オプティミズムとは楽観主義を意味する言葉ですが、語源は
ラテン語の最善を意味する言葉が由来で、反対語はペシミズムで
悲観主義的な厭世観を意味する言葉です。
私は二十歳頃まで生来の虚無的なニヒリズムで過ごしてきましたが、
そうかといって悲観主義のペシミズムに陥ることはなくて、
結婚してから楽観主義のオプティミズム的な思考になっても
虚無的なものはずーっと抱えたままでしたので、
虚無と楽観が融合したような人生を過ごして来たように思います。
こんなことを書いたのは多くの人達と接してきて思うことですが、
一般的に楽観主義の人の方が障害を上手く乗り越えており、
悲観主義の人は挫折や障害に見舞われる機会が多いように思われ、
これは偶然ではなく必然的な要素が絡んでいると思われるからです。
私自身は追い詰められたときは完全に開き直ってしまい、
『どうせ死んだら全てを失う』のだからと楽観的に考える癖があり、
どんなときでも『自分の全てを差し出す』ように努めてきましたが、
不思議とその行為に呼応して手を差し伸べてくれる人が現れ、
多くの人達に窮地を救われここまでやってこられたと思っております。
プチブル的な考えを捨てて『勇気を持って大切なものを差し出すと、
別な価値観の貴重なものを授けられる』という経験を重ねたことが、
私の生きる喜びに繋がり日々を膨らみのある人生にしてくれました。
病気後のリハビリが続く理由なども、継続すれば身体は元のように
なると信じているから続くのであり、再開した水泳のバタフライなども
高齢と病気後の暇つぶしと考えて、ネットの模範映像を参考に
力まない理想のイメージを膨らませて、もう力ではなく推進力の全てを
体重移動で泳ぐことを目標に切り替え望むのも楽観的な思考です。
しかし高齢になり病気発症のトラウマもあるので、定期的に行く
のではなく本当に体調が良いときを選ぶランダムな挑戦ですが、
イメージトレーニングだけは模範映像を見て暇つぶしにしています。
全てのことは年齢と立場や状況によって『最善』の方法は違うので、
それらを考慮し何が最善に近づく手段なのか? を思案し、
どのような努力が最善に到達する方法なのか? の答えなども、
年齢や置かれている状況や個人の能力差によって正解は違います。
孫のお姉ちゃんは何事にも慎重で悲観的なところがあり、
反対に妹の方は少々無鉄砲な楽観的なところがありますので、
ふたりを公園で遊ばせているときや何かに取り組む励ましなどの
対処方法や助言は違うのですが、ふたりにとっての最善の方法は
極めて対照的な暗示をかけるようになっています。
お姉ちゃんにはただ『あなたは集中すればできる!』という暗示で、
妹には『できると思うけど慎重にね!』と注意を促す暗示です。
四歳も離れていても、身近なお姉ちゃんができることは自分にも
できると思ってやるからできるのですが生傷が絶えないからです。
こんな例を書いたのは意識の持ち方の大切さを言いたいからで、
何事も考えた通りになることは自分で与えた暗示の効果で、
何事もできないと思えば出来ず、できると思う信念があってこそ
出来る結果を生んでいることがほとんどなのです。
このような暗示の効果が働く中に隠されているものは、
できると思う心には『執念に近い願望』による継続が生まれており、
できないと思う心には継続できない『諦め』が生まれていることです。
七十三歳になってからリハビリのつもりで始めたピアノなども、
私にはできないとずーっと思っていたからできなかった良い例で、
左右が別々の動きなど幼少期から始めないと無理と思い込んで
いたネガティブ思考の暗示のためで、できるようになろうという
意志の継続さえあれば程々にはできるものでした。
一般的に幼児期に才能のある人ほど才能に溺れて凡人になり、
才能に恵まれなくても自己暗示と努力で非凡さを手に入れる
大器晩成型の方達に偉人が多く、偉人とは才能に恵まれても
才能に溺れずにより最善をイメージした自己暗示をかけ続け、
努力の方策を模索し続けた人だから偉人になるのだと思います。
最近のアメリカ大リーグにおける日本人選手の大活躍なども
暗示的な効果もあるように思われ、野茂からイチローと活躍が続き
日本人選手の中にあった肉体的な劣等感が払拭され、精神的に
『あいつにできるなら俺にもできるかも?』という暗示が生まれ、
結果が自信を生むという善循環が働いた結果のような気がします。
誰でもどんなことでも晴れ舞台の本番は緊張するものですが、
緊張とは不安なのですがその不安を払拭するのが欠点を修正する
絶え間なく繰り返す練習で、その努力に裏打ちされた自信と
同じくらい大切なのが確信に繋げるポジティブな楽観主義です。
どんなに練習し自信を得ても本番で『失敗したらどうしよう』
というようなネガティブな思考が横切ったら結果はもう駄目で、
現在はメンタルトレーニングも重要ですが、子供の場合は親や
祖父母や先生などの身近な人がその役目を担っていると思います。
自信とは自分を信じることで、本番では練習を積み重ねて
得た成功のイメージだけを意識に持って立ち向かうことで、
対戦相手への不安を持ったら実力の発揮は半減すると思います。
よく『自分との闘い』という言葉で表現されますが、
これは肉体的な才能を越えた、不安に打ち勝つ精神的なものを
指していますが、どれだけ自分自身を信じられるか? です。
自分自身の長所と欠点を俯瞰して眺め、長所を生かし欠点を
修正しながら積み重ねた練習成果への信頼があれば、
最善を尽くす楽観主義の『無』の境地で望むことができます。
対戦相手がいないピアノ発表会なども、『良い所見せよう』という
自意識過剰になると実力が発揮できないもので、観衆の存在を
忘れるほどに集中できたとき実力以上の力が発揮されています。
オプティミズムは哲学の世界では最善説と訳されていますが、
誰の人生にも悩みや困難辛苦があるのですが、ネガティブな思考に
捉われてくよくよ心配ばかりしないで、人生に明るい見通しを持つ
ものの見方で生きることがオプティミズム的な思考です。
近いうちにブログに書くつもりですが、天才についての
最新研究では誰の右脳にも芸術的な天才の才能は眠っており、
左脳の言語と論理の発達で社会生活への適応を優先することで、
右脳の潜在的な天才能を抑制していることが判ってきています。
スポーツの場合は特に小脳と大脳基底核が発達していると
運動才能に恵まれるそうで、その才能にプラス努力の才能が
備わった人がスーパースターになるのですが、ボクシングの
モハメド・アリのように大脳基底核に異常がでるとパーキンソン病の
ような神経難病を発症するほど運動に大きく係わっています。
ここでは一般的な人生における暗示について述べたいのですが、
誰の人生でも様々な岐路が訪れるたびに選択に悩み、
選択後も立ち向かうときに逡巡するのですが、
決断したら身の丈に合う努力を積み重ね、努力に裏打ちされた
確信を胸に持てると良い自己暗示で望めると思います。
もし確信が持てず不安が強いときは、身の丈を越えた背伸びの
選択ですので大怪我をしないためにも断念すべきだと思います。
『できる』と思うか? 『できない』と思うか? の第六感とは、
その人のこれまでの人生の貸借対照表であり決算書なのです。
若いときの決算書ほど空白が多く傷も浅く済みますので、
失敗を恐れず多くの試行錯誤を積み重ね、失敗からの学びと修正を
繰り返す継続によって貸借対照表が健全に近づき、やがて
終焉のとき燃焼し切ったと思える決算書が見られると思います。
人間として何か物事に取り組むとき、
失うものを恐れた不安を抱えたままの悪い暗示で取り組むか?
失うことを恐れず良い方に暗示をかけて取り組むか?
によって結果が大きく変わることは確かですので、前向きな日々と
意識的にポジティブな楽観主義で事に当たることをお勧めします。
『令和』という元号は大宰府で大伴旅人(おおとものたびと)が
催した『梅花の宴』が由来で、『人々が美しく心を寄せ合う中で、
文化が生まれ育つ』 という思いで名づけられたそうです。
大伴旅人が詠んだ万葉集の有名な句の中に
『生ける者遂に死ぬるものにあればこの世にある間は楽しくあらな』
とあるのを知ったとき、私は心から共感しそうありたいと思いました。
私は群れる事と上っ面の『仲良しこよし』に嫌悪感を覚えるので
直截的な言葉が多く、好き嫌いも極めて正直に態度に出るので妻に
呆れられていましたが、これも一度きりの人生だからと思うからです。
人として長い人生を楽しく過ごすためには、若い頃に毒を食らうような
行動で負債を背負うことも必要で、その毒こそが薬の効果を
発揮して身になっていたと自覚できたのは中年過ぎからでした。
中年からは身の丈にあった生活を守り貸借対照表の健全に努め、
いつも誰かのために生きることを意識し心掛けながらも、
自分自身の努力目標の楽しみを多く持って生きていたら、
困難辛苦のとき手を差し伸べてくれる人が必ず現れるものです。
ほとんどの人は死を怖いものと恐れておりますが、
こんなオプティミズム的な思考で残りの人生を過ごしていれば、
きっと約束通り妻が迎えに来てくれ再会できるという、
『死』も恐れより楽しみがあるという自己暗示で私は待っています。