学びと労働からの逃走。

三十年以上前に読んだエイリッヒ・フロムの『自由からの逃走』

という本は、長い闘争の末に手に入れた市民的な自由を

二十世紀の先進国市民が自ら捨て、機械文明化や独裁政権に

安易に従ったことを哲学的考察で分析した本でしたが、

現在の日本では『学びと労働からの逃走』が進んでいます。 

日本の憲法には子供に学ぶ権利があり、親には子供に

教育を受けさせる義務があると明記されています。 

義務教育は国費で無償の権利なのですが、現代の子供達にとって

学ぶことは義務に感じているようで、その苦痛の腹いせから

学級崩壊やいじめが蔓延しており、その結果として現在の

大学生の四十%は中学二年生レベルの英語力だそうです。 

引き篭もりやニートも増加し続け、親の年金によって扶養され

生活している人もおり、学びだけでなく労働からも逃走している

若者の増加既に異常事態だと思います。 

西欧は階級社会なので教育機会に恵まれない人達が

労働下層に甘んじていますが、日本は学びの機会そのものから

逃走している異常事態で、引き篭もりやニートには

高学歴の人やパソコンに詳しい人達もおりますので、

労働そのものを拒否しているのが実態のようにも思えます。 

後進国の貧しい国の子供達は、学校ができると喜び

学びに意欲を示すのは、生きることの苦難を幼児期から

骨身に沁みているからですが、豊かさが当然の時代に育った

子供達は生きていること自体が当然で、快楽以外の

努力が伴うものは全て苦痛と捉えているようで、

成人した引き篭もりの人達は扶養者の親がいなくなった

生活への危機意識なども麻痺し喪失しているそうです。 

憲法に『国民は勤労の権利を有し、その義務を負う』とあるのは、

労働とは国家という共同体における公共的な国民の義務だからで、

そのような義務を果している人達の恩恵で授かっている

権利行使だけは当然と捉えている人達が増加しています。 

では反対に学びや労働を賦活しているものは何か? 

を考えてみると非常に逆説的な要素で賦活されています。

信頼できる人や愛する人から特別な要求や義務を要請されず、

『あなたは大切なかけがえのない人』というメッセージを

受け取り続け確認できた時、人間として自然な生きる力として

湧き上がってくるのが学びや労働への意欲ではないか? 

と私は思っています。 

学校とは学問を通じて『子供を大人に導く』ための装置なのに、

現代はまるで商取引のように、勉強して良い大学に入るのは

投資で良い会社に入社し安定した生活を目指すことを求められ、

親の期待に応えると認めてくれるが、期待に応えないと

否定され承認されないという有様で、そのような環境で育つと

子供達の毎日が不安で息苦しい毎日になるのは当然なのです。 

最近の社会の中で特に若者達に『生きづらいさ』を感じている

人達が増えている大きな一番の要因は、親達が育てる中で

子供達に過度な期待のレールを敷き背負わせているか? 

反対に子供を見限り期待すらしていないか? 

どちらかの両極端に片寄っていることが、幼少期から

子供達に生きづらさを味あわせているような気がしています。 

子供の本来持っている生きる力を育てるための要諦は

『期待し過ぎず期待する』という矛盾を親がしっかり消化して

接することで、最終的には『あなたが健康で元気であるだけで

私達は満足です』というシグナルを出し続けることです。 

期待され過ぎは子供の可能性を親が限定していますので、

その期待に応えないと親からどのようにされるのか? という

不安を与え子供の生きる力を萎縮させることに繋がり、

期待されない子供は自らの存在に意義を見出せないので、

自己を過小評価し何事にも意欲を持てなくなりますので

自暴自棄に陥ってしまいます。 

また幼少期から親の期待に上手く応え続けた人達の中には

自己肯定感の喪失に苦しんでいる人が多くおりますが、

その理由は自分の意思ではない親の期待に応え続けてきた

自分の心の中にある偽善に思春期頃に気が付き

自分の努力してきたことに本当の達成感が伴わないためです。 

大切なのはその子の個性を育てることなのですが、

個性とは親だけでなく他者から個性と承認されて

初めて子供が認識して発掘されるもので、

親から敷かれたレールの上に存在しているのは親の欲望です。

子供の個性とは生まれながらに自覚できるようなものではなく、

親や誰か大人から発掘され承認され自覚できて自らの力で

育てる作業が必要のです。 

自分の個性を承認され自覚した子供が、自分の意思で

自分の個性を伸ばす方策を探り努力し始めたときに初めて、

結果に責任を持ち良い結果には達成感を味わいますので、

決して偽善に苦しまず自暴自棄にも陥らずに前に進みます。 

そして子供の個性を発掘する方策も、最近多い子供を監視する

ように細部まで見続けるのではなく、意識的に目こぼしを心掛けて

『見ていないように見る』ことを心掛けることです。

人間は何もかも見られていることは束縛で窮屈に繋がり、

全然見られていない放任は寂しさに繋がりますが、

親が知らないと思ったことを親が知っていた意外性には、

親の深い見守りの愛情を子供に認識させますので、

その深い愛を感じ取った子供の心には親への信頼が芽生え、

様々な困難を乗り越える勇気が自然に沸き起こって来ます。  

束縛も放任もしない親の適度な間合いには、

子供への人格的な尊重という配慮が必ず存在していますので、

このような対応を感じ取って育った子供は親から信頼されている

確信による自己肯定感の獲得と自信にも繋がって行きます。

子育ての究極の目標は『子供の経済的・精神的な自立』

促し育てることですが、それには子供を受容するだけではなく

子供の幼稚で怠惰な価値観を毅然と否定することも必要で、

この矛盾を通じた葛藤の井戸へ子供を落とし込むことこそが、

実は子供が成熟へと向かう大人への階段に繋がっています。

動物の自立とは単に独立して暮すことですが、

社会で暮す人間の自立とは、家庭や組織や社会集団内の

相互依存関係の中で、礼儀をわきまえて妥協と和解を重ね

(屈服ではなく)自分自身の立ち位置を構築して行くことが

真の自立ではないか? と私は思っています。 

社会的な生き物である人間の自立と動物の自立の違いを

自覚しないで、経済的な自立のみを追った結果が社会的孤立で、

社会的な孤立は身体や心を病み必ず生き辛さに苛まれます。 

学歴社会はもうとっくに崩壊しており、生き残り戦略として

優先的に必要なのは集団内での相互依存関係を円滑にする

社会性で、知識は知恵に変換できなければ教養へと昇華できず、

教養とは本物と偽者の人間を見分けることができる知性です。 

教養の一番の利得は自分自身の背中を俯瞰して見られる

メタ認知能力で、それによって集団内でいつも他者を思いやる

余裕が持て、適切な言葉と振る舞いができることに繋がります。 

現代社会に生き辛さが蔓延している原因は、この所属する

集団の最小単位である家庭が癒しと慰めと承認の場として

機能しなくなっていることにあり、反対に精神的・肉体的な

虐待の場になってしまっている現実が増えていることにあります。

理想の家庭とは『堅実で実直なお父さんと優しいお母さんと

素直で可愛い子供』ですが、その理想実現が容易ではない

時代になったのは癒しと慰めの家庭崩壊が原因にあり、

内部崩壊し密室化しているた家庭とは、その家族内弱者

にとっては非常に危険な場所になっているのです。

このような方向に向い始めたきっかけが八十年代の

バブル発生の頃で、無意識的でしたが金銭や地位や学業成績

などで人より勝る優越感を幸せと混同した頃が始まりでした。 

つまり全てを相対評価で考えることが習慣化され身体化

されてしまい、みんなで食べ歌い踊るというような共有し共感する

という人間の持つ本質的な生きている喜びが軽視され始め、

気が付いたら家族も地域も社会もバラバラになった結果として

辿り着いた感情が現代の生き辛さではないか? と思います。

豊かになった現在の社会運営は、全ての揉めごとを行政に

判断を委ね依存した社会になってしまい、家族の問題である

虐待やパワハラなども行政介入が常識になっております。 

この家族崩壊の解決策を女性学の金井淑子さんが

『家族に代わる親密圏』の形成が必要と提唱しておりますが、

生き辛さから壊れていく人達を救うためには、

もう家族に任せるのではなく『家族に代わる親密圏』が

必要な時期にきているという考えです。 

弱肉強食の資本主義社会の犠牲者が増え続ける現状を思うと、

私も『慰めと癒しの場』が社会的機能として必要な

寂しく悲しい時代になったかな? と思います。 

私は『家庭の平和は家族の健康で辛うじて維持されている』

思い続けていて、それ以外のものは生きる手段の付録みたいに

考えていたので、優先的に大切にしたのは食事と睡眠と

家族相互の思いやりでストレスの緩和と融和を測ること

常に意識して妻と娘を見守ることでした。 

人間の心と身体の健康維持や、何かに取り組む意欲などは、

どちらも情緒の安定がないと損なわれるものなのに、

手段が目的になっている現状はひたすら情緒を不安定に

している方向に向っているのでは? と思います。 

学びでも労働でも最小の努力で最大の成果を上げることを

過度に内面化して、学歴偏重と弱肉強食の過当競争に走り

その『檻から抜けられなくなっている』のです。

その檻から抜けだすには、家族や社会に適合するためだけに

自分が存在しているのではないという考え方を持つことも必要で、

子供達に必要なのは強い頑丈な耐震構造の心ではなく、

免震構造のような『揺らぎの心』が必要で、

その揺らぎこそが柔軟な人間性獲得に繋がっています。

現代の学びや労働からの逃走は、高度成長時代に形成された

偽装の檻の価値観を子供のためと信じ強制し続け、

結果的に子供達の心を押し潰し窮屈な檻に閉じ込めたことに

遠因があったような気がしております。

付録で巷で大騒ぎの元統一教会問題ですが、自民党特に

安倍元首相と取り巻き政治家との癒着問題などは、検察や

公安や大手メディアなどは詳細をとっくに掴んでいたのですが、

内実は安倍元首相の権力に屈服し黙認していたのです。

強権的な安倍元首相が亡くなり、この圧力からの解放によって

表面化したのが事実で、こんな『力が正義』が横行している理由に

投票率50%という国民の政治的思考からの逃走があります。

何事にも懐疑的な思考を持つことが知性なのですが、

近年は世界的に合意形成という民主的な努力を放棄し、多勢が

無勢を一気果敢に制圧する反知性主義の蔓延が危機の元凶です。

吉田茂以来の国葬問題なども、所得倍増計画で高度成長に導き

国民経済を実現した池田勇人も、沖縄返還を実現しノーベル

平和賞を受賞した佐藤栄作も、アメリカの属国的立場からの脱却を

目指して日中国交正常化を実現した田中角栄など三人が

国葬ではないことを踏まえると岸田総理の短慮です。

安倍氏の内政は権力乱用の癒着政治を強行し格差を拡大させ

デフレ脱却もできず、現在の円安不安も安倍氏の金融政策の

結果で、外交成果も国民に資するものが全くない安倍元首相

を国葬に岸田総理が言い出したしたのは政権基盤の弱い

岸田総理が清話会に配慮した策略で、銃撃による非業の死も

元統一教会との蜜月という私利私欲で弱者を追い詰めた結果です。

二十七日に国葬が実施されたら歴史的には岸田総理の

政権延命策後世にきっと総括されると思います。