多様性の尊重と異物排除の矛盾。

一般的に社会では個性や多様性の尊重などと言いますが、

実際身近に異質や異端に映る個性豊かな人間がいると、

最初は奇異な目で眺めやがて異物として排除しようとすることが

日本の社会では多く、それらがイジメやパワハラなどに繋がっている

建前と本音の矛盾があります。 

一般的に人間は集団を形成すると無意識的に正義を装った

同調圧力をかけて、多様性の証である個性豊かな異能を

容認できなくなる背景には、異能への嫉妬や僻みから

異物として排除に向うという複雑な感情が潜んでおります。 

集団による同調圧力とは誰かを生贄にすることで自分の安心や

安全を計る不安心理なのですが、そこに正義を持ち込むことで

自分の行為を正当化するようになると、人間とはかなり

過激な野蛮行動を平然と犯すのは、匿名性や集団という

無責任性によって人を貶め実は優越感を味わっているのです。

人間とは『他者と比較することで自分の実体を確認している』

動物ですので、絶えず他者と自分を相対評価で比較して

『自分は果して幸せなのか?』を判断する悲しい性を

脳に抱えている動物なのです。 

個性や多様性の尊重などは西洋思想が入ってきてからのもので、

島国日本で長く求められていたものは協調性と同質性で、 

コロナ禍になって顕在化したのが世界各国の対応に現われた

文化的な違いで、日本的で特異だったのが正義を振りかざす

自粛警察のような同調圧力行為でした。 

その割に日本人は政府のような権力に過剰なほど従順なのは、

『お上の言うことには逆らわない』という日本人が歴史的に

身体化しているものです。 

では近年なぜ個性や多様性が求められるようになったか? 

ですが、それは危機を迎えた時に集団が生き残るために

必須な要素であることを歴史的な経緯から学んだからで、

異質な多様性を持つ変異人間こそが異常事態に即応する

能力に長けており、人類が生き残る確率をあげ文明を進化させる

役目を果たして来たからです。 

異常事態のパンデミックが起こった時には、従来の常識的な

対応では破綻するのですが、逆転の発想で解決したのが

ワクチンの発明のように、一般の人とは全く違う視点で物事を捉え

『少量の毒を薬にする』という逆転の発想を持つ

異端の思想こそが難局を救ってきたのです。 

個性や多様性とは実は自分では自覚できないもので、

他者から『お前はここが違う』という指摘を繰り返されるうちに、

自分が集団内の多数と違う視点や思考で物事を捉えていることを

自覚でき、そこで初めて自分の個性を認識するものだと思います。 

多様性はあらゆる事態に備えるために多様な人間を求めている

のですが、ほとんどの常識的な人間は緊急事態には

役に立たないという逆説でもあります。 

特異な個性は生来的なものに加えて、幼少期の不遇や挫折な

どによる屈折した葛藤が影響しているものも多くあり、

また時代が要請する個性や多様性というものもあり、

今後のネット環境であるメタバースのような仮想空間時代に

個性を発揮する人達は、意外と引き篭もり経験者のような

閉塞的な状況で長く葛藤した特異な個性の人達が

向いているのではないか? という気が私はしています。 

スティーブ・ジョブスなどは生後すぐに養子に出され

実母と初めて会ったのは三十歳の頃で、実父とは一度も逢わず

過ごした特異な不遇環境で育ったことが特異なこだわりの

才能に繋がったような気がしています。 

そして個性と多様性を持った人が幸せになっている確率が

意外と少ないのは同質性に欠けることが遠因で

理解者が少なく孤立しがちになるからで、織田信長のような

明晰さを併せ持つ冷徹な個性は戦国時代にはピッタリでしたが、

その冷徹な明晰さが理解できない集団内の生贄にされて

本能寺で死を迎えたような気がしています。 

個性や多様性は時代を切り開く要素に繋がっていますが、

やはり個人の幸せ維持にはバランス感覚が大切で、

自分の立場をわきまえ適切な言葉と態度で振舞うことこそが

人生全般における全てに効用をもたらすと思います。 

思想家のエリアス・カネッティは『群衆と権力』という本の中で、

人間には『人を非難し楽しむ性質がある』と書いており、

その行為によって自分自身の尊厳が高まっているという

錯覚を持ったときに人間は《正義》を使うとありましたが、

私自身を振り返ってみて的を射ていると思いました。 

『自分が行っている行為は正しい』と思うほど過激な制裁行為を

行ってしまう悲劇の背景には、正義の感情によって

他者の痛みに思いを馳せるという良心が働かなくなるからで、

特に理性的な人ほど陥りやすい正義の誤用だと思います。 

この陥穽現象が起こるのは、人間の良心とは理性などには

存在しておらず、脳の情動を司る感情で人間の良心が

起こっているからで、それぞれの人生経験における

他者とのかかわりの中で形成されているのが良心だからです。 

よく『良心の呵責』というように、責任を感じる他者がいることが

良心を高めており、そのような相手に恵まれずに育つと

理性的な人でも良心が低い人間に必ずなってしまいます。 

独裁者や権力者は個性豊かで正義を振りかざしますが、

決して多様性などは認めない理性的な人が多く、

『良心の呵責に苛まれない』から意見が違う者を容赦なく

攻撃したり殺害したりするのです。 

しかし多様性を認めない自分自身の心の中には、

『他の誰の心にも自分が宿っていないという孤立の恐怖』があり、

その孤立感から自分こそが正しいという過剰な承認を求めて

争いや戦争へと突き進む逆説の悲しさがあります。 

レーニンもヒトラーも毛沢東も革命という争いの中で、

敵だけでなく沢山の同士も殺戮したのは、この孤立への恐怖

だったのですが、今のプーチンも同じ心理状態ではないか? 

という思いを私は持っています。

集団をまとめるには多様性を認めず思考停止させ

ひとつの思考に集約することですので、意見が違う者に対しては

一種の被害妄想的な視点の正義で苛烈に攻撃し続ける危険

絶えず孕んでいると思いますので、私自身は本能的に群れを

避けているおり群れに属すること自体が苦手です。 

格差が際限もなく拡大しても個人の富を求め続ける

サイコパス的な経営者達も同じで、理性的に善悪を判断し

合法的に法の網を掻い潜り租税回避を計り、

富の拡大を目指すという自分の感情を優先することが

悪と自覚できないことも単に良心の問題です。

最近のポピリズムや右翼化台頭なども、国民が葛藤を拒否した

一種の思考停止の結果で、このような安直な自己主張の人達が

集団化し拡大していくと必ず独裁者を生むことに繋がっています。 

ポピリズムが生まれる背景に潜む国民感情の特長は、

『自分さえ、今さえ良ければいい』という考えの人達が

集団化していることで、そこには次世代のことも環境も経済も

どうでもいいという利己主義の自尊感情が強いので、

反対意見の人には過激に攻撃的になり、同意見の権力者には

過剰に服従するという極端な行動を取ります。 

倫理の『倫』という字は輩(ともがら)という仲間を現しているので、

倫理の意味は『仲間と共に生きるための理(ことわり)』で、

意見の違う人の多様性を認め『そうゆう考え方もあるのか?』と

受け入れ共生する視点と姿勢を持つことを表している言葉です。 

同じように次世代の人達のことを考慮した環境や経済なども、

共に生きる仲間として常に視野に入れ続けるという

人情と寛容を持つことが倫理の大切さです。 

ノーベル賞受賞者が一番多いユダヤ人迫害の歴史なども、

特異な才能と思考回路を持つユダヤ人の持つ多様性への

恐れと嫉妬があったからと思うのですが、人間とは何か困っ

たことが起こると『生贄捜し』を始めるのは、モヤモヤした

気持ちを少しでも早くスッキリ解決したいためで、安直な方法で

不安と葛藤から逃避する手段が迫害やイジメのような気がします。 

個性や多様性に溢れる人達が人間の持つこの邪悪な嫉妬や

同調圧力から逃れる唯一の方法は、その個性と多様性で

地道に実績を積み上げることで、嫉妬している人間が

羨むような場所にまで到達しないと集団は迎合しないのです。 

そのような人達に迎合されても不快なだけですが、

多少の出る杭は打たれても突出した杭は打たれないからです。

しかし大切なのは自分が突出したとき傲慢にならずに、

意見と立場が違う仲間への倫理を忘れずに持つことが

最終目標と肝に銘じても実践は難しい事で、特に何事にも

好き嫌いが激しい私自身を自覚して思っています。