言葉と思い。

孫達の成長の節目を眺めながら遠い昔の子育ての記憶が蘇り、

こんなときはこんな言葉をかけたとか、喉まで出かかった言葉を

必死に飲み込んで胸の中に仕舞い込み、偽善的な優しい言葉を

かけて今は見守るだけに徹するのだと自分に言い聞かせたことなど、

孫達の様々な状況に接するたびに想起されます。

人間とは遺伝的な要素と環境的な要素が複雑に絡み合って、

性格や能力や人間性が育てられていくのですが、私自身は

環境的な要素が六で遺伝的な要素が四くらいと考えております。

環境的な要素が良いことばかりでも駄目で、作家などは環境的には

貧困や病気や抑圧などの不遇が、物事を透徹した目で捉える才能に

繋がっていると思えるように、人生とは過去の不運や不幸が

未来の幸運や幸せに繋がっていたり、反対に過去や今の幸運が

不運を導いたりするように複雑に交差しているものです。

不運や不幸を未来の幸せに繋げられる人は、その不運や不幸を

自らの責任として受け入れ学びに繋げているからできるのです。

反対にその不運や不幸を社会や他者によるものと他責的に

捉える人は学べず努力しないので悪循環のループへと入り、

その全てを社会や他者のせいにするのでより不幸が深まります。

『運』とは運ぶと書くように幸運も不運も決してこぼれ落ちてきたり

出会いがしのものではなく、ほぼ八割ほどは自らの努力や

人間性によって運び引き寄せているから『運』と書き

残り二割が本当の偶然や出会いがしらのものと私は思っています。

『幸せ』という字も『辛い』という字に数字の『十』を載せている字で、

私の解釈は辛い経験を十度乗り越えて手に入れるものでは?

と思うことにして、日常の辛さは受け入れることにしています。

映画やドラマのように一人の人間を俯瞰して捉え眺めているときは

理解できますが、意外と日常的には自分や身近な人に対して

そのような俯瞰した捉え方をしている人は少ないと思います。

現代の医療は科学的な検査によって診断しておりますが、

昔は触診という作業によって体内の痛覚部分を探りながら、

どこに異常があるのか? を見極める経験知がものを言うものでした。

その過程において大事なことは予想される個所をいきなり押す

のではなく、周辺部分から触診し徐々に痛みの部分に近づくことで、

患者の痛みへの怖れを緩和する配慮が正確な診断に繋がります。

子育てを含む人間関係にも同じような配慮が必要で、言葉なども

いきなり的を得た相手の心の痛みを配慮せずに発する言葉は、

相手に過剰防衛による虚勢を張らせることに繋がってしまい、

より正確な相手の心の痛みに到達しづらいと私は思っています。

喉まで出かかった言葉を飲み込んで胸に仕舞い込む思いやりが

できるのは、相手の辛さを熟知しているからこそできることで、

それを言葉に出さずに見守り続ける忍耐こそが、時間をかけて

相手に伝わったとき立ち上がる真の勇気に繋がるのです。

人間とは言われた言葉が的を得ているときほど深く傷つき、

それがトラウマになったときほどその傷を隠そうと振る舞うもので、

その防御姿勢が強くなったときほど謙虚さは失われています。

勿論場合によっては鋭い言葉で切り込む場面も必要ですが、

そのような場合の後は『そんなことを言ったことすら忘れている』

よう意識的に振る舞う配慮をして日常をやり過ごすことです。

加害者が加害意識を持つと被害者が被害意識を持つように、

加害者に加害意識が存在しなければ、被害者は被害意識をたとえ

一時的に持っても次第に薄れて行く相互関係があるからです。

大人同士の関係と違い子育ての難しさは、子供とは日々変化を遂げ

成長しているために心の痛みを感じる部分も日々変化していることで、

痛みも友人関係だったり学業だったり性的成熟度の違いだったり

家庭の裕福度の違いだったりと、子供の成長段階によって

心の痛みを探る触診の難易度は上がって行きますが、

幼児期から十歳位まではただ慈愛を授け話をじっくり聞く忍耐で、

その慈愛によって子供が自己肯定感を確立できさえすれば

大概のことは乗り切って行くものです。

夫婦関係なども最初は文化的な違いに戸惑いますが、慣れてきた

三年目くらいから危機が訪れると思っておいた方が良いのは、

慣れから無意識にグサリと指すような言葉が出がちになるからです。

何事においても慣れほど危機を呼び寄せるものはなく、

交通事故なども知らない土地より、自宅近くの日頃知っている土地に

近づいたときの気の緩みから起こっているそうで、人間関係も

慣れこそが目に見えない危機を呼び寄せていると私は思っています。

グサリと指すような言葉吐くときなども、相手への好意を伴った

薄情の情けを意識して言っていれば必ず思いは伝わるもので、

悪意からか? 好意からか? の判別はこちらの表情や

その後の対応や様子などから確実に相手に伝わっているものです。

仕事上の人間関係なども何気ない言葉の中に、高圧的な見下した

言葉使いと敬意を払った言葉の違いによって好意的になったり

嫌悪感を感じたりしており、言葉には思いが表出しております。

見た目には人間ひとり一人に違いはないのですが、言葉には

人間性という思いが表出しており、それが協力者を得られることと、

協力を得られないだけでなく足を引っ張られることにも繋がっており、

その結果として自分の居場所が心地良いものになったり

不快な居心地が悪いものにもなったりしているのです。

かってフロイトが『抑圧は回帰する』と述べていましたが、

謝罪や感謝などもきちんと吐露しておかないと同じ過ちを繰り返す

もので、抑圧した物事は後で別な症状として必ず戻ってくるのです。

ウソも次の嘘を生み同じ苦しみを生み続けるのは、自分自身を

騙し続けることはできない回帰のためで、結局思いを言葉にしない

ことが倫理的な負い目に苦しむ蟻地獄へと自ら追い込んでいるのです。

心の治療とはまず日常的に抑圧していることを吐き出すことが

前提で、それに対して精神科医は答えを示唆するのではなく、

答えは患者自身が自らを見つめた先に探り当てる作業で、

医師はその方策を提示し手助けをしているだけです。

日頃の偽善や欺瞞なども真実を抑圧しているのですが、

その真実の抑圧が次の偽善と欺瞞を生んでいる悪循環に陥り、

自分が苦しむだけでなく廻りの人の信頼をも失う苦しみを生んでいる

悪循環に陥っているのも自らが運んでいるのです。

精神病は非常につらい体験を無意識的に閉じ込め自分を守ろう

する自己防衛機能が働く抑圧によって発症しますが、

そのつらい過去が何かのきっかけで回帰し発症するのです。

しかし辛さが重度の人は多重人格などを発症するのですが、

そのような人達には幼児期にひどい虐待経験などがあります。

人間は心の中に辛い記憶のような何か引っかかっているものがあると、

その居心地の悪さが心に負荷をかけるので抑圧するのですが、

その辛い感情を言葉として吐き出す相手に恵まれず許容限度を

超えると、自分で自分の辛い心を救う自己防衛手段として

主人格に対抗する全く別の人格を作り上げるのが多重人格で、

別人格のときは辛さが軽減されますので次々に別人格を創造します。

心理学で『自由連想』という治療があるのですが、それは精神科医が

適当な単語(母・父・家とか)を投げかけて、その単語から患者が

連想する言葉を聞き出す手法です。

ある単語で引っかかって連想の言葉がでないとか

答えに時間がかかるようなら、その単語はその人の心の中に

何かしらの抑圧がかかっている単語と解釈できるのです。

多重人格の治療は主人格が抑圧したことによって生み出された

対立した人格の背景探り出して、主人格との折り合いをつける

作業を積み重ねて行き、別人格を少しずつ主人格に統合していく

という非常に息の長い治療が必要になります。

軽度では幼児期に依存できた大切な人の死に直面したとき、

大人のように上手く受け入れられず消化できない抑圧などが、

対人関係を上手く処理できない症状として出る場合があります。

心の治療は抑圧の感情を吐き出し直視する経験によって

昇華に導くのですが、子供の頃の些細なことをよく覚えていない人

は何でも聞いてくれる人がいた、抑圧のない幸せな育ち方をした

人と思ってよいと思います。

このように思いを言葉にするということは非常に大切なことで、

心の健康維持に欠かすことができないものに繋がっています。

親子も夫婦も会話が大切なのですが、キーポイントは相手が

辛そうなときは決して意見を述べずにただ聞いてあげることで、

人間とは何かをしてくれる人より自分の感情を受け止めてくれる人、

ただ『自分の言うことを黙って聞いてくれる人』が好きになる

ということを肝に銘じて子供や伴侶と会話することです。

私の妻は聞くだけで意見は求めないと述べませんでしたが、

私はつい口を挟むので妻は『意見はいらないからね!ただあなたに

聞いて欲しいの』先に言ってから嫌なできごとを話していました。

この嫌な感情を言葉にして吐き出すことがどれほど大切か?

その言葉を聞いてくれる人がいることがどれほど恵まれているか?

いない人はどうすれば得られるのか? を知り学ぶことです。

人間は誰でもそんなに立派なものではなく大差ないのですが、

一見大きな差に繋がっているものは『駄目な自分を言葉にする』

ことができるか? できないか? だけだと私は思っています。

そして『駄目な自分を晒す』という思いを言葉にできたとき、

そこから『新しい自分』生まれていることに気が付くと思います。

そのとき自分自身が少し成長や成熟しているような実感が持てたなら、

きっと廻りの人からの信頼も自然と増しているので、自分自身の

存在への自己肯定感が持てる楽しい人生に繋がって行くと思います。