人間とは美しいものや醜いものや本や映画を見る目で好悪を官能し、
不快な騒音や甘美な音楽や感情を揺さぶる言葉を耳で好悪を官能し、
美味しいものや不味いものやアルコールなどを舌で好悪を官能し、
黒髪や香水などの甘い香りや体臭や腐敗異臭を鼻で好悪を官能し、
性交や抱擁や衣服による皮膚感覚の触覚で好悪を官能するという
五感によって生きている実感を味わっているのですが、
長く生きるとその人生経験から五感を統合した判断である第六感
が身に付くのですが、それはそれぞれ固有のセンサーでもあります。
そもそも動物は五感によって外界からの様々な情報を得て、
自らに及ぼす危険を察知し身を守るために備わっている重要な
センサーの役目を果たしているのが五感で、脳はその受け取った
情報に対して瞬時に判断を下し対応の指令を出していますので、
五感の発達は生存維持のための最重要のファクターです。
五感の発達の効用を考えると ➊危険を回避する能力
➋官能による情緒的な感情の安定 ❸他者の感情を推察する能力
❹すぐれた直感力と想像力 などが上げられますが、
味覚などは美味しさの官能だけでなく、異物や腐敗物を瞬時に
吐き出し身を守るように味蕾の官能位置は配置されております。
毒物や腐敗物のような害のある嫌な味のものは即座に吐き出せる
ように舌の前方で感知し、甘味は舌の中央部分でじっくり味わい、
旨みやコクなどは舌の奥の方で官能するようになっており、
苦みに近い滋味は一番奥の喉元で感じていますが、この滋味こそ
飲み込んだ後に爽やかな甘さが口内に余韻として残る深い味で、
人に例えると優しさだけではない味わい深い人と同じで、
別れた後にも残る爽快感が漂う人間性の残像に似ています。
飲み物の品質の最終的な優劣を決めるものは、甘味だけでなく
この滋味とのバランスによる後口の良し悪しで、粗悪品は嫌な
苦みだけが口内に残り、邪悪な人間と別れた後の胸中と一緒です。
また微妙な味加減が理解できる人ほど相手の気持ちを推し測る
ことができるのは、物を食べるときに脳で判断してから飲み込むという
作業を日常的にしているからで、価格と腹だけで食べているか?
舌と脳の連携作業で食べているか? ほどの違いがあるからですが、
これは高級品を食することより新鮮な物を薄味で食べる習慣の
積み重ねによって味蕾が鍛えられ身に付くものだからです。
アイデアなどがひらめく直感力が鋭い人なども繊細な味覚の
判断力を持つ人が多いのは、食事のたびに視覚と味覚の情報を
脳に送り、脳の判断情報を受け取るという情報交換作業によって
脳が普段から活性化されているからひらめくのです。
五感と脳は密接な関係にあり、脳が疲れると目がかすみ味覚は
鈍くなり、ストレスや疲労があると料理の味付けが濃くなる傾向があり、
穏やかな気持ちで料理すると味蕾が鋭敏なので薄味になります。
反対に疲れやストレスが溜まっているようなときには、
五感を心地よいもので刺激すると脳の疲れを取ることができます。
クラッシックなどの穏やかな音楽や、さっぱりした薄味の料理を
ゆったりと楽しみ、食後に好きな嗜好品をたしなむなどをすると
脳がリラックスし、ストレスが解消されるので疲れが取れます。
私共のお客様で来店するなり溜息をつく人があるのですが、
そのようなときは小さな湯飲みに濃いめの煎茶を入れてあげると、
飲み終わったあとに『何だかホッとした』と言うのは、
美味しさの一口と滋味の後口の爽やかさが脳をリラックスさせる
効果によるもので、俗にいう『溜飲が下がる』のです。
イギリスの諺に『心に通ずる道は胃を通っている』というのがあり、
もうひとつ誰が言ったか忘れましたが『腹のことを考えない人は
頭のことも考えない』と言うように、舌で味わって食べることは
脳の思考だけでなく心の健康の良し悪しにも大きく影響しています。
味覚情報は視覚情報よりもはるかに少ないのですが、
人間の心に与える影響は味覚情報の方が格段に大きいと思います。
作家の表現力の良し悪しに『食物』と『女性』をどのような言葉で
表現するか? が問われ難問なのですが、ありきたりの言葉ではなく
斬新な比喩で女性を食べ物に例えたり、食べ物を女性に例えたり
して読む者に想像力を逞しくさせることは高度な言葉の技術です。
男にとって食べ物と女性は美味という点で共通項があるようで、
女性にとっても男は食物としての嗜好品に近いのではないか?
と想像しますが、食欲は生存という命に係わる一番大切なもので、
性欲は自分の子孫を残すという、どちらも一番原始的な脳幹に
組み込まれた本能が大きく作用する点で共通しているからと
思いますが、五感が人間性を形作っているような気がしています。
最近の現代人は情報過多な状況に絶えず置かれており、
四六時中スマホに目が行き街でも家でも騒音だけでなく広告
情報に晒され続け、大人も子供も絶えず相対評価を意識し続け、
家に帰ってからは家事や育児や勉強に追われ続けています。
このような状況からの解放として脳を休めてリラックスする時間を
持つことは重要で、スポーツでも何でもいいのですができれば
五感を楽しませるようなものに触れて、脳をリラックスした状態に
することが自律神経の安定に繋がりますので、心身の健康維持には
一番の近道になると思っていますが、昨今は金欲と物欲の方に
目が眩み心身ともに不健康になっているように思います。
視覚は五感情報の八十%を占めていますので重要ですが、
現在人はスマホ普及で視覚情報漬けになっていますので、
視覚を休める意味も含めて空や雲を眺めたり、森の緑の中を
散策し鳥のさえずりを聞くなどの機会を持つことは、
脳を回復させるだけでなく目の疲れも取ってくれる効果もあります。
最近は電子機器による電子音の氾濫と騒音などもあり、
聴覚の疲れなども目に見えない形で脳にダメージを与えており、
不健康な五感情報によって鬱病などが増えているのでは?
とも思えますので、脳の休息のために自然に触れ好きな音楽を聴き
アルコールを嗜むことなどの時間を持つことは肝要だと思います。
私共ではほうじ茶を自店で炒っているのですが、この匂いを
嫌だと言う人に出会ったことがないように、臭覚なども自然な匂いが
心地良く感じるもので、女性なども人工的な強い香水の匂いより
石鹸の匂いとほのかな体臭が混じった匂いの方が安堵します。
家の中なども乱雑にすれば視覚的に不愉快になりますし、
台所なども清潔にしていないと腐臭を放ち不快感が漂いますし、
男も女も不潔な体臭を放つ人には不快感を覚えますし、
いくら美人でも散乱し腐敗臭の漂う部屋なら興醒めです。
私は朝食後の台所全てを綺麗にして仕事に出ないと不快で、
掃除と洗濯後の脳の爽快感は視覚的な満足感だけでない、
五感すべての満足感によると思っており、終了後に自分への
ご褒美として菓子をつまみコーヒーやお茶を飲みながら一服する
煙草の旨さを味わっているときの爽快な達成感は格別です。
時々まとめてアイロンがけをするときに、やる前は『嫌だなー』と
思って始めるのですが一枚一枚の皺が綺麗に伸ばされるのを
見ると、何とも言えない充足感で不思議と心が整って参りますので、
私は少し心がイジケかけた時にはアイロンがけを始めます。
触覚は好きな人との性行為だけでなく、肌触りの良い衣服やエステや
指圧などのマッサージで脳がリラックスするのも触覚の効果です。
病気で一番辛かった眠れない夜に、忙しい深夜に当直の
看護師さんが来て五分間ほど黙って手を握ってくれたのですが、
このときの手の温もりによる安堵感は今でも忘れられずに残っており、
触覚による精神状態の安定を実感させられました。
心と身体は一体になって『考える葦である』人間なのですが、
心とは見えない虚で、身体は実態が見える実とすれば、
人間は虚と実で成り立っていると言えると思います。
『虚に居て実を行うべし、実に居て虚に遊ぶべからず』という
松尾芭蕉の言葉がありますが、この虚の字を五感に置き換えると
五感の味わいが深まるような気が私はしています。
五感の喜びや楽しみに溺れずに五感を楽しむ極意みたいなもので、
生命維持装置としての五感を健全な形で働かさせる極意です。
大切なのは虚(心)と実(身体)を俯瞰し連続して捉えることで、
どちらも程々に遊び行うことが生きることを豊かにして
意味のあるものにするようです。
四十七年間の趣向品販売で沢山の方々と出会って来ましたが、
六百万以上の高級車で来店したお客様の中にお茶やコーヒーや
紅茶などの味が判る人は一人もいなかった不思議を思います。
味覚などの五感で感じるものは実態がない虚で、高級車などの
高級な物は実なのですが、実を重んじ過ぎる人は虚に遊んでしまう
傾向があるからだと思い、いつも芭蕉の句を想い出していました。
男と女の淫乱性は精神的な飢えを性的な快楽で埋める渇望で、
男の浮気性は多くの女に対して理想的な女(母性)の虚像を
捜し求めている心の病で、DVやパワハラ男はひとりの女に
多くの女を求める我儘で未熟な男で、淫乱性を持つ女や
未熟な女は男女を入れ替えるとどちらも理解できると思います。
成熟した含蓄のある人は相手の実像を正視できる人で、
ひとりの女(男)をひとりの女(男)として捉えることができる人です。
人生とは様々な偶然と必然との衝突の連続で、
特に五感が不愉快なことや嫌なものを味わっているとき、
心に刃が突き刺さっているように感じるから『忍』と書くですが、
そんなとき嗜好品や音楽や好きな人との触れ合いなどの
心地良い五感への刺激は、その格闘のつかの間を癒してくれる
清涼剤の役目を果たしています。
幼少期から虚無的でありながら自死する勇気もなく考え続けた
『生きている意味』の私なりの答えらしきものは、『生きていることに
意味などない』という答えで、それからは食べ物も人間も含めた
全ての物事を好き嫌いの好きを最優先にして生きることにしました。
全てのことを好悪の好きを優先すると、どんな自己犠牲的な贈与も
不快感情が起こらずむしろ自虐的な快楽する覚えるからです。
近松門左衛門の『芸は虚と実の被膜の間にあり』という言葉なども、
芸を人生に置き換えると見えないものが見えてくる思いがします。
人間は食べて寝て見て聞いて子孫を残すという五感を味わう生活の
繰り返しで、五感で味わう楽しみだけでなく傷つく心が虚で、
経済的な実感を伴う毎日の生活を過ごしている身体が実ですが、
その心と身体の被膜の間に存在するものが人生と私には思えます。
批評家の小林秀雄は小説家を『小さな説を書いて飯を食う者』と
言い、小説家の開高健は『五感の小説家』と言われましたが、
脈々と続く人間の文化・芸術とは五感によって人間の本質である
人生を表現し捉えようとした歴史のように思えるのです。
生きていることに意味などないのですが、お金を手に入れ物欲を
満たし相対的な優位で心を満たす被膜にあるものは傲慢ですが、
他者との比較ではなく単純に自分の五感を満たす自己満足の
被膜にある楽しい・嬉しいこそが、生きていることに意味を与え
心を豊かにしてくれるものだと思います。