何事も空気が決める国。

私が店頭でお会いする人達は高齢者が多いのですが、

時折子育て真っ最中の人達や独身の若者達とお話をしていて、

労働環境が日増しに悪化し大企業などでも『力が正義』の

ブラック化が進んでいることを実感させられています。 

しかしこの労働環境の悪化が当然のように受け入れられ

常識化されていることに倒錯した危機感を覚えるのは、

生きる為に働いているのか? 働く為に生きているのか? 

を見失っているように感じることがあるからです。 

このような状況を生んだ背景に影響を与えたのが1999年の

男女雇用機会均等法の改定で、男女で選考基準や

採用枠の差別をなくすことが定められ、看護師や保育士の

名称も性的に中立的なものに変更されましたが、

同時に女性に対する深夜労働や残業や休日労働の制限

であった女子保護規定も撤廃されました。

この法律が性別による格差是正という社会的公正を目指し

女性労働者の就業拡大に繋がったのですが、副作用として

働いたのがバブル崩壊後の不況で体力が落ちた

大企業のブラック化に繋がって行ったことです。 

女性労働者が様々な職域に進出するようになったことが、

実は企業にとっては求職者数の増加による

人材の選別機会が増加することに繋がり、

次第に代わりの人間はいくらでもいるとの考え方になり

労働条件を切り下げるコストカットに繋がったからです。

男女雇用機会均等法の改定以後はテレビドラマなどでも

颯爽と活躍するキャリアウーマン像が流され、知らず知らずに

洗脳されたように女性の求人数が増え続けたので、

企業側には有利に働く労働条件の悪化が続きブラックな企業が

増え続け社会的な空気として常識化したのだと思います。 

均等法の改定から暫くは、地方企業の正社員などより

派遣社員でも都会のおしゃれなオフィスの企業に勤めたい

という職業観が定着した時期が続きました。 

この就職氷河期頃から人材の職能的な優劣や

人間性の良し悪しなどではなく、非人間的な労働条件に耐えた

過労死寸前の者が昇進するという異常な人材淘汰の始まりでした。

その後小泉内閣の構造改革による製造業への派遣社員拡大は、

企業側にとっては人材の選別と更なる人件費削減という

二重の利益を生みましたので、企業の内部留保は拡大し続け

現在は六百兆円強にまで膨らんでいます。 

流石に不況と昇給なしの労働条件悪化が三十年も続いたので、

最近の優秀な若者達の中には企業に見切りをつけて、

スマートさより人間らしい生活を求めて地方へ移住するという

若者の逆転現象が起こり始めておりますが、依然として雇用条件の

劣化を改善するほどの強い流れにはなっていないと思います。 

企業と労働者という関係は産業革命以後に生まれたものですが、

経済成長だけを求めて生きることが実は生活の基盤である

地球環境を破壊していることにも繋がっています。 

このような流れを作った責任は私達の世代にあるのですが、

何事も意図した事と反対の現象が起こるもので、

利便性や物質的な豊かさの増大と反比例するように

精神的には人間らしい生活が失われたように感じております。 

科学技術は社会を劇的に変化させるのですが、

特に半導体によるコンピューターとスマホの出現は、

全ての領域において人間生活だけでなく人間の精神を

良くも悪くも変化させ続けております。 

誰もが経済的に先の見えない不安の中で生きているのですが、

豊かさの中で多くの人が見失ってしまったものが不安の中でも

持ち続けるべき人間として矜持と思いたいのですが、

格差による不安の増大がもたらした最大のものが自己保身と

自己中心的なエゴイズムの蔓延のような気がしています。 

失われた三十年間に拡大した格差はナショナリズムを加速させ

分断を生み戦争に繋がる危機を孕んでおりますが、

経済だけはグローバル化しておりますので利害が複雑に

絡み合って解決策も複雑過ぎて単純ではないので、

今後はウクライナのような武力衝突という戦争の危機が

世界各国で高まって来ると思います。 

戦争は地球環境の破壊だけでなく難民を増やし食糧難をも加速

させるので何も良いことはないのですが、個人も国家も不安に

駆られると凶暴化し攻撃的になるのだと思います。 

社会の変化と共に様々な法改正が行われるのですが、

ある歪みを調整するために法的に規制したり解除したりすることが

意図とは違う結果を生み悲劇に繋がってしまうのは

全て人間の悪知恵のなせる業です。 

私などは妻と娘との生活の中で望んだことは、

家族が健康でありふれた幸せを実感できれば御の字と思って

生きて来ましたが、今は孫達の時代がどうなるのだろうか? 

とひたすら気を病んでおります。 

一億総中流時代頃から核家族化が進み、

バブル時代までは企業戦士という言葉が持て囃されたのですが、

キャリアウーマンという言葉が生まれた頃から

過労死と孤独死という言葉が飛び交うようになりました。 

結婚しない人も増え続けて、これからは家族という概念も

時代と共に希薄になりそうで、社会的孤立が一層進むことで

より自己中心的なエゴイズムは拡大しそうな気がしています。 

私共のお客様も高齢化で伴侶を失い独居老人が増えておりますが、私ができる範囲で手助けしたいと思っても素直に受け入れてくれる

人が少ないのは、介護保険導入以後の社会状況の常識では

全ての行為が金銭的な価値観で考えるようになったからです。 

私も病気で身体的な弱者を経験して様々な人達に

お世話になったのですが、できる者ができない人をできる範囲で

助けることが世代間で繋がれて行くことが、人間が社会を構成した

目的だったと私は思っています。 

誰でも必ず身体的な弱者になるのが必然だから、

家族から村を作り相互扶助の組織化を諮り世代間で

繋いだのですが、お金万能の資本主義時代になってからは

介護保険という金銭的な相互扶助の制度になってしまったのです。 このような制度を批判しているのではなく、介護保険制度と共に

共存すべき家族制度と地域のコミュニティーが崩壊し

始めていることが認知症の増加にも繋がっているのでは? 

と孤立社会の弊害を危惧しています。 

人はひとりでは生きていけないもので、誰かを支えているという

自負心や誰かに支えられ誰かに気に掛けてもらっているという

温もりの安心感が生きる勇気になっているものなのに、

現在は支える現役世代も支えられる高齢者世代もそれぞれが

別な複合的な要因に追い詰められて解決を難しくしている

ような気がしております。 

今の高齢者は高度成長とバブル経済の恩恵による

資産インフレと、その頃に若年世代が増え続ける想定による

高額な年金制度に支えられているので、高齢独居老人は

福祉施設入居で最後を迎えることが可能ですが、後進世代の

年金額は低下し続けておりますので入居が難しくなり、

福祉施設の破綻の時代は間違いなく訪れると思います。 

政治的には介護保険料の負担増額で対処しようとしても、

分母が縮小すると負担額は過大になりますので

年金・介護保険制度そのものの運営が破綻に向ってしまいます。 

できる者ができない人をできる範囲で助けることが世代間で

繋がれて行く基本が家族制度で、次が地域のコミュニティーを

活性化することなのですが私には逆行しているように見えていて、

このままでは現役労働世代の負担増加に向う危機を憂います。 

終戦後の東京裁判で戦争責任を問われた人達が口にした

常套句は『私個人としては反対だったが、物事のなりゆきと

空気がそうさせた』という受動的な弁解で、指導的な立場で

遂行した人達は自分達が決定したことの功罪について

責任を取ろうとする人間がいなかったことも辺境島国の

日本人が血肉化したもののように思います。 

これはアメリカのように理念によって建国した歴史的な経緯がない

ことに起因しており、遣唐使や遣隋使を派遣した頃は中華帝国から

学び日本的なものに応用したように、明治維新後や敗戦後は

西洋思想や制度を学び取り入れて応用しており、

いつも模倣から出発していたことが国民性として身に付き

血肉化しているので、何事を決定する過程においても

理念ではなく全体の空気に流され決めてきたことが責任を取る

人間がいないことに繋がってしまったのだと思います。 

このような思考形態が日本で土着化したなかで、

年金・介護保険制度だけでなく全てが模倣の借り物でずるずる

やってきた日本が、それでも何とかなってきたので修正する機会を

逸してきたのですが、千二十九兆円にまで膨らみ続けた国の借金を

背負う次世代への責任は誰がとるのか? 

円安要因の異常な低金利を正常に戻す過程に伴う様々な痛みの

副作用を思うと、企業より国民生活に多くが負担として跳ね返って

くると思います。 

反対できない空気の中で行われたアベノミクスの後始末は、

次の日銀総裁になるのを固辞する人が多かったほどの難題を

抱えているのですが、その後始末は責任を取る人がいなかった

敗戦後と同様に国民生活には重くのしかかってくるからです。