人間の七つの大罪。

最近私は店にいるとき『七十三歳になるたそがれた親父が、

四十六年にもなるたそがれた店で、ひとり身になった

たそがれの時間を過ごしている』と思うことが多くなりました。 

若い頃は何かを求めて、何かに追われて、何者かになろうと、

いつも必死になっていたように想い出され、若かかりし頃を

懐かしくも羨ましくも感じながら振り返っております。 

年明け後は店も暇なので本を読むことが多く、その中に

古代から知られる『七つの大罪』との記述があり、

傲慢・貪欲・嫉妬・憤怒・貪食・色欲・怠惰と並んでいて、

私は全ての罪を犯してきたなと思いながら、

しばし本を読むのを止めて私の人生で一番思い当たる

七つの大罪の時期を振り返ってみました。 

私が一番傲慢だったと思えるときは四十代で、

貪欲と嫉妬深かったのは二十代で、憤怒は五十代頃まで

絶えなかったと思います。 

貪食の罪は未だに続いており、色欲は二十代から

妻がいなくなるまで続き、一番怠惰だったと思える時期は

十二歳頃までで、勉強や運動など何事も真剣に取り組まずに

遊んでいるか? 遊んでいない時は虚無感で死の淵を

覗き込むような気持ちで日々を過ごしておりました。 

この七つの大罪を通じて人間の心に邪悪なものが

進入してくのですが、傲慢・貪欲などは権力や財貨などを

持つことを求めたり、手に入れたかのように振舞ったりする

自己欺瞞的な行為ですし、嫉妬は対象相手を自分の所有物

のように思うところから発生する不遜なものです。 

憤怒は一生付き纏う感情のように思えますが、最終的には

自分の感情をコントロールできるような精神的な成熟が必要で、

辛苦を伴う人生経験こそが憤怒を抑制できるようなるために

必須のものと思います。 

貪食は生命維持のための食欲と、贅沢さを求める食欲との

境界が難しく、色欲なども子孫を残すことだけが目的では

悲し過ぎますし、健全な性的欲求とは? と問われると、

『好き』の感情から生まれる性的欲望としか答えられない

難しさが付き纏います。 

怠惰との戦いは日常の毎日に付き纏いますが、

最終的には腰を上げて『立ち上がる勇気』以外になく、

怠惰の克服には何事も習慣化するまで耐える方策以外にない

ように思えます。 

この七つの大罪の困ったところは、抑制しないと次第に肥大化する

傾向があることと、この全ては他者から何かを奪うことに

繋がっている感情であるだけでなく他者にも感染させる邪悪さ

含まれていることが大罪と言われる所以です。 

ネット環境での誹謗中傷なども、最初は小さな邪悪ですが

感染によって広がり続け巨大化するように、怠惰も秩序を破壊し

家庭や社会を無秩序へと誘導し混乱へと広げて行き、家庭も

夫婦の在り方が子供の人格形成や人間性に感染して行きます。 

自己中心的な欲望は無秩序を肥大し続ける恐さを秘めて

おりますので、子供のうちに秩序を教えるのが躾なのですが、

その成長過程で『恐い人』がいないと躾ができないように、

社会の秩序を守るために法律による規制を破る人達には

逮捕という拘束と刑罰が用意されているのです。 

しかし人間とは欲望のために法の網を潜り抜けて

様々な欲望を満たす動物ですので、様々な時代に合わせた

法改正を行い続けても人間社会から七つの大罪をなくすことが

できないのも事実です。 

そしてこの七つの大罪が犯す欲望の裏側から文明や文化が

発達したことも事実で、怠惰が文明の利器を生んできたように

功罪合い伴うのが人類の歴史のような気がしていますが、

個人だけではなく国家間で行われる戦争こそが

人間の七つの大罪が犯す最悪のものだと思います。 

人間は七つの大罪の強弱によって様々な人生模様が

生まれるのですが、様々な事件や事故の報道に触れるたびに

七つの大罪感情が複合的に作用し合って起こっていることを

いつも思い知らされています。 

人は寂しさや不幸を感じたとき、この七つの感情が複雑に

絡み合って邪悪な行動を起こしがちになるのですが、

その邪悪な行動を抑制する道に繋がっているのが、

誰かによる承認という孤立防止のような気がしています。 

その誰かによる承認が寂しさや孤独を抱え続ける忍耐に繋がり、

その葛藤と忍耐の積み重ねによってしかタフな心の強さに

繋げられないような気がしています。 

不幸も同じで不幸な気持ちを抱え続ける忍耐を続けていると、

次第にその原因を持つ自分自身の問題点が見えてきて、

その問題点の自覚がタフな強さを生み出し幸福への道が

見えてくることに繋がっているような気がしています。 

アスリートがハードな筋トレで身体を鍛えるように、

人間の心もハードな環境や状況を耐え鍛えないと強さに

繋がらないと思う事で、そこにアスリートが目指す目標を持つように、

人間の心にも倫理とか道徳のような建前の目標が必要になります。 倫理や道徳が果たしている役割とは、人間の持つ

『非人間的な邪悪なもの』の侵入を防ぐ障壁として

建前が必要だから生まれたもので、それだから世界中の

人間社会には法や掟が存在しているのだと思います。 

七つの大罪感情の肥大を放っておくと、そこを入口として

非人間的な邪悪なものが侵入してくるのですが、

私も人生で何度もこの非人間的な邪悪なものの侵入危機を

体験しましたが、この邪悪な感情を私に抑制させた前には

いつも妻や娘やお客様がおりましたので、やはり人を導くのは

人なのだと心から思い知らされた人生の繰り返しでした。 

それは私自身が『どう振舞うべきか』を決断するときに、

倫理や道徳を考慮するか? 考慮しないか? の分岐点で、

私がそのどちらを選択するか? において私の行動の正しさを

保証してくれる保証人がいるか? いないか? 

大きかったという気がしており、それが妻や娘や長い期間に

渡ってお世話になったお客様達だったのです。 

自分の行動の正しさを担保してくれる人がいると思えることが、

自分の心の中にある非人間的な邪悪なものの侵入のドアー

を開けずに踏み止まる力になっていたのではないか? 

と思い至るのですが、人間とは弱いもので私も妻を亡くしてから

そんなときの心の揺れが大きくなっております。 

  そんな弱さの揺れに襲われたとき孫達やお客様と接すると、

  『どう振舞うべきか』の答えが自然に蘇ってくるのは、

  日々の決断とは過去の記憶と未来への希望の両輪によって

  ほぼ無意識的に決断しているからだと思い到ります。