言語伝達能力。

日本ハムが優勝して栗山監督がインタビューに答えていた内容と、選手のヒーローインタビューのコメントを聞いていて、長嶋茂雄氏の選手としての資質と監督としての資質の違いを述べていた社会学者の本の内容を想い出しました。

その社会学者はプロ野球を研究材料にして社会を分析していたのですが、その中に選手として一流の長嶋氏が監督として一流になれなかった理由を言語伝達能力に欠けているからと結論づけていました。

野球は将棋に似て様々な異能な能力を生かし組み合わせて勝利へ導くゲームでが、将棋と違い動かす相手は自我を持つ人間ですので、選手が監督の意向を正確に理解していない集団では、ある局面においては犠牲的な役割を果たすような選手の自覚がないないとチームの勝利には繋がりません。

野球も将棋の駒のように局面によって必要な能力と役割が違いますので、監督はその様々な局面に必要な能力を持つ選手を育成し、チームのために求める選手の役割と意図を監督が正確に伝え、選手ひとり一人が自分の役割を果たそうとする意志を育てる言語伝達能力が監督になければなりません。

他チームから沢山の一流選手ばかりを集めても、全ての選手が金・銀・飛車・角ばかりで、歩や桂馬もなければ将棋には勝てません。

社会でもそれぞれの役割が有り、多くの人の役割の恩恵で自分の生活があることを忘れているような人は、職業に対して貴賎的偏見を持つ傲慢な人です。

ここからが本題ですが、ではこの言語伝達能力とはどのようにしたら身に付くものなのか? です。

辛苦を重ねあらゆる壁をブレイクスルーする中で、様々な人間の心(本性)を体で知った田中角栄のような稀な人もおりますが、手っ取り早い方法はどんな本でも良いので沢山読んでみる事と思います。

書は言を尽くさず、言は意を尽くさずという言葉がありますが、その書を沢山読むことから得られるものが他者の沢山の人生経験です。

そしてテレビのように単に見ると読むの大きな違いは、他者の内面的世界を知ることによって、自己の内面的世界を把握することに繋がる事です。

これは私の好きな山本七平さんがエッセイに『小説とは中間言語である』と述べた中に書いていて、著者自身の言語が小説になり、それを読んでいる人にも自分の言語があるが、その著者と読者の間の中間にある言語が小説であるという捉え方です。

著者の体内言語が本になり、読み手の対外言語がその内容に共感したり嫌悪し敵視したりしながら、実は自己と討議し検証して一つの結論を出しながら、自己の内面と無意識に向き合いますので、自己の内面世界を把握することに繋がっています。

このような繰り返しが多い人ほど、自らの意志や意図を他者に正確に伝えられ、他者の内面的世界に共感をもたらしますので将棋の駒のひとつの役割に徹す選手を育成でき、チームも勝利に近づきます。

人間もコンピューターに似て、インプットされた量しか言語としてアウトプットできないので、この言語能力を豊かにするためにも本からのインプットの豊富さは人の上に立つ者に求められます。

自分の意図を正確に他者に伝える言語能力が若年層も含めて衰退したのは、書店の衰退と関連しているように読書量の減少と思います。

そして言語能力減少はカッとした事件や事故にも繋がっていて、スマホで検索して知るような断片化した一過性の知識や情報では、自己の内面的世界把握には繋がらない不幸が先に待っています

社会生活は外部に向かって何かを言葉で伝えることですが、言葉使いや内容やニュアンスに本人の内面が如実に出ています。

中東によく行く曽野綾子さんが税関で梅干のチェックを受けた時『これは私の宗教にとって絶対必要なものです』と言い、その瞬間にOKになるそうです。

この『』は事実ではありませんが、この言葉が中東の人達の内面的世界(信仰)をよく理解している言葉だから即刻税関を通過できるたです。

同様に私のように様々な職業の方(特に男性)が来店した時、その世界の人しか知り得ないことを私が口にすると、一瞬で相手の表情が変わります。

特に多い女性客でも、年代によって内面世界の常識や考えや置かれた状況が違いますが、老年の男に自分達の年代しか知り得ないことを言われると驚きと共に内容によっては一瞬で好意が表情にでます。

ひとりになった私が料理や炊事洗濯やアイロンがけの話題になり、女の大変さが判ったでしょうと言う言葉にも、ニュアンスや私の答えた内容に対する反応においても、その方の内面世界が出ています。

読書量と人生経験がこの内面世界の成熟をもたらすのですが、曽野綾子さんの例のような様々な人生の危機を『難無く』すり抜けるには、多くの社会の人の内面世界を理解しているから出来ることで、社会生活を円滑に生き抜く知恵という武器を内面に持っているのに等しいと思います。

そしてこの内面世界を豊かにすると、差別や区別においても優遇処置を受けられますが、それもこちらからの要請などではなく、相手の内面に生じた共感が好意に繋がるからです。

現代は自己主張と自己本位の体内言語の応酬か?

体内言語を押し止めて本音を隠し建前で発言か?

で過ごす時代のように見えますが、他者の対外言語を受け入れ、自己の体内言語と照らし合わせ繰り返し、お互いの合意を導くだすような健全な議論が日本人は苦手です。

それは意見の違いは即好き嫌いに繋がり、自分の意見に固執し相手の意見を学びとしない、自我のぶつけ合いの傾向がほとんどだからです。

自分と違う意見を内なる体内言語にすり合わせを繰り返し、納得できるものは取り入れる謙虚さを育てて行かないと、成熟できず孤立すると思います。