下僕の目には英雄なし。

私は日常茶飯事が人生を作ると思うから日常を書くのですが、亡くなった私の妻は私の書いたものをほとんど読みませんでした。

一度妻が留守番中に通信販売のお客様に発送する為に印刷してあった手紙を読んでいて、なんだか小難しくてよく判んないことばかり書いてるんだね・・・と言われ、私は?????お母さんは頭が悪いから理解できないんだよ!! と言ったら、お父さんは書いているものも小難しくて小生意気でひねくれているから私くらいの頭で丁度いいの!! と言われ、私も本当にその通りと思い『長い間、ありがとうございます』とお礼を言ったやり取り以後も、妻は手紙もブログにも興味を示しませんでした。

その時私は『下僕の目に英雄なし』という言葉を想い出しながら、何故か? 妻に安堵の愛おしさを感じたのを覚えています。

英雄が世間に対して纏っている鎧のようなものは、実は世間が勝手に過大評価しているもので、能力や教養や知識などを剝ぎ取った人間としての実態を見ている家族や下僕には英雄もただの人で、特に男の本性全てを知っている妻にはただの人です。

そしてその英雄の鎧を剥ぎ取った実態は一緒に暮らしている人達だけが知っていて、その人間としての性根の良し悪しと信頼度の強弱は能力や教養や知識などとは全く無縁のものです。

私は妻に頭が悪いと知識や語彙の少なさを言っていますが、人としての性根部分は私より良いといつも認めていました。

作家永井荷風の書いたものは読んだ人を酔わせるような美文を書きますが、荷風の終生独身は性根の悪さにあったと思っています。

それはあの酔わせるような美文からは想像もつかない荷風の嫌らしさで、嘘つきでケチで印税が入ると連日女をあさる助平で、その上に自分のことは棚に上げて人を批判する時の二枚舌の鋭さと平然と偽善で詰め寄る性根の悪さには、身近に接した人達にうんざりされ嫌悪されたから終生一人暮らしだったのだと思っています。

荷風と係わった人達の本を読んだ時、家族や下男でなくても一日でも一緒に過ごした人間ならば辟易すると私は想像しましたが、荷風は極端な例としてもそれ程に人間は知識でも地位でもお金のあるなしでもなく書いた文章でもないということです。

私の妻が私の書いたものに全くまったく興味がないのは、私がどんな人間なのか全てを知っているからで、妻にとって大切なことは夫として父親としての私のあり方が一番の問題なので、私の書いた文章の中身や考え方は直に知っていて、まして妻は私の書いたものがどう思われているか? などもまったく眼中にはない人でした。

夏目漱石の妻が悪妻だったと言われていますが、悪妻と呼ぶまえに家庭で漱石が夫としてどうだったのか? が妻は問題なのです。

昔は恥じるような職業だった広告屋が、マスメディアの発達と共に電通のような花形企業になったのは世間がそう見るからで、過労死事件を見れば成り上がり企業の驕りの顚末で、夫婦の中身は世間が思うほど単純ではない積み重ねの複雑な結果で成り立っています。

花形企業勤務も地位も知識も収入も鎧で、その鎧の驕りを家庭にまで持ち込む男はどんなに能力と知識があっても馬鹿で、たとえ収入が少なくても家族に精一杯の姿勢に妻は愛情が湧くものです。

『驕れるもの久さしからず』という言葉は、自分の地位や権利を笠に着る者は近い将来に周落する意味ですが、トランプ氏や安倍首相などは羞恥心が欠落しているので馬耳東風でしょうが、ひねくれている私などは驕るほどに栄えない工夫が大切と思っています。

ナポレオンもヒトラーも一時は英雄でしたが最後は悲惨だった原因も驕ってしまったことで、多数の人達の自分への評価に驕り虚像を演じ続けた果ての顚末で、自分の正当な評価は少数の身近な人が下しているのが実像と自覚できなかったからです。

私は『自分が一番自分自身を知らない』と気が付かされたのも妻と暮らし始めてからで、初めは遠慮がちに次第に日常的に『小生意気でひねくれている』を枕詞に言われ続けたお陰で、人は無意識に自分にとって都合が良く心地良い意見や評価だけを受け入れ、本当のことには怒って拒否するのが常なので、ほとんどは破滅・破綻するまで自分の欠点を自覚することができません。

親指は長さが短い欠点を強さの長所で補い、中指は力が弱い欠点を長さの長所で補っているように、長所と欠点も表裏一体のように、人間の長所も見方を変えると短所でもあります。

人間が使う言葉も時代という時と、どこの家に生まれるか? という場所に支配されて身に付けているように、英雄も時と場所に支配され生まれているものですので、時の流れを忘れいつまでも傲慢に振る舞っていると破滅や破綻に繋がっています。

稀に破綻・破滅を免れている人達がいますが、この人達には苦言を呈する人がおり、車の両輪のように二人三脚で事業も家庭も運営していて、特に家庭においては妻の考えを尊重し大切にしている人達が多い点で一致していて、傲慢の反対に謙虚なので事業でも家庭においても真の協力者に恵まれてます。

大切なのは男と女の領分をお互いに犯さない分別で、夫の社会的なものを笠に着る妻を持った人の末路も不幸で危険です。

『亭主元気で留守がいい』という言葉がありましたが、自営業の私の家は『女房留守でも元気がいい』と言い、妻は水泳と卓球に行き店は手伝っていないので『お母さんは離し飼いの野良犬です』と言って、『私はあなたの忠犬と番犬です』と嘘ぶいていました。

意味を理解していた妻の分別は肌で感じ取った理解で、笠に着て出しゃばることがないので私は忠犬と番犬になりきれました。

このように言葉や文章という頭で理解することより、日常の肌で何となく感じ取る第六感の方が意外と的を得ているものです。

今は下僕・下男などほぼ存在しないですが、無防備な裸の自分をよく知っている阿吽の呼吸で繋がる相手を失ったことを思い知らされる時は、帰宅しても待っている人がいないことと、一人で家にいても帰ってくる人がいないという日常です。

しかし元気なふりをして生きていると良いこともあり、先日四十四年前の新婚時に妻と過ごした当時の夢を見ましたが、妻の夢は二度目でしたが目覚めて呆然自失の快楽でした。