痩せ我慢の知的な男のシャイ美学の衰退。

最近の傾向として突然怒るとか切れる現象によるトラブルや

犯罪が増えてきていますが、実はこの突然切れる現象に至る

までの間に当人には抑圧された怒りの感情があるのですが、

この不快感情を日常の中で上手に相手に伝えるコミュニケイション

能力が鍛えられていないことが突然切れる原因です。 

それは些細な喧嘩や議論を避けることが徳目のようになり

常態化した為ですが、しかし抑圧した感情の裏側では

相手の存在を無視する『相手を透明な存在』にしてしまう

不遜な行為を無意識的に行っている抑圧の積み重ねこそが

突然切れる現象に繋がっているのです。 

言葉や行為で自分の感情を伝える積み重ねを怠っていると、

抑圧したものは肥大し続けますので突然点火し暴発するのは、

人間とは本体的に無意識が意識を支配しているからです。

最近はこの自分への共感や理解をしてくれない人を

存在しない透明な人間として扱いやり過ごすことが

当然のよう行われておりますが、これは自分の気持ちを

上手に相手に伝えるコミュニケイション能力欠落を補う

現代風の護身術のようでも、実際には相手は存在し

続けますので本当に消してしまおうと無意識が誘発して

しまうのが切れる現象なのだと私は思っています。 

この会話力は幼児が帰宅後に母親にその日の出来事を

必死に言語化しようとしている時に育まれていて、

親が微笑みながらじっと待つ思いやりの積み重ねが

コミュニケイション能力を育てておりますが、共働きが多い

忙しい今の母親には非常に忍耐力が求められることです。 

人間とはいろいろな感情が入り混じって生きており、

相手に不平を言っている時でもそこには『ためらい』や『甘え』や

『愛情を求める』などの様々な感情が入り混じっており、

そのような微細な非言語的なシグナルをも含めて感じ取ることが

コミュニケイション能力育成の最も大切な要素なのです。 

最近は表面的な単純化した言葉が蔓延して複雑な人間の

複雑性の理解を捨て去った社会になってしまった末路が

突然切れる人間の増加に繋がっているのような気がしています。 

家庭や社会で会話や議論をしていて、その入り混じった感情を

上手に表現できる人が『感情豊かな人』なのですが、

そのような人は相手が上手く表現できないためらいの様子

からでも相手を理解し入り混じった感情汲み取っております。 

人間の持つ複雑性を理解できる人との人間関係と、

表面的な言葉だけの感情表現に対応している人では

全く違った人間関係になりますので、後者のような人は密接で

長い人間関係の結婚生活を愉快に過ごすことには向いていない

ので伴侶としては避けた方が良いと私は思っています。

私は店頭でお客様と会話していてハラスメントと取られるような

発言をしてしまうのですが、今まで告発や訴訟沙汰もなく

やって来られたのは私の言葉の中にある相手への思いやりと

敬意が伝わっていたからと勝手に思っています。 

先日も四十代の女性が亭主の愚痴を並べ立て

今日ぶつけると言ったので、議論して相手をやり込めても

関係が険悪になるだけだから止めなさいと言ったら

じゃどうすればいいの? と聞くので、一度は愛し合った仲

なのだから『今晩セックスをすればいい』と答えたのですが、

彼女はしばし沈黙後『なるほど』と答えてくれたので

私の裏の真意は伝わったのだと思います。

些細な正義の応酬は傷つけ合うだけで糸が複雑に絡み合い

ほどけなくなるだけだけど、性行為後は些細なことは不思議に

どうでもよくなると思わない? と言ったら納得して帰りましたが、

『それセクハラだよ!』と言わなかったのは私の言葉の中にある

『生きる知恵』みたいなものを察知してくれたのだと思います。 

もし私の言葉の中に彼女の性生活を覗き込むような悪意が

含まれていたら、きっと彼女は『このセクハラ野郎』という感情を

抱いて怒ったと思います。 

半年ほど前に女子大生の話を聞いていた時も

『きっとあなたは男性との交際経験が少ないのだと思う』と言うと、

『そうなのどうしたらいいの』と聞かれたので方法を伝えたのですが、

それ以後来店して『就職が決まった』と報告してくれたのは、

言葉の表層的な解釈ではなくその言葉の中に含まれる

非言語的なものが通じていたからだと思っています。 

この非言語的なものこそが真のコミュニケイション能力として

必須のもので、この非言語的なものを理解できる人とできない人

では人生の豊かさが格段に違ってくると私は思っております。 

私は孫達と接していても大人に話すように難解な言葉を

使うのですが、それは語彙を豊富にしてあげるためで

意味を聞かれたら丁寧に説明してあげます。 

それは語彙が豊富になることが豊かな感情表現に繋がるからで、

ある時孫の家で『概念』という言葉を使い意味を聞かれた時、

娘に辞書で調べなさいと言われ読んでも理解できないというので、

私と娘が説明し婿殿が説明してやっと理解したのですが

大切な習慣だと思っています。

  私の妻は言葉にするのが苦手な抑圧するタイプの人でしたので、

  結婚当初はストレスに見舞われると自律神経失調症から

  欝傾向になることが多かったので、私は意識的に妻が怒りを

  爆発させるよう刺激的な言葉や態度を取るようにしました。

  爆発した怒りに素直に謝罪し妻を優位な立場に置いてから

  議論に持ち込むのですが、人間とは不思議なもので

  優位な立場になると日頃無口な人でも雄弁になって話し、

  このような時には不満対象の私は透明な存在ではなく

  議論の対象として敬意を払われ話されています。 

  妻が思いのたけを告げて溜飲が下がれば突然切れる手前の

  黙り込むことに繋がらず欝症状も起こさなくなったのですが、

  妻のこの気持ちを理解するのに十年以上かかったと思います。 

  この十年は私が妻への敬意が足りなかったから起こったことですが、    

  育ちも文化も違う他人同士が一緒に暮す中に摩擦がなければ

  理解は無理なので喧嘩と議論は必要悪なのですが、

  この摩擦行為の中にお互いに相手への敬意が存在しないと

  単なる傷つけ合いの悲劇による離婚が待っています。 

  最近多い夫の退職を機会に離婚を突きつける熟年離婚は、

  子供の自立までの抑圧の代償として退職金による慰謝料で

  自立した自由を求めるものですが、この離婚の時初めて夫は

  透明な存在から実在の夫になったのだと思います。 

  私は心とは裏腹に言葉も態度も悪いので最初は大概の人に

  『この野郎』と思われると思うのですが、最近は立て板に水のように

  流暢に常套句を並べ立てて相手をやり込めるのが

  コミュニケイション能力のように思われているようです。

  しかし流暢ではなくても相手の様々な入り混じった感情を汲み取り

  思いやりと敬意が含まれた態度であれば、たとえ表層的には

  相手を罵倒するような『馬鹿野郎』でも非言語的な気持ちが

  伝わるようなシャイなコミュニケイションは滅んでしまったようです。 

  最近は逆に表層的には建前の綺麗な言葉を使っていても、

  非言語的な部分に悪意が潜んでいる病識の人達が

  増え続けているような気がしています。 

  娘の婿殿はシャイな方で表層的な言葉と裏腹なのですが、

  婿殿が長期出張に行かれ孫達のお迎えを頼まれ届けた時に、

  娘がぽつりと婿殿が長期出張に出る数時間前に三日分の夕食を

  作って行ってくれたと嬉しそうに感謝していました。 

  経緯は長期不在の間は仕事と共に一人で孫達の送迎や

  対応への不安と大変さをこぼしたからとのことでしたが、

  その言葉に対して夕食の用意の時間が省略できれば

  子供達の話や宿題の面倒などができるだろうとの深い思いやりで、

  この非言語的で身軽な自己犠牲的な行為は中々できない事と

  思い私は頭が下がる思いで聞いていました。 

  この敬意が伴う好意を受け取り湧き上がった娘の様々な感情こそが、

  一人で頑張るストレスを勇気に変換する力になったと思います。

  子育ては毎日が待ったなしの煩雑な繰り返しですが、

  私も妻から突然の不満感情のパスを受け取った時は

  『快楽の代償』言い聞かせて、受け取ったボールを抱え

  ひたすら前進することを心掛けていましたが、ひとり身になる前に

  私も婿殿のように料理に挑戦していたらもっと妻は喜んでくれた

  だろうと悔み帰宅後に仏前に報告して謝罪しました。 

  その話を聞いた時に婿殿が昨年亡くなった小田嶋隆の本が好きと

  聞いたので初めて数冊読み、小田嶋隆氏の文体から感じる

  知的なシャイネスに婿殿との共通点を覚えたので、

  これから図書館にある小田嶋氏の本を全て読むつもりです。

  小田嶋氏の本を読んでいると、沢田研二の『カサブランカ・ダンディ』

  の歌詞のような1980年代の気障で粋な痩せ我慢の美学を

  気取ったシャイな男の時代の懐かしさが漂っています。

  最近はそんな男が減っただけでなく、男のマッチョな力技は見栄で

  裏側にある繊細で傷つきやすい感受性を理解できる女性の減少も、

  離婚増加の遠因としてあるのでは? と感じさせられます。

  人間とは本質的にはずる賢く邪悪な生き物と私は思っており、

  善とか思いやりとかは教えたり押し付けたりしても

  決して身に付くものではない難しさがあります。

  私自身の経験では『自分を愛してくれる人への疚しい気持ちが

  私自身の邪悪さやずる賢さを自覚させた』という、

  他者の贈与から芽生え身に付くもののような気がしています。

  妻から『あなたの言葉の裏の優しさを理解できる人は少ないよ!』

  と時々忠告されたのですが、この言葉から妻は理解していると

  確認できて私の自信と勇気に繋がったので、

  『小さな親切、大きなお世話』は続けて行きたいと思っています。