大人とは。

このような題名をつけて何を書くか? 考えながらなのですが、

肉体的には大人というより老人になっている私自身が、

『果たして精神的に大人になっているのか?』を自分に問いかけ

ながら、精神的に成熟した大人について考えてみようと思います。

大人の反対は子供ですから子供とはどのようなものか? を考察し、

大人とは子供から脱皮したものと想像しながら考えたいと思います。

子供の定義として民法に『十八歳をもって大人とする』とありますので、

法律的には十七歳以下が子供だから、親のいない子供が養護施設を出るのも十八歳をもって大人とする法に従っているわけです。

子供とは食べ物を得る術を持たず経済的に誰かに依存しないと

生きていけない状態を指しており、それゆえ親や国には子供を

扶養する義務があるということですが、精神的に大人になるという

ことは年齢とは全く別な次元の話で、辛苦を重ねた少年の方が

甘やかされて育った成人の大人より成熟している場合があります。 

大人の精神的な欠陥についてはアメリカの心理学者ダン・カイリー

の著書『ピーターパン症候群』が有名で、大人になれないピーターパン

に例えて名付けたのですが、内容は人間的に未熟なナルシシズムを

大人になっても持つ人を指し、自己中心的で極めて無責任で

依存はするのに反抗的でずる賢く怒りやすいという、子供の

精神状態のままに大人になった人を指して述べています。

DVを働く男が好例で、暴力後に優しく母親に甘えるような幼児帰り

をすることが症状としてありますが、その自己中心的な価値観

社会生活への適応を難しくして、いつ何処でも孤立しています。

このような人格形成については諸説あり推測によるだけですが、

親の過保護やマザコンや虐待などの影響を上げており、

家族や組織の中における束縛や孤立に伴う劣等感からの

逃避願望が強く、他者を含めた視点で葛藤を上手く消化する術を

身に付けられずに育った生育環境が上げられ、稀に脳の

成長障害もあるのでは? との見解です。

ナルシシズム(自己愛)とは自分の価値を認めて欲しいという

承認欲求を満たして自己肯定感を保つ誰もが持つ感情ですが、

この自己肯定感を獲得できずに育った人は、自信が持てない

不安による過剰な劣等感から過剰な自己顕示欲を抑えられず

いつも歪んだ行き過ぎ行動で他者とトラブルを起こすのですが、

後悔しても繰り返してしまうのが過度なナルシシズムの特徴です。

しかし適度なナルシシズムは必要で、努力による自信から挑戦を

繰り返し成功に誇りを持つことは健全なナルシシズムで、その結果

家族や他者から受ける良い評価を素直に受け入れることができる

自己愛を身に付けることは必要で健全なナルシシズムです。

逆に有害なナルシシズムとは幼児期の子供に見られるような、

常に自分の正当性だけを主張する傾向があり、利己的な欲望を

抑えられず絶えず自分に焦点が当たっていないと不安で

落ち着かない幼児性を大人になっても持ち続けており、

いつも自分の強い感受性に振り回され、外的な刺激に対する

抵抗力が身に付いていない傾向のある人のことです。

このような傾向の人の特徴は恥をかいたとき如実に表出しており、

醜い弁解をして怒るだけでなく、他人を貶めても自分の相対評価を

上げようとする傾向があり、自らを認めさせようとする承認欲求だけは

異常に強い行動を繰り返します。

このために他者を認めない傲慢な利己主義から搾取を平気で

行う傾向があるのは、自分が特別な扱いを受けるのは当然と

勘違いしているからで、それゆえにいつどこにでも長期的に

敵対関係から抜けられない蟻地獄でもがく心理状態にいます。

これは恋愛や結婚生活においても同じで、自分に自信がない

不安から対象者へ猜疑心を持ち嫉妬し攻撃性に発展するのは、

自己肯定感欠落による自立した自我が形成されていないためです。

 では自己肯定感の獲得はどのようにして行われるか? というと

人間とは邪悪で利己的な承認欲求を生来持って生まれてくる

のですが、その邪悪な言動や行為を行ったとき誰でも多少の

自己嫌悪を持つのですが、そんなときその邪悪さを受け止め容認し

慈愛で見守ってくれる深い愛情を授けてくれる人に触れるという、

あるがままの自分が愛されている実感の獲得経験です。

この経験がないとサイコパスと同様の幼児的な邪悪な気質が、

見返りを求めない『無償の愛』によって濾過し浄化されずに残り、

大人になっても巣食い続けて肥大してしまうのです。

前のブログに書いた『悪徳を許容されると美徳が芽生える』という

反作用が働き、俯瞰して自分を見るという美徳が育つのですが、

反対に養育期に絶えず美徳を強要され、悪徳を慈愛で許容された

経験が欠落して育つと、精神的に追いつめられた余裕を持てない

幼児の状態で成長が止まり、精神的に未熟なまま大人になった

『ピーターパン症候群』や『サイコパス』の人達が生まれるのです。

人間の内省力とは、自分の嫌な部分も容認された愛されている

という実感によって芽生え、その慈愛養分を吸収し自分を俯瞰して

見る眼を養い自らの欠点を自ら修正する形で育っているのです。

幼児性とは自分が自覚している欠点を他者に指摘されると、

反射的に不愉快になり怒り狂って反逆する行為のことです。

全ては自分自身を客観視できない精神的な未熟さゆえに常時

不安に苛まれているのですが、外側に向かえば攻撃性になり

内側に向かえば鬱病や薬物依存に繋がり、いつも満たされない

気持ちを抱えているから他者に過剰な見返りを求めてしまい、

満たされない欲望は過剰な搾取も平気で行う攻撃性に発展します。

自己愛は大切なものですが、行き過ぎの自己愛は感情や思考の

コントロールを奪い衝動行為を抑制できなくしますので、家族や

組織においての交流で絶えず障害を起こしては、また自己嫌悪に

襲われるという悪循環を繰り返しています。

過剰なナルシシズムの克服は自分自身を俯瞰して見る習慣と、

自分自身の限界を知り受け入れることから協調性を学ぶことです。

できることなら子供時代から多くの失敗を重ねさせることですが、

親は成功を褒めても失敗は責めずに『また学んで成長したね!』

と寛容の気持ちで穏やかに見守ってあげることで、このような対応が

健全な自我の確立と自己肯定感の獲得に繋がります。

反対にいつも何かができないと承認されない環境で育つと、

達成感ではなく不安と焦燥感に苛まれ続けるので、

他者への信頼の確信が得られず情緒が不安定になるから、

幼児性が抜けず健全なナルシシズムに移行できないのです。

最終的には自分自身を愛する充足感の獲得で、

この充足感さえ獲得できれば『自己執着』から解放されますが、

現代の引き籠りやDVや虐待やストーカーなどの増加原因は、

幼少期からの勉強強要という教育虐待が大きく作用してしるような

気が私はしており、重度の人はカウンセリングが必要だと思います。

勉強は小学校低学年までは『よい習慣』への導きが必要ですが、

最終的に勉強は『あなたの自立と生き残り』のひとつの手段で、

あなたに選択と決断の権利はあるが、その結果による責任と義務も

あなたが背負って生きて行かなければならないと伝え、決して

親のためではない自分自身の問題と自覚させることです。

ピーターパン症候群と似た症状を発症する人に『アダルトチルドレン』

がありますが、これは元来アルコール依存症の親の家庭で育ち

成人した人を指していますが、これは機能不全の家庭で育った

ためのトラウマによってある種の生きづらさを抱えている人のことです。

日本では親から過度の『良い子』を期待されて育ったための、

PTSD(心的外傷ストレス障害)に悩むアイデンティティの不安定さを

抱えている人にも使われるようになっています。

アイデンティティとは心理学の社会的発達段階説における、

青年期の心理的な社会的危機を指す用語で、大人への通過点として

非常に大事な自我の確立障害に繋がるものです。

私などは有害なナルシシズム傾向を強く持って成人したのですが、

妻と結婚してから妻の忍耐の継続で克服できたと思っています。

前のブログで書いた『男は女に濾過され浄化される』という言葉は

このような意味も含んでおり、私の邪悪な言動の数々を黙って耐え

決して責めるような言葉を口にせず、悲しそうに『もうしないでね』

うつむきながら言われるたびに、好きな人を悲しめている

自分の言動に自己嫌悪を覚えて自然に内省させられ、

こんな私でも容認され必要とされ愛されている実感の獲得でした。

こんな繰り返しの生活の中で、私は妻から自己肯定感を授かったと

思っており、娘が生まれてからは『親として』どのようにあるべきか?

を思案させられ、自分がどう変われば相手をどう変えられるか?

という相対化した人間関係の構築に目が向くようになりました。

そのような変化から自分の子供でも人格と人間性を尊重して接する

ことを心掛けるようになり、親を選べずに生まれた子供への責任から

抑圧や束縛などしないことを意識し、子供自身に選択と決断を委ね

促して決断を尊重する態度へと自然に向かって行ったのです。

このように変化してから妻への接し方も変わって行き、

今は孫達に対してもお客様でも同じで、誰とでも上下関係ではなく

対等な関係で接する心掛けでしたが、対等な関係を意識して

気が付いたことは相手への敬意が自然に生まれていることでした。

また仕事をしていて大人を感じる人に共通しているのが、

冷静な落ち着きの中に心の余裕があり、言動に責任が伴っており、

いつも他者を思いやる利他的な配慮が行き届いていることでした。

それらの要素を集約すると『自分の欲望と感情を制御できる能力』

身に付けていることで、これは年齢とは関係がないように思います。

大人になるとはこれらに付随して経済的な自立も大切な要素で、

経済的な自立には人生の将来への資金計画も視野に入れた

生活設計が必要で、この計画を持たない人は経済的に自立した

大人とは言えないような気がします。

これまで大人としての成熟過程と欠陥について述べてきましたが、

一般的な大人に多いネガティブな部分として、既存の常識に

捉われている人が多い気がしていて、私は世間的な常識や

自分の経験だけに捉われた現実に縛られている人などは、

大人として器の大きさの点で魅力に欠けると思っています。

大人だけど子供のように無邪気で素直で純粋な部分を持っている

人に出会うと、会話でも常識に縛られていないので時間を忘れる

ほどに会話が続き楽しい感情が湧き起こり、その少年のような

無垢な大人像に人間的な魅力を感じるのは、私自身の中に

残っている幼児性のためと思うのですが本当に少数です。

このような現象は大人になるにつれて、幼児の持つ良い部分である

純粋無垢なものが浮世の利害関係にまみれる中で失われ、

世間の常識に染まって生きるという大人としての楽な生き方に

流されるからですが、これは失敗や辛苦に伴う葛藤の少なさと

自我と戦わずに安易に白旗を上げているから流されるのです。

大人になるには、よりよい大人から学ぶだけでなく悪い大人に

傷つけられる忍耐からも学んでいるもので、その解決できない

時間を引きずって生きる忍耐が豊饒な人格形成に繋がっており、

そんな解決できないときに安易な妥協をしている人は、常識に縛られ

世情に流される薄っぺらな人間になっているように思います。

人間とはどうしても『自分への評価が甘くなる』傾向があるので、

自分のことを知っているようで意外と実態は把握できておらず、

本質的な実態は他者から見る客観性の方が正確なので、

私自身がどの程度大人的な要素を身に付けているか? は

身の周りの人の評価に委ねる以外にないのですが、

精神的な余裕のない点で自分では疑問を思っています。

最後に大人としての要素を箇条書きにしてみます。

 ➊欲望と感情を抑制できコントロールできる。

 ➋経済的にも精神的にも自立している。

 ❸何事に対しても責任能力を持つ。

 ❹経験豊富でその経験知を生かしている。

 ❺計画的だが最終的には諦めを知っている。

 ❻遊び心という余裕を持っている。

亡き妻が私の言動を見ていて呆れ顔でときどき言った

『本当にお子ちゃまだね!』という言葉が想い出されるのですが、

確かに私は子供のように何事にも好奇心が強く、思ったことは

すぐ口に出していますし、孫達とも幼児と同じ次元で長い時間

遊んでいるような所があるから決して反論できなかったのです。

結論として私は幼児性が色濃く残った半分大人の老人ですが、

昔読んだ詩集にあった『大人とは子供の夕暮れではないのか』は

私の印象に深く残っており、子供時代の夕暮れどきから大人として

出発して様々な体験を重ね、その体験を組織化し言葉と生活に

活かせるようになることが成熟した大人のような気がします。