傷のない家庭も人もない。

『隣の芝生は青く見える』という言葉がありますが、人間とは

自分になくて他者が持っているものを羨み求め欲しがるもので、

その自分にないものが心の傷として劣等感にも繋がっています。 

貧乏な共働き家庭で母親がいつも留守がちの子供は、

いつも母親がいて裕福なお金持ちの子供を羨みますが、

お金持ちの子供は母親の干渉と囲い込みによる規制が

多いので自由に遊んでいる友人が羨ましくなりがちです。

人間とはいつも他者と比較し何かしらの不満を捜し見つけては、

自分の背負った傷を嘆き劣等感として抱え生きているものです。

このような考え方のあり地獄から抜け出す方法は、

青い芝生は努力して手入れをした結果と認め 

自分も芝生の手入れをして青い芝生にするしかない

のですが、努力しない人ほど他人を羨む傾向が強いと思います。 

努力する人はどのような手入れをしてあのような

青い芝生にしたのか? を考え調べて試行錯誤を重ねますので、

その時点で羨む気持ちから抜け出し前に進んでいます。 

私は基本的に人間社会において傷のない家庭も人もない

と思っていて、天皇陛下の家庭にも傷があるように

人は誰でも劣等感やトラウマを背負って生きていると思います。

犯罪者などは顔に傷があるので見えますが、私のように脛や

背中に傷がある劣等感は服を着ているから見えないだけで、

傷を背負わずに生きている人はいないのです。 

一般的には親の七光りを羨ましがるものですが、逆に

親が立派だったり有名だったりする人の子供は親の威光が

逆に重荷になっているもので、何事においても自分自身の力で

成し遂げたという確信を持てず、実は親の影に怯えている人が

多いものです。 

日本の高度成長時に大企業へ躍進したホンダやパナソニックの

創業者は二人共に中学卒でしたので、丁稚奉公のような町工場に

就職し身に付けた技術を駆使・応用して企業化したのですが、

その苦労の中で人の気持ちを理解する社会性と知恵を

身に付け、画一的な教育に染まらなかったから得られた

独創性を発揮できた部分もあったと思います。 

もし二人が豊かな家に生まれ高度な教育を受けていたら、

その時代の有名企業に就職したり官僚になっていたのでは? 

と私は考えてしまうのです。 

家庭的に恵まれなかったことが独自で道を切り開く以外に

道がなく、渋沢栄一も似たような境遇の中でもいじけずに

信義を重んじた生き方が幸運を呼び寄せたのだと思います。 

いつの時代も高等教育を受けた人は、まるで落下傘で

降下するようにその時代の安定した収入を得られる企業や官庁へ

進む傾向があるもので、何か偉業を成し遂げたような人達は、

まるで『窮鼠猫を噛む』の言葉のように追い詰められた壁を

突破する以外に道がなかったことが火事場の馬鹿力を

生んでいた部分もあったのでは? と私は思っています。 

私が中小企業の経営者の人達を沢山見てきて思うことは、

人の心を動かすことに長けている人は人並み以上の

苦労をした知恵者が上手で、教育で知識を身に付けた人達を

人格で圧倒するような大きな器を持っています。 

そのような人達は勿論独学で多くの勉強もしておりますが、

壁を突破する為に自らの意志で勉強して得た全ての知識と、

下働き時代の苦労の経験で得た知恵を駆使し教養として

血肉化していることを感じさせられます。 

官僚的という言葉がありますが、知識を身に付けた頭の良い人は

ある一定の枠から逸脱できない常識に囚われがちですが、

知恵を身に付け教養に高めた人は常識を疑う所から

出発しますので、様々な壁を突破する方法においても

独創的な思考ができます。 

有能な経営者に多いのは、常識破りの方向を立案し指示する

のですが『自分にできないことを平気で部下に命令』する

サイコパス傾向があり、方向性を指示されたことに応えることには

知識を身に付けた頭の良い人が力を発揮するので、

知識のある人は知恵のある者に使われて力を発揮し

役に立つようにできていると私は思っております。 

私はどちらが偉いなどと思っておらず、人間は自分に相応しい

場所で社会の役に立つことに意味があり、人を使って

自分が偉いなどと思っているような人には知恵も教養もなく、

本当に偉い人は給料を払っている人達の協力に心から感謝し

自分の夢への協力者だと思っているものです。

昔の言葉で『初代が創業し二代目で傾き三代目で潰れる』

というのがありますが、時代の流れが速い昨今は三代続くのも

難しくなっております。 

この言葉のような結果になるのは、後継者が初代創業者のように

従業員や取引先を協力者と思い感謝せず大切にしないからで、

如何に人材を大切にすべきか? がこの言葉の背景には

含まれておりますが、潰れる会社の優先順位は逆転していて

従業員は三番目で給料を払ってやっている・仕入先は二番目で

買ってやっている・そして一番目がお金をくれるお客様という

拝金主義の経営者がトップに居座っているからです。

武田信玄の『人は石垣、人は城』の言葉も

言うは易し行なうは難しで、信玄の死後の敗戦が物語っている

ように上に立つ者の人間力というものは戦略だけでなく、

その人への信頼感が部下の家族をも含めた様々な人達の

忠誠心が心意気として多大に反映されているからです。 

信玄は自分の父を殺害しておりますが、この家庭内の傷による

葛藤が信玄を成熟した人間にしたのでは? と私は思っており、

偉人と凡人の違うところは自分の傷を教訓にして他者への

配慮に繋げられるか? その傷を悔やみ僻んでいるところから

抜け出せないか? が大きな違いになっているのだと思います。

『魚は頭から腐る』という言葉が物語るように組織の頭が腐ることが

衰退の元凶で、大企業に鬱病や自殺者が多いのは

組織の頭の腐敗が組織全体に伝染しているからですが、

鬱病や自殺に追い込まれるような状況でも組織にしがみつき

離脱できない人達が多い矛盾をいつも私は感じております。

このような報道に触れるたびに私はマックス・ウエーバーの

『嫌なことを我慢してまでお金が欲しいというのは、

人間の欲望としては変態ではないか』という言葉を思い出す

のですが、会社や生活の為の前に何故自分自身のことを

大切にできないのか? という疑問を持ちます。 

それは日本人独特の社会的な同調圧力に弱いためで、

最近の傾向である他者にどう思われるか? を意識し

過ぎる事と、現代人は生活においても短期的な利益や利得を

追うことに目を奪われていて、精神的な余裕がなくなっているから

ではないか? という気がしています。 

そんな現代人に近頃特に欠けているものが

メタ認知能力(自分自身を客観的に見つめる)のような気がして

おり、傷のない家庭も傷のない人もいないと自覚し、

短期的な利得より長期的な利得である自分自身の幸せを

得るためにもメタ認知能力を上げることを心掛けることです。 

裕福でも貧乏でも心の傷や劣等感などを乗り越える方策は

自分の心の持ち方にしかなく、まず生まれる場所は選べない

ので自分に問題があるわけではないと思うことです。 

立派な親の家に生まれたらその立場を利用して生きることを

恥じる必要はないと思うことで、その考えが定着すると自然と

自分の色が滲み出てきて親の影への怯えは克服できます。 

貧しい家に生まれたら僻み落ち込むことより、

『どう生きれば抜け出せるか?』を考える方が道も開けて

挑戦すること自体が楽しくなると思います。 

劣等感なども指摘されたら『そうなんだよね』と認めることの方が

長期的には楽になりますし、何事も認め受け入れるところから

始めないと修正はできないと思います。 

また欠点は裏返すと長所でもあると言われますが、

努力する能力は脳科学的には先天的な脳の構造的な違い

判っており、努力できる人は脳の線条体と腹内側部の報酬系が

活発に働くので頑張れるのですが、努力できない人は

この部分が鈍くて島皮質という損得勘定を考える部分が

活発なのでコツコツ努力することが無駄に思うからですが、

反対に要領よく物事を運ぶ長所が備わっています。 

エジソンの有名な言葉『天才とは一%のひらめきと九十九%の

努力である』なども解釈の間違いで、エジソンの真意は

『一%のひらめきがなければ九十九%の努力も無駄である』で、

努力などはその人が報われると思える物事に注ぐべきものです。 

  容姿への劣等感なども、容姿は必ず劣化しますが人柄は

  長期的に磨くことできるのに、一般的に長期的には劣化する

  容姿に努力を払っている人が多く、継続して磨くべきものが

  間違っていると思います。 

  昔私が精神的・肉体的・金銭的に追いつめれていた頃、

  自我をむき出しにして妻を傷つけた時、妻が当然怒るだろうと

  予期していたら妻が怒りを抑え私を労わってくれたことが

  ありましたが、そんな時に人は容姿を越えて好きになるものです。 

  またそのような対応ができると年齢と共に劣化するはずの容姿が、

  逆に穏やかさや優しさに深みが増した良い顔になると思います。 

  傷のない人はなく、その傷を受け入れ修正する意識のある人と

  ない人では『運』の向きが正反対にもなるものです。

  他者の喜びや幸せを心から自分の喜びとすることができる

  ようになると、自分の脳内にも快楽物質ドーパミンが出る

  善循環が起こるので協力者も自然と増えると思います。

  『従僕の目に英雄なし』という言葉がありますが、英雄や偉人も

  身近に使える者から見れば人間的な欠点に満ちた嫌な奴という

  意味と、もうひとつ従僕から見れば自分同様か? 

  自分以下の人格ではないか? という醜い見方しか従僕は

  できないという二つの解釈があります。 

   後者の解釈は人間は誰でも自分の尺度でしか人を見られない

  哲学者ヘーゲルが述べたことが当て嵌まります。

  人間の判断基準が個人個人によって全て違うのはその為で、

  何事も全て見方によって蔑む傷にも羨む対象にも見える

  思えば、社会や人の評価を気にせず意外に楽に生きられます。