学びを起動しているもの。

人間の学びとは生まれた瞬間から実は始まっており、

その学びを起動させているものは生みの苦しみ後に

我が子を抱いた母の温もりと微笑みで、その慈愛を理解し

応えたい衝動が母語獲得への意欲に繋がっています。 

言葉の獲得には判らないことを判ろうとする意志と意欲が

必要ですが、その意志と意欲を起動させているものが

親から授かる微笑みと肌の温もりで、赤子は親の温もりから

『親への敬意』も起動させており、自らも微笑みで応え

母語の獲得や様々な物事への意欲を高めています。 

昔本で読んだのですが心理学発祥の初期には

残酷な実験をしていて、幼少の孤児を集めて食事と

最低限の会話以外与えず、愛情を表現する言葉も態度も

一切示さず育てた実験結果では、次々に子供が死亡して行き

二十歳まで生きた子供が最高だったと記載されておりました。 

これほどに人間の生きる力を育んでいるのが

他者から授かる愛情というものだという結論ですが、

昔は猿を使った研究でも愛情を一切与えないという

誠に残酷な実験をしていた時期がありました。

赤子でも暖かい眼差しで語りかけられ抱きしめられ

身体の温もりで愛を感じたとき、その愛に応えたいが

まだ話せない我が身のもどかしさと戦いながらも、

必死に判ろうと学びへの意欲を起動させて判らないという

無力感を軽々と乗り越えているのではないか? と私は想像し、

愛こそが人間の生きる力を育んでいると思っております。 

私が若い頃に難解な本を読んで理解できずに苦しんだ時に

味わった無力感と一緒で、判らない自分の未熟さを思い知る

ことこそが実は私自身の学びの原点になっていたと思います。 

人間とは色々で『難解なものを理解して何になる』と思い学びなど

一蹴し拒絶する人もいますが、そのような人はきっと難解なもの

を理解できたからといって得にならないとの考えなのでしょう。 

物質的な豊かさを手に入れお金万能の社会になってからの方が、

反比例するように家族や社会に閉塞感が蔓延したのは、

お金では満たされない精神的な不満が蓄積されたからです。 

子供が保育園や学校から帰宅したときに、必死にその日の

出来事を親に話すのは承認を求め自己確認をしているのですが、

その話を聞いてあげることが子供と親の精神的・身体的な同期

繋がっており、この同期こそが子供が学校や保育園へ通う

生きる力を育み結果的に登校拒否なども防ぎ、

次の学びへの意欲を起動させているものなのです。 

幼少期は特に求めに応じて抱いてあげるべきなのは、

人間関係の全てはいつも身体的な同期から始まっており、

そこから子供だけでなく親も相互に学びながら長い時間を

かけて親も子供も相互に成長していると私は思っています。 

誰でも子供は未成熟と思っていますが、実は親も親として

未成熟なことを自覚し学ぶところから始めないと

親として成熟できないと私は思って過ごしてきました。 

私が孫達と遊んでいる時、孫達の長所と欠点は裏表と

思っているので、長所は伸ばすために褒めちぎり欠点は

自覚を促し自ら修正するように導くには私がどう変化して

接すれば良いのか? と自問するのですが、

その前に孫達と私との精神的・肉体的な同期という

相思相愛の関係確立が優先的な前提条件と思っています。 

大人の社会で欝や自殺が減少しない原因も似ていて、

『力が正義』が常識の社会の中で働かされている状況では、

経営陣と従業員の間に精神的な同期がないことも原因です。

人間は無理を押し付けられ抵抗することに疲れ果てると、

その重荷から逃れるために内的葛藤を捨て思考を停止して

道理が通らない無理を受け入れることを、手軽な防衛手段

として無意識的に選択する傾向があります。 

虐待や家庭内暴力を受けている子供や妻も同じで、

抵抗に疲れ果てると抵抗しないことの方が精神的には

一番楽な方法になってしまうのです。 

しかし愛情を授からなかった子供達が生きる意欲を失い

死んで行ったように、受け入れた重荷は消化されずに

溜まって行くので、ある限界を超えて生きる意欲が消滅し

始めると鬱病を発症し、その重荷がその人の閾値を越えると

自殺に繋がってしまいます。 

大切なのはその限界値や閾値を高いレベルに育ててあげること

ですが、実は受け取った愛情に比例しているものです。

その理由は人間とは自分のためより愛情を授けてくれた

大切な人との相思相愛関係の絆のために生きるときの方が

確実に強くなるからです。 

ブラック企業などは人間の不条理を受け入れてしまう弱さを利用

しているのですが、人間は精神的・肉体的に同期できる相手が

いない状況で生計を脅かされると、生計への不安から抵抗をやめ

葛藤を捨てるという楽な方法を選択する弱さがあります。 

企業が体育会系の学生を採用するのは優秀さなどではなく、

理不尽なことでも上位下達を受け入れることを血肉化している

ような体育会系の人達の方が企業にとって非常に都合が良く

使えるのが本音としてあるからです。 

最近のように権力者は何をしても許されるという惨状こそが

様々なハラスメントに繋がっていますが、ハラスメントの由来は

古仏語のHARACEで訳語は『追跡』です。

追われる者の果てしなく続く疲労感を語源にしており、

反抗する気力を奪い生きる意欲を損なう行為のことを言っています。 

このような問題を防ぐには国家の憲法のように、

大きな組織運営には権力者の横暴を防ぐために

性悪説を前提に権力者への規律を強めることが肝心で、

反対に家族や中小企業のような小さな集団では性善説で規律を

緩くすると巧く行く矛盾が人間の心の中に潜んでいるのです。 

仕事への意欲も子供の学びへの意欲と一緒で、

使用者側の社員愛による『誠』がないと社員の意欲が減退する

のは当然で、全ての愛情行為の中には必ず誠が籠っています。 

このような矛盾を内包している人間とは、意外と利益誘導だけ

では何事も持続せず虚しくなるもので、子供の勉強意欲なども

知る喜びや出来ないことが出来るようになる喜びこそが

持続する要諦で、大人の仕事は社会や組織から必要とされる

無形の喜びこそが持続の要諦であり、その持続には師弟や

雇用関係においても『愛情と誠』が必ず存在しています。 

明治維新の頃に『百才あって一誠足らず』という言葉が

盛んに使われたのですが、意味はどんなに才能が有っても

『誠』がない人間に人はついて行かないということで、

坂本竜馬や勝海舟はこの『誠』で人を動かしたのです。  

今のような平時にはこのような『誠』など重要視されませんが、

動乱の時代を生き延びるためにはこの『誠』を見抜く目が

ないと生き残れなかったから重要視されたのだと思います。 

派遣社員だけでなく正規雇用社員においてもブラック化が進み、

際限のない異常な格差拡大が当然のように進行し、

貧困の連鎖で学びを諦めている子供達が増加している現状に、

私は社会的動乱の地殻変動はもう始まっていると感じています。 

学びの反対語は遊ぶ・教えるだと思いますが、

現在の『力が正義』の社会状況を眺めていると、

私は『諦め』の方が適切ではないか? と感じています。 

学びも良い大学を出て良い職につくという生計を目的化している

ことも実は資本主義的な考えですが、このような努力が報われた

時代もバブル崩壊前までで、経済成長が止まって三十年の現在は

権力が幅を効かしたコネと癒着の社会になっているから、

森友事件で優秀な官僚が自殺に追い込まれ、日本の映画界で

もセクハラが常態化していたのです。 

この異状な状況を肌で感じとって育っている子供達も

学びへの意欲が落ち、イジメが蔓延し学級崩壊状態に

なっているのも他者と同期できない虚しさを抱えており、

自らの努力を放棄した人間がすることは他者を貶めることで、

学級崩壊で全体の学力が落ちれば自分の偏差値が上がるという

相対評価の考え方を無意識的に理解し実践しているのです。

他者を貶めれば自分の努力は少なくても偏差値が上がる

仕組みは企業も真似ていて、派遣を増やし正規雇用を減らせば

正社員をえり好みでき過労死するほど働かせて、

反抗する気力を奪いパワハラ状態で働かすことができるという

同じような思考回路ではないか? と私は思っています。 

まるで狂気の世界が正気の世界になっているように

私には感じられるのは、感動的な映画の制作者が実生活で

セクハラをしているように、政治家もメディアも大人社会の全てで

建前と本音を使い分けることが常態化した社会になっており、

親も自分のことは棚に上げて子供達には愛より鞭で接するから、

当然の帰結として子供達の学びへの意欲が低下し

何事においても諦めが蔓延した社会になっているのだと思います。

今のような強者が弱者に対して強権的に振舞うことが

横行する家庭や組織では、弱者が知性的・倫理的に向上する

ようなことは決して起こらず、むしろ反対に知性的にも倫理的に

も萎縮するから日本ではイノベーションが起こらないのです。

個人の学びの起動は、自分を生かし組織や社会をも生かす

相乗効果を生むのですが、偏差値のように他者を貶めて

相対的に自分の優位性を高めるような風潮に私は、

まるで悪ガキがおとなしい子供に意地悪しているような

大人の幼児化を見る思いがしております。 

  ネット環境が広がってからは、社会的な弱者も匿名性に隠れて

  意地悪な嫉妬や悪意を剥き出しにし、自分とは無関係な他者を

  貶めて憂さ晴らしをしている幼児的なことが蔓延しています。

  現代社会は結果主義になっていますが、結果や能力を褒めると

  人間は良い結果を追い求めて不安を抱える悪循環に陥りますが、

  結果などではなく努力の過程を褒められると学びへの意欲

  自然に高まって参ります。

  先日二年生のお姉ちゃんとの話の流れで、

  『宿題をしたくない時はするんでない、子供の時は遊びの

  方が大切です』と言うと驚いた様子で私を見て黙り込んだ後に、

  『爺じどうして勉強しないといけないの?』 と聞いたので、

  『お母さんや先生に認めてもらう ためなどではなく、

  ??ちゃんが生き延びるためだよ』と答えて

  親を亡くし養護施設で育つ子供達の話をしました。

  親を亡くしても養護施設から学校へ通い勉強するのは、

  十八歳になったら養護施設を出て社会で働き収入を得て

  一人で暮らさなければならないから勉強するのです。

  その収入を得るための様々な能力の基礎になっていることが

  勉強の中に含まれているからと言ったら、『お父さんとお母さんが

  いなくなるなんて嫌だ!』言ってから暫らく考えていました。

  それ以後宿題や公文への取り組み方が自主的になりましたが、

  誰の為でもない自分のためと理解できたのか? 期待しています。

  やがて目標を持ち学びへの純粋な意欲が起動し始めると、

  脳内に大量のドーパミンが出てランナーズハイと同様の 

  アカデミックハイが起こり、努力することが苦痛ではな

  知ること学ぶことに快感にすら感じる状態になりますが、

  大切なのは自分自身の好きなことで目標を持つことです。

  ひとりでは生きていけない人間が生き残るために一番必要なものは

  群れて遊ぶ中で嫌な奴や困った奴との折り合いの付け方を

  学ぶという社会性とコミュニケーション能力で、 

  その次が勉強であるという優先順位を親や廻りの大人が決して

  忘れずに愛情と誠意を持って子供達を育ててあげることです。