お金や権力で人生は豊かにならない。

有名人の覚醒剤使用が止むこともなく続くのは、一人になった時に『今の人気や名誉を失ったら』という不安に襲われるからと、その不安は自分が積み重ねた努力によって手に入れたという確信が持てない人に多く、美貌や才能などの偶然によってたまたま手に入れたということを自分自身が一番知っているからと、過去に人気があった人達の浮き沈みも見ておりますので、いつかは自分もという不安が『人気商売』の人達には必然のことだからです。 

大衆とは浮気なものと悟り自分自身を失わないで過ごす人は稀で、この稀な人達は人気を失うことへの恐れを持たないのは、自分が人生で目指しているものを明確に持っているからです。

人気という他者に依存したものへの精神的な執着が少なく、名誉も人気もそれに伴う収入も未来の人生への手段であっても、目的を別に明確に持っていれば人気を失う不安には襲われないと思います。 不安は他者に依存した状態で維持されている自分のポジションを自覚しているから襲われており、この不安から嫉妬・妬み・僻みなどが必然的に発生しますので、日常生活においては優越感という他者の不幸を前提にした傲慢さなども表面化します。 

このような人達の内面に欠けているものは『生きている実感』の欠落ですが、それは他者との共感への確信が存在しないからで、その原因が自分の生き方の中にあることを認めたくないので娯楽や覚醒剤などの快楽への逃避なのですが、このような負の連鎖はアリ地獄で脱出は困難を伴います。 

人間はたいした努力もせずに過大な評価や対価を受け取ると精神が退廃に向う生き物で、フランス貴族の生活や平安時代貴族の生活書物を読むと、労働をせずに権力を得て贅沢をしていた人達の退廃ぶりがよく判ります。 

源氏物語の現代語訳などを読めば、暇を持て余した権力者の精神的な退廃による性的な乱れなどの快楽に向うのは覚醒剤と一緒で、暇な日常生活では男も女も嫉妬が渦巻く権力闘争に明け暮れるなど、搾取し労働しない日常生活を送ると卑猥で邪悪な暇つぶししか行わないのが人間です。 

昔のフランス貴族は昼頃に起きて、夜に気取った服装で自己顕示欲と嫉妬の社交生活が仕事のようなもので、エスカレートすると仮面舞踏会で破廉恥な行為を楽しんでいたのですが、これはハーレムの無情という一人になった時の虚しさの反動のようなもので覚醒剤と一緒です。 

貴族の結婚も夫婦とは形のみで互いの寝室は左右に分かれており、妻の部屋には間男が入る裏口が公認で作ってあるなど、フランス文学者・鹿島茂氏の著書を読むとフランス貴族の常識が現代の非常識である事実が沢山あります。 

平安時代の朝廷における貴族の生活文献などを読むと、藤原北家の全盛時代を築いた摂政・藤原道長が『この世は自分のためにある。何も足りないものはない』と歌に詠んだほど権勢を誇ったのですが、病で苦しみ死に直面した時に阿弥陀如来の手と自分の手を糸で繋ぎ西方浄土を願いながら往生したそうで、権力を手に入れ贅沢を尽くしても安寧の気持ちは決して手に入れられなかったのです。 

最近の世相を見ているとエゴが蔓延しており、お金と権力を求めて金銭的な優位に立つことで幸せになれると錯覚しているようですが、藤原道長の策謀の果てを知れば無意味なことではないか? と私などは思って眺めております。 

フランス貴族や藤原道長の生き方から私が学んだ生き方は、自分が死を迎える視点から現在の自分を眺めて、果たして『どう生きるべきか』を選択することが大切といつも思っております。 

先日孫ふたりの保育園送りを頼まれた時、出社前の娘が忙しそうに洗濯物を扱いながら『私今人生で一番良い時かも』と言い、お父さんも昔そんなことを言っていたよね! と言われました。 

私は覚えていてくれたことが嬉しくなり振り返ると、借財の返済に追われて睡眠時間を削って夜間の仕事をしていた頃でしたが、お客様に必要とされている忙しい毎日が家族を守ることに繋がっており、借財の返済という壁に立ち向かって一生懸命になれる健康な体に恵まれ果たしている今のこの苦労こそが、死を迎える時に振り返ったらきっと私の人生の中で一番充実していた時ではないか? と思ったからでした。 

今の娘も婿殿と協力し合って二人の子供を育て奮闘している自分が、仕事に励みながら妻として母として主婦として頑張れる健康な体に恵まれ、大切な家族のために奮闘することに充実感を覚えたから想い出してくれたのだと思います。 

一般には苦労している時ほど不平不満を漏らしがちですが、それはその苦労を理解し認めてくれる人がいないからと思いますが、逆にその大変さを楽しむ余裕を持てば理解し見守ってくれる人が現われ増えるという逆説的な真理もあり、これなども鶏が先か? 卵が先か? の禅問答のようなものです。 

三十代から四十代の働き盛りに、経済的・肉体的な苦労を嘆くのではなく、大切な人や愛する人のために頑張れることに充実感を覚え幸せを感じられたら、その気持ちは相手にも必ず伝わる善循環を生み、この幸せを維持するために家族の健康を維持する配慮なども自然に考えて過ごすようになります。 

人間とはいつも不平不満を捜している動物で、あるものへの感謝を忘れて無いものへの不平不満を言っており、自分自身が何も相手に与えてない人ほど相手から貰っていない不平不満を並べて吠え続けているものです。 

そして人間が邪悪なことに手を染めている時、無意識ですが自分自身を粗末に扱って自暴自棄になっており、逆に建設的な考えを持ち前向きに生きている時は意識的に自分自身を大切に過ごしているものです。 

権力よりお金より大切なものが健康ですが、健康な時には感謝など忘れて邪悪な欲望を持つのが人の常で、この邪悪な欲望の肥大は愛情をもらったりあげたりする対象が欠落している人ほど起こるので性的倒錯や覚醒剤の快楽に逃げがちです。 

人間の欲望には邪悪と健全があり、より自分自身の高みを目指すという健全な欲望と、他者の優位に立つというエゴが過剰に肥大した人の不幸を前提にした邪悪な欲望です。 

妻がよく言った穏やかな普通の生活が一番なのは、有名人や金持ちと違って社会や時代に影響や翻弄されずにひっそり暮せることで、これこそがささやかな幸せに繋がっているからです。 

資本主義社会という競争社会が世界規模で激烈化してから、勝者がマスコミや大衆に過剰に賞賛されるようになってから、競争・競合における倫理やルール遵守などの透明性が癒着で守られなくなっているのも人間の持つ邪悪な『業』によるのです。 

夏目漱石はこの邪悪な欲望である『業』を『暗愁』という言葉で捉え直し、人間は誰でも心の中にどす黒く広がる暗い思いを抱えていると述べ、この暗愁のために罪人になった人達を『不幸な人々』と言ったドストエフスキーは、どんな人でもいつ立場が入れ替わるか判らないほどに誰の心にも存在しているものと述べていました。

有名になってもお金持ちになっても権力を持っても、不仲の離婚や元事務次官による息子殺人などのような家庭内問題を抱えており、皇室内など何処にでもあるのは人間の心の中の『暗愁』が引き起こしているからです。 

人間はいつどこでも不足を捜し見つけて不平不満を言う動物なので、心の安寧は『足るを知る』以外に訪れないのです。 

欲望の虜になって偽善の賞賛を受けても、ひとりになればハーレムの無情は襲ってきますので、その無情感から逃れるために更なる欲望を目指すか? 更なる偽善の賞賛を求めるか? 覚醒剤の幻覚に走ってごまかすか? の選択ではアリ地獄が待っています。 

権力などもフィクサーと呼ばれた右翼のボス児玉誉士夫や田中角栄の最後を思い浮かべると成れの果ては権力者ほど悲しいものです。 地球温暖化問題も含めて、節度のない豊かさ追求のグローバル資本主義の見直しが必要なのですが、現在のようなアメリカやイギリスのような孤立主義に走ると、中国や北朝鮮やロシアなどによる反発の悪影響できな臭くなることが懸念材料です。 

二十世紀は思想の衝突で戦争になった時代でしたが、二十一世紀は新自由主義という経済(お金)闘争の時代になっており、思想が経済に入れ変わっただけで争いは続いています。 

温暖化問題と同様に全てが次世代のことより現在の大人の都合が優先で動いていますが、香港やフランスのように日本の若者たちも怒りの拳を振り上げるべきと私は思っています。 

大切なのは思想と経済両方のバランス調整なのに、片寄った時代の趨勢に押し流される人間の弱さが露呈していますが、民主主義国家では選ぶ国民のレベルが政治のレベルなので、全ては国民生活に反映され戻ってくる自業自得に繋がっているのです。 

私は贈与こそ究極の快楽』と思っていて、愛する大切な人達に対して自分なりに惜しみなく与えたいと精一杯生きたら、きっと死を迎える時に満足できるのでは? と思い願っています。

問題は山積しておりますが、それでも少しずつでも社会は良くなっていると思っておりますので皆様『良い年をお迎え下さい』。