクスルーしながら次第にステップアップ
して社会的な役割を果たす社会人になって行くのです。
お姉ちゃんの成長過程では辛く悲しいことも沢山ありましたが、
この辛く悲しい思いをしないと他者の気持ちを思い測ることができる
精神性を獲得できないので、成長のステップアップ段階ごとに
必要不可欠な人生の調味料となっているのが辛苦と悲しみです。
そんな繰り返しで少しづつ逞しくなり、私など必要でなくなる機会が
くるのも間近に迫っているので、次は来年学校に上がる妹の逃げ道に
なりたいのですが、お姉ちゃんを見て多くのことを自然に学んで
いますので機会は少ないと思っています。
人間とは様々な潜在的な資質が眠っている生の生きもので、
いつどこで学びへの意欲が開花し起動するのか?
成熟への道を歩み始めるのか? はその子によって違い、
そのきっかけが起こる前には必ず『心が揺れ恐れを抱く』のですが、
その分岐点で怖れを克服する勇気を奮い立たせるためには、
日頃から何気に『逃げ道』を用意してあげるのが危機回避策です。
誰でも心が揺れているときはネガティブになっているので、
そんなときこそ逃げ道が確保できている安心感を与えることで、
その安心感こそがポジティブな行動選択の勇気を与えるという
逆説の方が『弱さを克服する』真理であり近道だと思います。
子供の頃に勇敢に見える子は真の怖れを知らない危険な子供で、
真の勇気とは不安と怖れを克服し自ら決断して立ち上がることで、
この不安と恐れの自覚こそが様々な危機回避を想定した安全策を
思案し講じることに繋がっており、その立ち上がる勇気を与えるのは
『ひたすらの我慢で愚痴を聞いてあげる』忍耐です。
意見は求められたとき以外は述べず極力控える理由は、
人間とは悲しみを伴う感情の起伏の中で成長するからで、
特に思春期や青春期などは起伏が激しいぶん大きく成長しています。
最近の教育の風潮は子供達の能力の査定と格付けに片寄って
いるのですが、教育の本来の目的は子供を社会人として適応できる
成熟への導きを支援する制度であり、同時に学校という集団で
他者との折り合いの付け方や他者との距離間の保ち方などの
社会性を時間をかけて学ぶという大切な市民的成熟の場で、
その過程を見守り支えることが親や大人や先生の役割なのです。
この社会性の獲得過程での挫折が不登校で、獲得に失敗すると
引き籠りになるので勉強よりずーっと大切で生存に必須のものです。
私のように歳を重ねても老いという新しい未来への不安や葛藤は
やはり初めての経験なので心が揺れるのも孫と同様で、妻という
話を聞いてくれた逃げ道が私に勇気を与え支えていたのです。
先日若者の恋愛映画を録画で見て、恋愛中のお互いの心の揺れを
少し恥じらいながら羨ましい気持ちになり夢中になって見ていました。
ふたりの思い思われる関係に懐かしい新鮮な気持ちを味わい、
若者たちの恋愛感情の心の揺れに感動し涙を流しましたが、
この『揺れる心』こそが生きている証なのだと涙をぬぐいながら
再認識させられ、孫達の心の揺れを陰で支え続けたいと思いました。