言葉。

言葉とは事柄の端っこという意味であると知ったとき、何か腑に落ちる

ような思いをしたことを想い出して、現代ではこの言葉が妙に軽く

刺々しいものになっているように感じるので、病気後は新聞も取らず

テレビのニュースもBSニュース以外は見ない生活を過ごしています。

人間のやっていることはいつの時代も同じようなことをしており、

欲得が絡んだ殺し合いの戦争と、欲情が絡んだ男女の揉め事の

繰り返しがニュースと週刊誌ネタで、社会と繋がっていれば

世相を見誤ることはないので時代に乗り遅れることはありません。

風俗は時代と共に変わるのですが、人間の本質的なものは

いつの時代も変わることがないとつくづく思い知らされ、

不快なニュースばかりなので避け続けているのです。

法律を含めて善は普遍的なのですが、犯罪を見れば悪はそれぞれ

個性的で、『女は普遍的で男は個性的』という言葉に似ている

ようにも思えますが、最近は女も個性的になったように感じています。

今の私は最低限の買い物と店と2階の往復で過ごす生活なので、

社会との接点はお客様との会話だけなのですが、テレビはCMの

内容も含めて建前の言葉の裏に潜むあざとい欲望を感じ不快な

思いをするだけなので、録画したドラマか映画かドキュメンタリーを

CMを飛ばして見るか? 贔屓チームの日本ハムの野球中継を

見るだけの生活で過ごしています。

妻を亡くした寂しさからそんな生活になった理由を考えてみると、

社会に飛び交う言葉の中に、どす黒い本音を隠した建前の言葉が

氾濫し溢れていることにウンザリさせられるだけでなく、後味の悪い

何とも言えぬ寂寥感に苛まれることから逃げているのが本音です。

先日はクローズアップ現代で『カスハラ問題』とあったので、

何のことか? と思い録画して見たらカスタマーハラスメント

のことで、企業や行政や学校や病院などへの苦情が常軌を逸した

口汚いもので、暗に利益供与を求めるだけでなく精神的な

上位気分を満たすという憂さ晴らし的なものも多数あり、

日本人全体が抑圧された閉塞感に苛まれていると思いました。

統計では四十代以上が90%を占めており、これは長く続いた

『お客様は神様である』という自分優位の考え方が浸透している

世代に多いためと分析され、若者は親のカスハラ行為に触れると

『恥ずかしい』行為と嫌悪感を覚えている健全さで、番組を見ていて

銀メッキの大人が増え続け、いぶし銀の大人がめっきり減少した

結果なのだと思い知らされ、後味が悪くて観たことを後悔しました。

日常生活も実利優先でユーモアやウイットが失われており、

ほのぼのとした人間関係の潤滑油に包まれることも少なくなりました。

ユーモアとは身振り手振りのような身体的な笑いですが、

ウイットとは頭と心の柔軟体操のような知性的な笑いで、

知性と豊かな経験の総量によって自在に操る言葉の魔術と

思うのですが、一瞬でその場を和ませるような効果を生む

高度な知性のウイットが失われた時代でもあります。

このユーモアとウイットは本を読んでいても感じさせられますが、

現代の此岸の人より彼岸の人の本の方が豊饒さに溢れています。

これは教育が知識の総量に片寄り過ぎたことが原因で、

知性とは単なる知識ではなく経験の総量と相関するからです。

ハイデガーが言った『現代は輝ける闇である』という言葉は

今も続いており、むしろ闇は広く深くなったのでは? と思わせ

られることが多く、華やかなものが何でもあり見えるのですが、

本質的なものが闇の中で見えなくなっている時代に思えます。

決して裕福でなくても三食食べられ、その食卓を囲んでいる

家族に会話があり笑いに包まれていたら、それこそが幸せの

本質と呼べるものだと私は確信しています。

豪邸に住み高級車に乗り家族の各自が好き放題できても、

その家族間に血肉が通った会話にユーモアやウイットに富んだ

笑いが含まれた言葉がなければ、恐らく絆を実感できない

乾いた心の飢えに襲われるのが人間の本質だと思います。

一見自由な時代になったように見えていますが、

実態はカスタマーハラスメントのようにお互いを牽制し合っており、

建前の裏に潜む窮屈な不自由な時代になっていることを思うと、

自由とは絶対的なものではなく相対的なものと理解でき、

その点では極めて不自由な時代になっているように思えます。

人間は何かを手に入れたら何かを失っているもので、

便利な物の豊かさを手に入れた代わりに、心の籠った言葉や

心の籠った行為を失ったのが現代社会のように思えます。

開高健氏が言った『現代は考えることのできる人にとっては喜劇、

感ずることのできる人にとっては悲劇』は的確で、いつの時代も

感ずることができる人は少ないから喜劇の時代と結んでいました。

知識より経験で、考えることより感ずることで、経験し感じたことを

上手く表現できる人の言葉は心と身体に沁み込むのですが、

現代のように金銭的な裕福だけを求めている実利主義と、

地位や名誉を求める功利主義が蔓延した社会では、このような

考え方は邪魔になるだけでむしろ弊害になる喜劇の時代です。

言葉の最近の経験で保育園の孫を迎えに行ったとき、孫の横に

同じ組の男の子が横に座り突然私に『じじいー』と言ったのですが、

私は取り合わず近くにいた母親にも何も告げずに、孫を連れ

車に乗ったのですが、孫が『爺じ、どうして怒らなかったの?』と

聞きましたが、『いいんです』とだけ言い説明もしませんでした。

後日保育園に孫を迎えに行くと、担任の先生が出て来て

神妙な顔で謝罪し続けるのでカスタマーハラスメントを恐れている

のが察せられ、気にしないように告げ私の考えを説明しました。

もう一度あの子が言ったら、耳元で『今度言ったら拳骨する』と囁く

鞭を使うつもりでしたが、この子に何もしない何も言わない私に

『じじいー』と言ったのは私に優しさを期待した嫉妬だったからです。

それは私が迎えに行くと、孫は『爺じー』と叫んで一目散で

カバンを取りに行き飛ぶように駆け寄ってくるからです。

この様子を見続けている他の子供達は、孫がどれほど

私を好いているか? をまざまざと感じ見続けているのですが、

同じような愛を受け取っていない子供にとっては悲劇なのです。

人間とは自分が持っていないものを持っている人を敏感に察知し、

僻みや妬みや嫉妬の感情が湧き起こるものですが、

持っている人は持っていない人の感情には気付きにくいものです。

孫を挟んで隣に近づいてきたのは、日頃感じていたものを私に

求めていたのですが『その求めているもの』を私から与えられない

苛立ちが『じじいー』という言葉になったのです。

人を教育し動かす極意は飴と鞭の適切な使用ですが、

最近はむやみに鞭を使う傾向があるからカスハラ問題が起こる

のであって、取り敢えず待つという余裕が大人になくなって、

いつも自分の利害や被害感情のエゴが優先され、相手を思う

気持ちの欠落がカスハラ多発の根本原因のような気がします。

一度目はスルー・二度目は警告・三度目に拳骨という鞭を与える

という、教育の段階を踏むことが人を育てることだと思います。

恐らく先生に話したのは一部始終を知っている孫だと思うのですが、

孫の心の中では『爺じは何もしていないのに』あんなひどい言葉を

浴びせられたことへの葛藤があったからだと思いますが、

孫にはそのことに触れず何も言わないでスルーしています。

飢餓の子供は飽食の子供を敏感に察知しているように、

子供の言葉とは日頃感じている無意識的に醸成された感情を、

瞬間的・発作的に吐き出しているもので、大人と違い決して

利害的なものではなく、人間としての本質的な心情を吐露して

いるのが子供で、それは何気の日常に表出しているのです

先生は親も謝罪したいと言っていましたが、そんなに大きな問題に

すべきことではなく、今後はその子供が求めているものに配慮する

ように私が意識するだけで対処できる問題です。

何気なく発している言葉の中に含まれた感情は、状況を俯瞰して

捉えてみれば見えない沢山のものが含まれ読み取れるものです。

言葉で伝えるだけでは思いを充分に伝えられないことがあり、

表情や仕草などから感じ取るような肌で感じ取った事柄の強さに

比べると不確かな疑念が残ることが時折あり、それらが日常の

人の心を惑わせ悩ませることに繋がっているのです。

しばしば人は見えているものしか見ていない傾向がありますが、

見えていない邪悪な欲望や知性や気品や思いやりのようなものを

感知するという、見えているものから見えないものを察知する

人間の本能的な感知能力が最近は劣化しているような気がします。

たとえ夫婦や親子でも思っていても言えないことがあったり、

決して言ってはいけない言葉もあるのですが、反対に辛さも

喜びも言わなければ気持ちが伝わらないのが言葉の実態です。

私の妻は喜怒哀楽の感情をあまり表に出さない人で、

不満や不快感情なども飲み込み押し殺し反射的な言葉を

決して口にしなかったのですが、その代わり悲しげな眼差しと

表情でものを言う人でした。

そんな妻を偲ぶとき、録画してある八代亜紀の『舟歌』を寝る前に

聞いて時折想い出しています。

この歌の歌詞は言葉以上に行間に多くの思いが籠っており

『女は無口な人がいい』が妻にピッタリなのと、

『沖の鷗に深酒させてよー愛しあの女と朝寝する』など

私の新婚時代に思い当ることで、家から近い陸運事務所や

警察署に直行で仕事をして昼から会社に出勤しますと、

鷗ではなく上司に嘘という深酒をさせ妻と朝寝した経験など、

様々な想い出が錯綜し何より言葉を越えた情感が染み出し、

まるで昨日のことのように蘇る情感を味わうには演歌が最適です。 

十四年前の正月休みに妻と東京へ行きレンターカーで

想い出の地を巡ったのですが、このとき三十年も経過していたのに

新婚時代の家がそのまま残っていた感動をふたりで共有しました。 

その家を離れるときの車中で、どちらからともなく『これからもよろしく』と

手を握り合った感触の想い出は今も色濃く残っています。

わずか五日間の旅でしたが、旅とはルーティンの日常とは違い

絶えず突発的なできごとの連続ですので、何気にお互いの

人間性が露わになるものですが、三十年間の同居生活は

言葉より阿吽の呼吸でお互いを理解できると知った旅でした。 

言葉は人を傷つけることもありますが、人を励まし勇気づけるのも

言葉で、場合によっては言葉を飲み込んだ沈黙の見守り

胸を熱くさせ勇気を奮い立てることもありますし、

時には薄情の情けで厳しい言葉をかけることも求められ、

どれが正解なのか? は相手によっても違い、

事後になってみないと判らない難解なものが言葉です。

言葉とは諸刃の剣なのですが、大切なのは感情的になったときの

言葉ほど一度飲み込んで、その言葉を咀嚼し囁くような言葉に変換

することを習慣にするのが賢明策と自らに言い聞かせています。