過ぎたるは猶及ばざるが如し

『過ぎたるは猶及ばざるが如し』という言葉は孔子が弟子の質問に

答えた、何事もやり過ぎることは何もしないのと同じで中庸が大切

説いた言葉ですが、仕事や運動や勉強やお金なども含めて

全てのことに当て嵌まっております。

ここ大麻は札幌近郊へ通勤する人達を想定した新興住宅地として

開発されましたが、それまでは農地だった地主十人位から

北海道丁が買い上げ住宅供給公社を通じて分譲されたと、

私が創業してから後にお客様から聞き及びました。

その後四十六年間商いを続けているうちに様々な風聞を耳に

しているうちに、巨額な金額を手にした地主の方達が騙されたり

事業に失敗したりなどして裸同然で次々にこの地を去り、

今は次世代です残っているのは一軒だけになっております。

現代はお金があることが幸せに繋がっているように捉えている

時代ですが、何事も程々が大切な好例と言えると思います。

人間とはお金を持つと使わないではいられない動物で、

持つともっと増やそうなどと野心を持つだけでなく、そこに目を付けた

邪悪な野心家が甘い言葉で言い寄ってくるものですが、

元々が農家だった人に商いの経験などないので酸いも甘いも

舐め尽くした野心家に騙されるのは必然のように思います。

私が創業した高度成長とバブルの絶頂期の頃までは

地価の上昇はうなぎ登りでしたので、最初に分譲住宅を購入した

世代の人達は資産バブルの恩恵も受けていましたので、

その世代の子供達の中には高額な相続を授かった人達も

見てきましたが、やはり不幸な末路に繋がった人がおりました。

その後は近郊の土地も住宅地として開発が拡大しましたので、

様々な地主の方達が巨額のお金を手にしましたが、結果は

同じような末路の話が耳に入りお金は魔物だと思いました。

私が思ったのは『人間は自分で汗を流して稼いだ金額以上は

結局管理できないのではないか』という結論で、西郷隆盛が

『美田を残すな』と言ったのも同様の趣旨で、棚からぼたもち的な

過剰なお金を残すと孫の代までの不幸に繋がるという警告です。

何事も段階を踏んで少しずつ身に付け成長して行くことが肝心で、

その過程の中で小さな失敗を重ね学んだことが大きな失敗を

未然に察知し防ぐ能力開発に繋がっているのです。

学問も同じで子供のためと無理強いをして勉強をさせた結果、

遊びを通じた社会性の欠落のためにちょっとした困難の挫折で

引き籠りに繋がった子供達もたくさん見て参りました。

高度成長期の新興住宅地では教育競争が盛んで、ここ大麻では

子供を地元の高校ではなく学区外の札幌の高校に入れることが

親の名誉と誇りのような風潮がありましたので、親の期待に

沿うように子供を育てることが当然のように行われていました。

札幌の高校から有名大学に進んだ子供達もおりましたが、

高校や大学や社会でドロップアウトした子供達も出ていました。

もう五十代に近いその頃の子供は中学や高校の頃に来店していて

色々な話をたくさんしたのですが、本当に勉強ができる子供達は

勉強は短時間で集中して済まし趣味の時間も楽しんでおり、

自分は勉強ができるなどと思っておらず『もっと頭の良い奴はいる』

という謙虚な気持ちを持っていたのが印象として残っています。

中には事業を始めて成功している人もおりますが、

このタイプは勉強は程々ですが人間の機微に長けていて、

好感が持たれ人の協力を得る『人たらし』的なものがありますが、

誠実で頑張り屋で飛びぬけて人を見る目を持っていました。

この頃の子供達は親が元気なうちは帰省すると顔を出して、

社会の変化や荒波の様子を聞かせてくれましたが、最近は親が

施設に入ったり亡くなったりして機会が少なくなり寂しくなりました。

最近は高齢者への健康不安を煽った後の甘い勧誘が

テレビコマーシャルに跋扈していますが、健康問題なども同じで

規則正しい生活と手間をかけた食生活が健康維持の基本で、

お金で手に入る手軽な健康対策は『過ぎたるは猶及ばざるが如し』

に繋がっているような気持ちで私は見ています。

私共のお客様で九十歳以上で一軒家でひとり暮らしをしている

方達が十人ほどおりますが、掃除や買い物などで多少は

介護保険制度の世話になっても、自分で料理をして台所に立ち

下ごしらえから逆算して作る一品で指先を使い脳を働かせ、

後片付けも含め二時間以上は立って筋肉を使い、ゴミ出しの曜日

や何処へ行くにも天気予報を見て予定を立て頭を使っています。

先日お届けした方は九十八歳ですが、玄関で十五分ほど立ち話

しても足も認知機能もしっかりしており、先日ケアマネージャーに

施設に入った方が良いか? 相談したら、高野さんが言ったように

『施設に入ったら認知症になる』と止められたと話していました。

人間の身体と脳は基本的に使わなければ衰えるもので、

九十三歳男性の方は昨年免許の更新をし認知検査と実地検査を

クリアーしましたが、この方は七十二歳で第二の職場退職時から

朝食を作り最近は昼食も作ってくれると八十八歳の奥様が言っており、

家庭菜園や雪ハネもやり過ぎずにコツコツと少しずつ今でも

やっており、孫達家族が曾孫をつれて訪れ賑やかに過ごしています。

このような方達に共通しているのは、依存せずに自立している

だけでなく過剰な負担をかけない工夫を意識的にしていて、

困ったことは若い人達に相談する甘え上手ですので、

先日も孫達に冷房設置を勧められたからと私に業者紹介の

依頼してきたので早速手配してあげました。

お金の使い方も美味しいものやみんなの楽しみを優先しており、

華美や自己顕示的な消費には興味がない点も共通しています。

一般的に人はお金を持つと華美で自己顕示的なものにお金を

使わないでいられない習性があるのですが、これこそ育ちの悪い

『過ぎたるは猶及ばざるが如し』に繋がっており、お金だけでなく

仕事も勉強も健康も程々の中庸がバランスを保つ秘訣です。

一般的には良いことに思える几帳面さや優しさなども、

度が過ぎると長い結婚生活の欲求不満に繋がっているもので、

几帳面な人は誰にでも同じ几帳面さを要求する傾向があり、

優しさも受け続けると歯ごたえのない食べ物みたいで

怒りのやり場に困る、どちらのタイプもやがて息苦しくなるものです。

大事なのは何ごとにも相手につけ込むスキを残しておくことで、

そのためには程々の加減に留めるように心掛ける知恵が肝要です。

子育てなども何かに特化した育て方よりも、子供の特性を

生かしながらもその分欠けているものに目を配って助言する

バランス感覚こそ親が配慮すべきことで、その方が最終的には

供の幸せに繋がっているのではないか? と思います。

人間としての器なども、特に男は大物らしく振る舞うことが多い

のですが、昭和の陸軍史において大物ぶりを装った長勇は

沖縄戦で最後の日が近づくと『母ちゃん、助けて』と泣いたそうで、

二・二六事件の黒幕だった眞崎大将なども反乱軍として

位置づけられると無関係を装い『命だけは助けて下さい』と

懇願し泣いたそうで、この時代の威勢のいい大物達のほとんどは

官僚的な出世主義で小心者のまがいものだったそうで、

このようなまがい者の大物達が跋扈していた時代だったから、

無謀な戦争を始め悲惨な負け方をすることに繋がったのです。

反対に明治維新の英傑たちは取り込まれるような組織に属さず、

既存の体制を破壊し新しい国家を創ろうと裸同然で理念の実現を

目指したのですが、大物ぶった張ったり者はいなかったのです。

このように何事にも度が過ぎた行為の裏には、反対の要素を

覆い隠す心理が隠されており『過ぎたるは猶及ばざるが如し』

の格言が的を得ているのだと思います。

この心理は女性についても言えて、男の前で過度に女性らしく

振る舞う女性ほど女性らしいものが欠落していると推察すべきで、

騙されたと気が付いたときはもう遅いので『見る目がなかった、

選んだ自分の責任』を思い知る以外に学びはないようです。

また私の経験で一見天真爛漫に明るく振る舞う人なのですが、

なぜか無理した装いの匂いを感じる女性や、

男の中にもへらへらした笑いで媚びを振りまく男がいるですが、

このような人達の笑いや明るさの陰には誰にも知られたくない

悲しみを封印している人が多くおり、本人は無意識なのですが

悟られないように仮面をかぶって過剰防衛をしている人達でした。

反対に笑わないクールな人もいて、このような人も何か心の傷を

封印しているのですが意外と心根は優しい人が多く、きっと本来の

自分の優しさを傷つけられたトラウマからの仮面行為と思います。

誰の日常にもペルソナ的な言動は当然必要なのでありますが、

やはり過剰には害は有っても益は少ないと私は思っています。

しかしこの歳になって振り返ってみると、若いときには度を越した

背伸びの見栄を張った末の惨めな思いを経験することは必要で、

私自身は恥辱経験こそが人生の良い薬になっていたのが事実です。

そんな人生の中で私自身が他人に深く傷つけられたり、

刺激を受け変化したり、傷心を慰撫されたりした全ての経験によって、

人間として『どう生きるか』という点で深められたと思っています。 

これからの私は過ぎたることは困難になり、及ばざることが増えて

参りましたが、残りの余生は燃え尽きそうなエゴを極力抑えた

瘦せ我慢の美学の先にあるダンディズムに淡い憧れを持っています。