小津安二郎の東京物語。

北海道はひと雨ごとに朝夕の風も変わり始め、もう秋の気配も感じられますが六十四歳という年齢になって人生を振り返るには雨と秋は打って付けです。

小津安二郎監督の『東京物語』は、外国映画の題名の名前は忘れてしまいましたが親子世代間の立場と状況を同時に描いたものに触発された映画と何か? で読み,この歳になって理解でき、自分自身の人生を客観的・俯瞰的に振り返って実感させられるものがあります。

人はどの年代の時点においても解決すべきそれぞれの問題と悩みを抱えながら生きているのですが、年代が違えば時間の流れも悩みや問題も違っていて・内容は微妙に入れ替わっています。

映画のように俯瞰して各世代間の人間模様を描くとあぶり出しのように浮き上がってきますが、それを共有するには年代の違いにズレという壁があります。 

人は過去の年代は経験して来て理解できますが、未来の年代は未知で想像力だけが頼りですので、40代が60代や80代の体と心の状況を本当に理解するのは無理です。

私もこの店舗の借財を背負っている時は、借財返済の責任への重みと、家族への責任から自分と家族の健康、そして一人娘を一人でも生きて行けるように育てる事など、全てを秤に測ってバランス感覚を研ぎ澄ましていたことを想い出します。

しかしその時はその責任への思いで精一杯で、親の心理状態や経済状態を同じ思いで眺めていたか? というと否です。

多分親は子供の自立を喜ぶ瞬間から、矛盾していますが寂しさと共に体力的・経済的な衰えや加齢への不安など交錯し始めるのでは? と思います。

そして忘れてならない事は、人間の子供は長い期間を親に依存して成長しますが、その過程で自然に無意識的に親は子供の庇護を、子供は親への依存が沁み込んで行きます

それが前頭葉の発達によって、動物のように本能で相互依存関係を断ち切ることが出来ない悲しさを持ってしまったのが人間社会の難しさです。

親はいつまでも子供の心配をし、子供は意識下の何処かで困っている時は親が助けてくれるのが当然という思いが沁み込み込んでしまいます。

しかし親から離れ自分の所帯を持つと、その雑事と問題に追われ平穏で順調な時の親は煩わしい存在になるのも事実ですが、実はそれが自立への自然な道です。

その時に肝要なことは、親も同時に自立しないと自分の衰えに乗じて子供に対して期待してしまいます。

どの年代においても人間は悩みと不安を探して生きるように出来ているのでは? と思いますが、私は未来より妻と二人のありふれた日常生活の継続に感謝と今を大切にする毎日にしようと思います。
来月には孫も生まれ十月には娘達も家を建て大麻に越して参りますが、東京物語のような年齢的な立場の違いによる、お互いの抱えた問題と時間軸の違いを理解した上で俯瞰して眺めた生活にしたいと考えております。

まず私達二人の健康を優先することが娘達に迷惑をかけない事に繋がるとの自覚を優先することで、次に自分達がローンから解放された時の安堵感を考え、私達も出来るだけ元気でいて、共働きの娘達のローン返済の為に孫も含めて自分達の出来ることをしてあげ、親の愛を惜しみなく与えて終えたいと思っています。

それは私のローン返済過程では父に嫉妬から手助けの逆をされて背負って来たからですが、私の返済過程で危機に手を差し伸べてくれた人は全て係わり合った他人の人だったからです。

妻はいつも『私が先に逝く』と言っていますが、私の自我に耐え容認し包んでくれた妻への罪滅ぼしに見送るまでの生活を愉しみ、出来る範囲で娘達の力になっても邪魔にならないように心がけて老後のこれからを過ごして行く事を目標にしょうと考えています。

東京物語のような世代間の永遠のテーマを思って感じることは、健全に育った子供なら親の事より自分達の所帯への責任を優先して生きることが健全な生き方で、自然界の動物達(特にゴリラの生態)の生き方に学ぶことが種の保存的に正しい事と此の頃は思っています。