広告手法。

昨日は妻が生きていれば五十一回の結婚記念日でしたので、

昨年の金婚式と同様に死者の妻と共に出会いへの祝杯でした。

妻が生きている間は一日中テレビをつけていましたので、

否応なしにテレビCMが目に耳に入りましたが、CMの形態や

その手法や何を売り込むのか? などは時代によって違い、

広告は常に時代の世相と国民の民度を測る尺度にもなっており、

広告こそが民衆の潜在的な欲望を先取りし続けて、

寝ている子を起こすように購買意欲を刺激し続けております。

狩猟に例えると広告主が捕獲者で顧客は獲物みたいなもので、

獲物が潜在的に求め欲望しているものを察知し刺激し提示して

罠をかけるようなものですが、そのときの大切な手法としては

その欲望が決して邪悪なのものではなく、洗練された欲望として

表現することが顧客満足度を上げることに繋がっています。

広告とは『無から有を作り出す』もので、お金がなくても物が買える

月賦販売から始まりローンが生まれカード支払いになり、

顧客の囲い込みのためにポイント付与制度が生まれましたが、

現在の住宅ローン制度や国の資産運用推奨なども、私には

全ての分野で手法が高度化しギャンブル化しているように思えて、

生涯罠に嵌り込まない人生を過ごす難しさを感じさせられています。

広告の基本は上手な嘘をつくことで、本当は工場で大量生産で

作っているのに手作りで作っている工程をCMで流されると、

嘘と知っていても官能してしまい顧客の欲望は刺激されるのです。

ラブレーが言った『三つの真実に勝る、ひとつの綺麗な噓を』

こそが広告にとっては必須なことで、このような真実に勝る

綺麗な嘘を人間は無意識に求め続けているのも事実です。

これらを平然と実践できる者と躊躇し実践できない者がおり、

また実践できる立場と実践できない立場などもあります。

コピーライターや有名人などの広告塔としての綺麗な嘘と、

個人としての立場の嘘では微妙に違ってきますし、被害者の数と

被害の深刻度によっても嘘の容認度は違ってまいります。

最近の健康食品の通信販売増加は、長寿高齢者増加による

心理的な健康不安の蔓延が遠因で、小林製薬のように死亡者が

でるほど安易に高齢者が利用しているのが実態なのです。

高齢になれば発病リスクが上がるのは当然のことで、

病院でも治らないことが直るように錯覚させるのが広告ですが、

その前に不安を煽り増幅させる手法の行き過ぎは目に余ります。

人間にとっての一番の不安は健康不安で、次が金銭的な不安で

三番目が精神的な不安ですが、この健康不安につけ込むのが

一番手っ取り早い方策なのでサプリ広告には最適です。

金銭的な不安ではサラ金業者の広告が氾濫した時代があり、

その違法性と犠牲者の増加が社会問題になってから規制法ができ、

今は株式市場による直接金融と低金利の時代になったので、

銀行は個人への融資によるカードローンにシフトしていますが、

このような変化は広告状況を見ていると見事に反映されています。

百八つの煩悩を持つ人間の精神的な悩み事などは、

不安を和らげると称する宗教法人によって誘導・悪用されており、

その誘導・勧誘は時代状況と対象相手によって場所が違うだけで、

若者主体のオウムや金融資産保有者主体の旧統一教会など

のような宗教法人による不祥事も社会状況と連動しています。

最近は広告も多様化し高齢者にはテレビ広告で、若者や

スマホ世代にはネット広告やユーチューブ広告にシフトしており、

ネットでは細分化が進み『どのサイトに日々アクセスしているか』を

AIで趣味や趣向の傾向を分析して、巧みに誘導する戦略化が進み

ここではプロパガンダ化が高度な手法で巧妙に進化しています。

お金に困っている人には即刻融資による高利息の罠や、

犯罪・詐欺の片棒を担がせるアルバイトの勧誘などで、

小金を持っている人には高利回り配当を謳う資金提供の勧誘、

生活保護受給者を狙う貧困ビジネスなど、最近は比較的だまし易い

社会的な弱者を狙い撃ちしている傾向が強まっています。

一般的には政治用語として使われるプロパガンダとは、

意図的に特定の主義や思想に誘導する宣伝戦略を指し、

大きくは国家における思想統制や政治活動に使われますが、

小さくは広報・宣伝活動なども含まれており、昨今の広告は

この誘導する傾向が強いプロパガンダ化しているように思います。

プロパガンダの語源はラテン語で『種をまく・繁殖する・接ぎ木』

などの意味ですので、人間にとっては洗脳に近いと思います。

これを巧みに利用しプロパガンダとして実践したのがヒトラーで、

著書『わが闘争』には狂気が正気を圧倒するような言葉が多くあり、

『大きな嘘には、人に真実と信じこませる何かがある』などは

ネットのヘイトやフェイク情報などに反映され氾濫しており、

『大衆とは女性みたいなところがあるので選ばせてはいけない、

どれかひとつを選び徹底的に叩き込むことである』などもあり、

これも個人のネット環境に巧みに入り込み似たような情報を

繰り返し流し込むことで、フェイクを事実のように信じさせるから

米国の連邦議会乱入のような事件にまで発展したのです。

ネットのプラットフォーム企業にとっては、ユーザーをなるべく長く

自社のプラットフォームに滞在させることが広告収入に繋がります。

一般的には論理的な思考情報より、ヘイトやフェイクなどの

有害な情報の方がユーザーの興味を惹く効果があるので、現在の

プラットフォーム企業は道徳よりビジネス優先の罠で動いています。

EUだけがプラットフォーム企業に有害な情報や広告を規制する

『デジタル・サービス法』を制定したのですが、これはオフラインの

一般社会で違法なことをネットのオンライン上でも規制する責任を

プラットフォーム企業に義務づけるものです。

もう世界的規模の政府の力で情報強者の搾取を止めるときですが、

濡れ手に粟の大手プラットフォーム企業は数千億ドルを使う

ロビー活動で阻止しようと躍起になっています。

広告とは広く告げ知らしめることで選挙なども同様ですが、

今年の都知事選の立候補者の醜態を見ると、供託金さえ払えば

何をしてもいい感覚の幼児性で、ひどく攻撃的で冷笑的な態度で

まるで民主主義をあざ笑うような人達が多く目立ちました。

選挙でネットを利用し功を奏して二位になった石丸氏などは、

時代に最も即した広告戦略で若者の共感を集めたのですが、

これなども人間とは似たような情報ばかりを繰り返し見続けていると

共感してしまうので、意外と簡単に陰謀論に嵌る危険があります。

また大衆が共感だけを尺度にして候補者を選ぶ危険を犯し続けると、

ヒトラーやプーチンのような独裁者を生むことにも繋がっています。

格差が拡大し階級社会の固定化と連鎖が続いているために、

人々は生き延びるためと利己的で攻撃的で冷笑的な振る舞いを

常識にし始めているようですが、このような自己利益と共感以外に

価値観を見出せなくなった社会は分断の危機を迎える兆候です。

世界的な右翼化の傾向も自国第一主義の結果で、全体のため

という民主主義理想の脆弱さにつけ込む利己的な野蛮さが

蔓延し始めている帰結で、それらはテレビ・ネット・ユーチューブ

などの広告手法に顕著に現われているように思います。

社会の最小単位である家族でも、『あなたを大切に思っている』

というアナウンスや行為が絆や結束を担い強めているもので、

それぞれが自己利益を優先していたら一瞬で家族は崩壊します。

社会も同様で自己利益だけを優先することが野蛮な行為で、

野蛮の反語の上品な行為を忘れずに他者との共生で共同生活を

営むのが民主的な文明社会の目指したものだと思います。

この非文明的な野蛮な行為の蔓延は、分断を促進し社会を

破壊や破滅への道に繋げる危機の兆候のように思えるのです。

私には広く社会に告げる広告手法が社会を写す鏡のように見え、

このままでは長い苦労の末に手に入れた民主的な文明社会が、

『力が正義の封建的な社会』へと逆行し始めているように思えます。

このような社会になった原因の第一は格差の拡大と連鎖で、

格差を是正し中間層の厚い社会を実現すれば連帯が芽生え、

富裕と貧困の連鎖を是正し『機会の平等』を担保すれば自然と

社会に活力が生まれてくるのですが、その実現への一番の近道

であるはずである政治への国民の無関心こそが危機なのです。

これも鶏と卵の関係に似ており、政治の腐敗と国民の無関心の

どちらが問題を大きくしているのか? 恐らく相乗効果だと

思うのですが、広告手法にはこの歪んだ腐敗構造と政治や

他者への無関心の構図が巧みに反映されています。

社会や国家を俯瞰して見る情報源であるマスコミュニケーションが

衰退していき、ネットという個人が好む情報だけに一方的に

アクセスする傾向が進んで行く先に待っているのは分断の危機で、

その先に待っているのは対立による暴力と戦争です。

ネズミを飲食物の供給が完全に満たされた環境に置く実験を見た

のですが、最初ネズミは劇的に増え続けて行くのですが、

ある時点で強者による攻撃によって格差が起こり始め、

弱者は凄惨で壮絶な攻撃を受け続け追いつめられて行きます。

それでもネズミは少しずつ増え続けるのですが、ある限界点に

達してから急激に減少し始め一匹残らず絶滅したのです。

これは社会の維持に必要なものは友好性であることの証明で、

友好的な関係を思考の柔軟性で保つことが文明社会に必須なのです。

ターゲット化した狙い撃ちの広告手法そのものが孤立した人達

増加の証であり、また利己的な人間の増加の反映でもありますが、

その結果として失われているのが友好的な関係と柔軟な思考です。

満たされた状況の中でも生んでいる分断を促進しているものこそ

他者との友好性の確立と柔軟な思考の欠落のように思え、

今後はネズミの限界点のような結末を迎えないことを願うだけです。

民主主義の原点である全体の中の個人という意識を持つ人

もっと増えて行けば、広告も全体という公器を意識したものになると

私は思い願っているのですが、果たして?どこへ行くのか?

私にできるのは祈るだけの『南無阿弥陀仏』です。