夢と希望という戦後教育。

二年生になる孫が学校へ行くようになってから、大人社会の建前による

子供への無言の『良い子になる』圧力を、漂う空気から敏感に

感じ取っているのが伝わってきます。

西洋思想へのキャッチアップを目指して始まった学校教育の中で

始まった子供達への『夢を持て』という言葉の氾濫と共に、

職業の選択にも夢が持ち出され勉強に励むのも夢の実現のためで、

いつも未来のために今を犠牲にするのが当然の時代になった

ように思い、私は『何かが違う』と感じています。 

そしてその夢の実現によって不特定多数の他者から

賞賛され認められて高収入に繋がるという社会的な評価を

求めている人が増えたように思われます。 

学校で書かされる文集などでも将来の夢を求められますが、

この競争社会で勝者になるのはほんの一握りで、

現実は大多数の敗者がいるから頂点の勝者が賞賛されるのです。 

私は劣等生で期待されてもいなかったので振り返っても

夢を持った記憶などなく、勉強に励んだのは支配的な父から

逃れるために『自立して暮せるようになろう』と思ったからで、

自営業を始めたのもサラリーマン生活では

『尊敬できない嫌な上司に仕えるのは嫌でも避けられない』

と思ったからです。 

自営業になってからも好き嫌いは抑えきれず、差別に近

区別で接して妻に叱られてきたのも、自分の直感的な感情を

抑えられない未熟さゆえですが、生きることの大切さとは

他者の評価や承認より自分自身の感情的な自己満足だと

思って生きてきた幼児のままなのです。

人間のその人らしさとは、知力や能力などではなく感情こそが

その人らしさを物語っていると思い至ります。 

私は好きな妻に承認してもらえば世界中が敵でも平気と

言って妻に笑われたことがありますが、妻も同じと

言ってくれたときの嬉しさ忘れられないのですが、

そんなささやかなことのために生きたことの幸せの確信

今の私のひとり身の生活を支えています。 

今は娘や婿殿や孫達から必要とされ承認されるだけで

生きている意味を実感しますし、好きなお客様から承認され

好意を感じるとそれだけで幸せな気持ちになり仕事にも励めます。 

夢や希望とは何か大それた目標みたいなものを想像しがちですが、

ノーベル賞受賞者でも努力だけではなく誰かの協力や

アドバイスなどの必然的な偶然もあり、経済的な成功者でも

時代が要請した時代に生まれた偶然もあります。

人間国宝になった人の中には、生活のために修行に勤しみ

毎日コツコツと積み重ねてきたら、他の人が嫌がる仕事だったので

日本文化の唯一の継承者になっていたという人もおります。 

貧しく生まれ生活のために丁稚奉公に入り誠実に仕事に

向き合っているうちに、技術を習得するだけでなく自らの

創造的な改良技術のために独立した松下幸之助や

本田宗一郎は子供の時からそんな夢を持っていたのではなく、

誠実に仕事に向き合っているうちに企業家としての夢が

生まれてきたのだと思います。 

私が実際にお会いした六花亭の創業者小田豊四郎氏も

千秋庵に丁稚で入り、その誠実な仕事ぶりを認められ昔の

『暖簾分け』制度によって帯広で開業したとお話していましたが、

修行中に本を読み勉強したことが伝わってくる知的な人でした。 

北海道の優良企業の社長になっても毎朝工場の周りを掃除

しながら、社員やアルバイトの人達に『おはようございます。

ご苦労様です』と朝の挨拶をしてくれ、『仕事は慣れましたか?』

と声をかけてくれたと、高校時代に工場でアルバイトした

リハビリ施設の看護士さんが私に話しておりました。 

私は夢を持つななどと言っているのではなく、

大人が押し付けるのは子供にとって重圧になるだけなので、

っと子供を伸び伸びと育ててあげるべきと思っているだけです。 

娘が高校受験前に『高校にいったら友達を百人作って

楽しみたい!』と言ったのですが、この友達を百人も

小学校の音楽の歌詞にあったからと推察しました。 

これも子供には洗脳に近く、もし自分が一人も友達がいない

ような孤立状態にあったら辛いだけですが、

常識的に友達が百人もいる大人はいないと思います。 

今の私が友人と呼べるのは五人ですが、誠実に仕事をしていると

喜怒哀楽を通じて心が通い合える沢山の人と出逢えて、

そのたびに幸福感を味わいましたので、今私はいつ死んでも

『幸せな人生だった』と受け入れることができます。 

もう子供達に建前の夢や希望を強要するのは止めるべき時で、

『あなたが何か好きなことに取り組んで楽しいと

思えることがあったら頑張ればいい、そこから夢や希望が

見えてくるかもよ?』というような軽い気持ちで見守ってあげる

方が子供達は健全に育つような気がしています。 

子供は無意識的に親の欲望を取り込んで好かれようとしますが、

自分自身の欲望でないことに気付く思春期頃に虚しくなり

投げやりになるのは自己肯定感が揺らぐからです。 

大器晩成型が大物になる確率が高いのは、きっと夢や希望などの

期待に押し潰されないで伸び伸び育つからと思います。

私は孫が宿題をしたくないと言った時は、いつも抱きしめてあげて

『??ちゃんはいつも十分に頑張っているのだから、

やりたくない時はやるんでない』と言ってあげるのですが、

泣き止んで数分すると『やっぱり宿題やる』と言って自らの意志で

始めた時は集中するのでアッという間終わらせます。 

『すごいね』と褒めるのですが、何事も強制ではなく

自らの意志で始めるようにしてあげて自信を持たせることが

子供の未来の夢や希望にも繋がるのではないか? と思いますが、

『??ちゃんはいつも十分に頑張っているのだから』という

枕詞が子供の自尊心を刺激し否定をしないところがミソです。

新自由主義の普及と共に現在常識化しているのが、

勝者は才能と努力で手に入れたのだから全てを取って当然で、

敗者は才能がなく努力しなかったのだから自己責任で

知ったことではないというような、自分が敗者や弱者になった時

など決して想像しないエゴイスティックな思想の蔓延です。 

こんな世の中の経済的な成功者を目標とするような夢や希望や、

自己利益しか考えていない政治家や権力者への夢や希望など

持てるはずもなく、健全なものではないから若者達は

虚無的になっているのだと思います。 

企業はまるで恐怖政治のようにサービス残業を当然のように

強いてブラック化しているから日本企業は衰退し続けており、

学問の研究論文数の分野でも日本が減少し続けているのも

一人ひとりの個性と人間性を抑圧してきた結果です。 

六花亭の小田豊四郎氏のように奢ることなく、

自分の手足になってくれる人達に感謝し配慮し続けるような人が

上に立つようになれば日本は必ず再生すると思います。 

大勢の人に賞賛され『すごいね!偉い人なのね!』などと

認められる仕事でなくても、生活の糧として戴いている給料

のために目の前の仕事を誠実に勤めることだけで偉いのです。 

誠実に仕事をしていたら、決して会社や上司や顧客の言いなりの

奴隷になるようなことは自尊心が許さないので毅然と振舞えます

し廻りも状況を見ているのでやがて認めてくれると思います。 

私自身は好きな人と普通に暮し一緒にいるだけで、

その好きな人が元気で傍にいてくれるだけで、

その好きな人の悲しいときや嬉しいときを共に過ごせることが

幸せだったので、それだけが私の夢や希望で過ごしてきました。 

今はその好きな人との想い出が生きる力になっていますが、

失意からここまで立ち直れたのは娘と婿殿と孫達のお陰で、

娘達家族四人が仲良く元気で暮している姿こそが私の希望で

末永く続くことが今の私の夢みることです。 

惨めな敗戦後のイジケタ卑屈さから始まり、高度成長と

バブル経済の傲慢さという極端な時代を経て、

失われた三十年を経験した現在は建前と本音が乖離した

醜い世相になっているような気がしています。 

伝統的な職人芸のような日本人の美質である潔さ・優しさ・

長幼の序などが失われて、無責任な集団主義や

付和雷同して弱者を貶める自己規律のなさが目立ちます。 

成功者は自分の弱さや貧乏臭さを隠すようにブランド品や

高級車で身を包む卑屈さが丸出しなのに、弱者への疚しさは

感じるどころか逆に誇っているように見えます。

  弱者に貶められている人達も『苦しんでいる・差別されている』と

  救いを求め叫ぶだけでなく、今自分ができる目の前のことを

  誠実に積み重ねる努力を諦めているように感じていますが、

  最近の統計では七十%以上が労働に喜びを感じていないそうです。 

  敗戦後は戦勝国アメリカGHQから押し付けられた全てを

  受け入れざる得なかった惨めな卑屈さを味わったのですが、

  全ては認め受け入れるところから始めて立ち上がる中で

  アメリカへの面従腹背を装い、次は勝つという思いで経済復興を

  果たし高度成長に繋げたのですが、バブル経済の頃から

  日本人が伝統的に持っていた毅然とした精神を失ってしまい、

  政治的にはアメリカの属国に成り下がり国民が拝金主義に

  侵された結果が日本の国力衰退に繋がったのだと思います。

  夢も希望もない敗戦状況の中から夢と希望が生まれた

  皮肉のように、面従腹背を装っても次は勝つという自尊心を

  持ち続けるささやかな抵抗力こそが夢と希望を生むと思います。

  それは終戦後の教育も同じで、価値観が180度転換されたことを

  学校教育で教えられ味わった世代しか知らない出来事です。

  その戦後教育と共に子供達に前景化したのが安易な

  夢や希望を持てと、友達百人作ろうという漠然とした言葉でしたが、

  このごまかし戦後教育の夢と希望の成れの果てが現代です。

  構造主義的な視点で見れば、人間は自分の生きた時代の常識を

  疑いもせずに受け入れているのですが、時代と共に常識は絶えず

  変化し続けていても変化の渦中にいると変化には気付かずに

  常識化している常識の怖さをいつも感じております。

  教育の持つ権力的な要素を思うと夢や希望を植え付けることより、

  人間の持つ邪悪な非人間的なものを自覚し疚しさを感じること

  の方が、孤立しても闘いを継続する力を養うような気がしております。

  好成績を残したサラブレッド調教師手の言葉ですが、

  幼少期の暴れ馬ほど人間への信頼感を持つまで優しく寄り添い

  じーっと待ち続けると精神的に強い競走馬に育つそうです。

  人間も同じと私は思っていて、自我を持て余して手のかかる

  七~八歳位までは、ただ寄り添い親への信頼と安心を持つように

  伸び伸びと育てる ことの方が、夢や希望を強要することより

  人間としてのその子らしい花を咲かせるのではないか? 

  と思っています。