子供には選択の自由を!

病気後の生活が始まって丸二年を経過して改めて思うことは

孫達の成長で、特に今年は四年生になったお姉ちゃんが

新しい環境である入学後三年間に及ぶ様々な葛藤によって

身体の成長より精神的な成長が著しく、突然私に様々な質問を

投げかけてきて私自身のあり方を問われている思いを感じています。

子供の心とは内側に鍵がかけてあり、心を許した人にだけ鍵を開ける

ようなところがありますが、理不尽なことや疑問に思っていることなども

幼少期の普段は心を閉じて悩み揺ぎを抱え続けているものです。

この心の扉の鍵を子供自身が解除するとき学びが始まるのですが、

そのためには『この人は私を絶対に裏切らない誠実な人』という

確信を子供から勝ち取らないと子供は心の鍵を解除しないものです。

しかしたとえ解除しても『建前だけの答えしか帰ってこない』と

学びは起動せず、心の扉を閉じて更なる成長には繋がらないのは、

子供とは偽善と真実の見分けを大人のような損得や利害ではなく、

相手の答えが誠意を伴っているものなのか? を鋭敏な感受性で

見分ける純粋無垢な本能的なもので判断しているからです。

子供とは純粋なだけでなく残酷さも併せ持っているのですが、

その残酷なものを許してあげると抑制する術を身に付けるという、

矛盾した不思議な無意識が子供の人間的な成長を育んでいます。

私の拙い人生経験ですが私は幼少期から二十歳くらいまでは、

この心の扉は閉じたままでしたが就職後に様々な先輩や上司の

心遣いを受けてから百八十度転換して、自分の本音を打ち明けても

決して傷つけられることがないという予感みたいなものを感じ、

妻という理解者を得て確信してから扉は開けっ放しになったのですが、

多くの子供達はこの警戒を解いていないことが学びの妨げに

なっているのではないかと私は思っております。

私がこんな開けっ放しの調子で孫達と接しているせいか? 

二人とも大人や社会への疑問を持つと私に開けっ広げに

突然ぶつけてくるので、たじろぎながらも誠実に答えております。

昨年の夏休みには『何のために勉強するのか?』で、

答えは事故や病気でお父さんやお母さんがいなくなったときでも

『??ちゃんが生き残るため』と具体的に説明したのですが、

二ヶ月後には『寝るときに死ぬことを考えて怖い、どうすればいい』

と聞いたのは、今までお父さんやお母さんがいなくなるなんて

考えたことがなかったことを考えたからだと思います。

死についての答えは、昔お釈迦様という偉い人が言った

人間が生きる上で誰もが味わう四苦八苦の苦しみからの解放が死で、

死は眠りと一緒で死の瞬間は判らないから怖いものでなく

眠りたいのに眠れないことが辛いように、死にたいのに

死ねないとき一番辛く怖いときだから、楽しく幸せな気持ちに

なれるように人に優しく自分のやるべきことを努力していたら、

決して死にたいなどと思わないから大丈夫ですと答えました。

子供は勉強より遊びからの方が生きる術の多くを学んでいる

私は思っているので、遊びたいときは遊びを優先しなさいと常々

言っていますが、自分が生き残るためと学校という居場所における

相対評価を上げる自尊心のためにも勉強ができた方がいいと

お姉ちゃんは判ってきたので、最近は自分の怠け心と闘いながら

自己管理の方策を試行錯誤し葛藤を重ね自分と戦っています

先日はお姉ちゃんが『爺じは何をするのも私が決めていい』

と言ったけど、宿題の勉強や習い事をちゃんとしないと先生や

お父さん・お母さんに怒られるだよ!『どうして私が決めていいの?』

教えて!と問い詰めるように聞かれたので思いを正直に述べました。

人間は誰でも『こんな親の子供は嫌だ!』という親の選択権もなく、

性別も国も時代も選べずに生まれており、誕生全ての選択権は

快楽を求めた親の本能的な意志によって決定されているのです。

だから誕生後の『人生の選択と決断の多くは自分に権利がある』

と爺じは思うので、これから生きて行く道の全ての選択は

『??ちゃんが決めていい』と思うと答えました。  

人間とは誰もが理不尽な形で生まれてきていると思うのですが、

飢餓の国や戦争中の国に生まれる人もおり、平和でも貧乏の家や

お金持ちの家など様々なのですが、満たされた不幸があるように

幸せの形とは人間の捉え方によって色々なのですが、私が思う

幸せの実感とは『自分が選択権を持って生きること』に尽きます。

反対に一番不幸なことは『自分に選択権がなく生きること』で、

支配・命令されて生きる苦痛は戦争体験者は思い知っておりますが、

家庭や組織でも同じで自分の行動に生き甲斐など感じず、

持つのは義務と責任を押し付けられている不快な感情だけです。

組織でも上司が『責任は俺が取るから、お前達のやりたいように

やってみろ』と選択を任されたら、逆に無責任なことはできず

意気に感じて上司のためにも成果を上げようとすると思います。

人間とは自分の意志で選択・決断したことについては、

負うべき義務と責任を感じますし、たとえ失敗したとしても

他者のせいにはできない責任が選択の裏に付随しているのです。

私は娘が中学生のときに親を選べなかったあなたを

『こんな借金だらけの家に生んで、ごめんね』と謝罪したことがあり、

お母さんを愛した結果で私はその償いとして社会にでるまでは

『あなたの望む道の選択には全力で応えます』と約束しました。

その理由は性愛行為に伴う快楽の代償として、自分本位で作った

子供へ慈愛を授ける責任で、人間としての花を咲かせるような形の

自立へ導くことが親として背負うべき義務だと思ったからです。

よく聞く言葉で『誰が食わしてやってる』などと言う男がいますが、

それなら結婚せず子供も作らなければよくて、育て食わせるのは

作った人の義務で権利など主張するのは見当違いだと思います。

人間は誰でもひとりでは生きられない長い養育期間を必要として

生まれて来ており、その子供を養育する義務が作った親の

責任としてあること、そして自分もそのような弱者として生まれた

ことを忘れて、強者になった瞬間に横暴な強権を振り廻す所業は、

都合の良い過去だけを覚えている認知症以下だと思います。

私は娘が中学生のとき何か邪悪なことをしたかったら、私が責任を

とる未成年のうちにやった方がいいよ! と話し、ビールやタバコを

勧めたり中学二年生のときには万引きを勧めたこともあります。

人間とは清濁併せ吞むものを本質的に持っており、美徳を

強要すると悪徳が芽生え、悪徳を許容すると美徳を意識し

芽生えるという反作用を持つひねくれた矛盾した生きものなので、

『邪悪なものを鎮める』方策は慈愛の籠った許容ではないか?

と思っており、反対に邪悪なものが肥大するのは欲望の抑圧と

選択の制限が続くことではないか? と推察しています。

美徳とは子供に強要したり教えたりすることではなく、

親や身の廻りの大人の日常の背中で見せて子供の性根に

沁み込むように体得されるもので、美徳を強要する親ほど実は

親の役目を誠実に実践していない人が多い証拠は、虐待する

悪徳な親ほど躾と言って子供に美徳を強要しているからです。

お姉ちゃんは時々私のスマホで遊ぶのですが、普段は親から

規制されているスマホを自由にいじっている姿を見ていて、

やがてスマホを持ったときに異常に嵌らない免疫効果繋がって

いると思い自由にさせていますが、私のスマホだけでも自由にできる

ようにしてあげると節度をわきまえるという不思議があります。

先日六歳の下の孫も『お姉ちゃんと一緒でなく、ひとりで買い物を

したい!』と言うので、コンビニから15mくらい離れたところで待ち

1000円札を渡し『好きなものをふたつ買っておいで』と行かせたら、

『入って行ったときと帰るときにお姉さんがニッコリ笑ったよ』と

嬉しそうに報告したのは、大人やお姉ちゃんの付録ではなく

自分が承認された喜びと達成感なのではないか? と思います。

子供は幼少期から様々な規制の中で、背伸びした欲望を抱き続けて

成長するのですが、私は幼少期から欲望のマグマが流れ出る

ようにしてあげた方が邪悪さは鎮まるような気がしていて、

あまりに制限や抑圧が多いと思春期に暴発すると思っています。

これは子供も大人も同じで、自分自身に選択権がなく全てのことが

他者によって決められ強制される家庭・学校・職場にはいたくない

気持ちになる理由は、そこに『自分の居場所がない』と思い込む

ほどに拘束された息苦しい閉塞感に苛まれるためです。

この間は両親が二人ともに仕事で遅くなったので、孫達と三人で

カラオケに行き二時間ほど二人の熱唱を楽しみ、食事もそこで

済まし送り届けましたが喜びを早速お母さんに報告していました。

私が冬の定休日にカラオケに行っていることを知っていて、

一緒に行きたい希望でしたので了解を取っての実現でしたが、

子供達の知ってる曲や私の車で聞き覚えている吉田拓郎の曲では

デュエットを楽しみ高得点の採点結果に一喜一憂したことなどは、

私が死を迎えるときに持って行ける最良の想い出になりました。

孫達も成長と共に様々なことの自由度が広がり、何ごとにおいても

自由なほど危険は増すのですが、自由に伴う義務と責任を意識する

ように少しづつ育むと、選択の自由の中に責任という不自由さが

伴うことを認識できる成熟した大人に近づいて行くと思います。

このような選択の自由の楽しみと失敗をたくさん経験して初めて、

過去を振り返って少し賢くなり、現在と未来に対しては過去ほどに

賢くなれないことを理解し、選択と決断に伴う義務と責任を知り

未来への恐れを抱く慎重さが身に付いて行くのです。

幼少期は親の許容範囲での自由ですが、成長と共に自己判断

よる自由を満喫したとき本当の意味での義務と責任を思い知りますが、

自分で選択・決断する自由の中で葛藤する経験がなければ、

過去を振り返っても賢くなれないから同じ失敗を繰り返すのです。

人間は誰でも幸せになりたいと思って様々な人生の選択をしている

のですが、実は誰かを幸せにしたいと思って生きている人間の方が

幸せを手に入れる確率が高い皮肉があります。

大人には仕事という役割、子供には将来的な社会的役割を

担うために勉強という役割があるのは、社会と家庭の機能を

円滑に果たすための義務と責任としてあるのですが、

未成年の権利はある程度制限されていても『人間としての生存に

欠くことのできない権利および自由』という人権はあるのです。

子供は本能的な生存本能で様々な欲望を抑制していますが、

親や社会をしっかり観察しながら育っており、自立できるまで

批判や批評を抑え込んでいるだけで、親や廻りの人間の背中は

実によく観察していて心の中で批評しているものです。

子供に幼少期から選択権を与えた方が多くの失敗もしますが、

その失敗を自己観察や自己批評して必ず学びに繋げるもので、

その学びから飛躍しようとして選択と決断に悩んだとき、

選択権を与えてくれた人には安心して必ず相談するものです。

それは選択の自由の裏に存在する信頼を受け取っているからで、

子供に対して支配・命令の抑圧がある親は子供を信頼していない

ということを、子供は論理ではなく肌で感じ取っているのです。

人間も含めた社会性を持つ動物は社会的な決まりの中で生きており、

その決まりを守らないと罰せられたり仲間はずれにされたりします。

社会性を持つ動物にとって孤立は精神的な苦痛ですので、

自由とは社会的決まりを守った上での制限のある自由なのですが、

人間は努力して手に入れた能力が広く認められれば、

その能力の広がりの分だけ選択の自由度が広がるのです。

しかし能力があっても利己的な欲望ために能力を使っている人は、

最終的には利己的な欲望の波にのまれて幸せ度が低い人生に

なっている傾向が強く、逆に幸せ度が高い人生に到達している人は、

能力を社会や組織や家族のために発揮している人で、競争社会で

勝ち誇ることに溺れずに自分の尺度で節度を守っている人です。

また最近多い引き籠りの中には、勉強だけして学問的な能力は

高いのですが、遊びを通じた社会性が身に付いていないために、

対人関係で上手く対応できずに埋もれている人達が多くいます。

この人達は親の意志による親の願望という命令と支配に従い、

自らの意志で選択した失敗や挫折を経験していない人達で、

最近の教育学者の言葉にある、過度に勉強を強いる親による

『教育虐待』の犠牲者です。

これは子供をレールに乗せ『お前のため』という真綿で首を絞める

行為の結果なのですが、これを受け入れ続けて育つと親の願望と

自分の欲望が一体化してしまい健全な自我が確立できないので、

成人し社会的に高いヒエラルキーを得ても達成感が得られず、

社会的な価値観以外の自らの価値観による選択と決断ができず、

いつも思い悩み苦しむという迷走した人生になる傾向があります。

人間は食物に似ている所があり、若いときは新鮮さだけが売り物の

食物に似てますが、長寿の人間が旨みやコクのある成熟した大人の

味を出すには、発酵食品のような腐敗は必要不可欠なのです。

発酵食品とは新鮮な物を腐臭が放つほどに腐敗させてから

酵素の作用で発酵させますが、人間は化学反応を起こすような

人との出会いが酵素ですので、できるだけ若いうちに腐敗させ

発酵する機会を得て成熟した大人になる必要があると思います。

幼少期から少しずつ邪悪な経験をたくさんすることが腐敗で、

その腐敗による失敗からの出会いが学びの発酵に繋がり、

酸いも甘いも経験し清濁併せ吞む熟成期間を経て成熟した

コクのある大人になるのですが、若いときの腐敗が激しい人ほど

発酵すると得も言われぬ面白味のある人になっているものです。

邪悪な腐敗したままで終わる人もおりますが、このような人は

心の鍵を開けたいと思う人に出会えなかった不幸のようですが、

実は数少ない幸運の女神の後ろ髪をつかみ損ねているのです。

選択の自由は円滑な夫婦関係にも大切で、妻の裁量である

家事などにはなるべく口を挟まない方がよいのは、その我慢をすると

妻は男の仕事や趣味に口を挟まず慎むことに必ず繋がっています。

子供は親を選べずに生まれてきていますが、夫婦はお互いに

相手を選択した責任が最初にあるのですから、多少の不満は

我慢をする義務を背負った上で判り合う努力が必要なのです。

ただ育児だけは母として父としての子供観察を話し合い、

子供の性格なども考慮し育児方針を決めることが求められますが、

これこそ夫婦関係と子供成熟への善循環として機能するからです。

人権とは選択の自由のことで、この生きるための選択の自由を

与えることこそが人間の持つ邪悪なものを鎮め、自己啓発に

励むことに繋がっており、やがて成果が上がり自信が深まると自然と

他者にも贈与したいという、人間の持つ一番美しい自己犠牲的な

精神に昇華されのではないか? と私は思っています。