退行。

地域社会の崩壊は『お金さえあれば生きて行ける』という考えが浸透してしまった結果で、貧しかった時代の他者の無償の協力を必要としたものがお金で解決できると誰もが思うようになったからだと思います。 

その代償として社会そのものを成立させている社会基盤自体が弱くなったのですが、その基礎になっているものは『人を生み育て社会へと送り出している』家庭です。 

学校や社会が人を育てる前の家庭で人間としての基盤が作られるのですが、その家庭において子供を育てる力が弱体化していることが社会の協力体制を弱くしたのだと思います。 

家庭のあり方が社会のあり方を決め、社会のあり方が家庭のあり方を決めている相互関係が存在するのですが、その人としてのあり方を歪めたのが『学歴』だけを求めた家庭内における子供教育だったと思っています。 

特に専業主婦の母親はすることが多くなくエネルギーだけは余っており、子供の教育以外に向けるものがない上に支配力が行使できる幼児期は夢見がちで、成功した人は自分達と同じ道を子供に望み、失敗した人は同じ間違いを犯さないように受験戦争のゴールである有名大学を目指し子供への支配力を行使し続けました。 

しかし成長し支配力を行使できなくなったり、教育成果があがらない現実を受け入れたりして、子供が荒れ始めるたりすると面倒になり突然手を引き知らん顔をするという今の大人独特の背信行為は、子供の自主性を尊重せず親自身も自主性がないという極めて歪んだ優越願望だったと思います。 

だから今は親の支配力が行使できる幼稚園や小学校のうちにと考えて、エスカレータ式の有名中学受験になっているのですが、もう大学と就職が密接に繋がっている時代ではなくなっており、就職と昇進は昔の体育会系が重用されたように、どれだけ組織に奴隷的に奉仕する人間であるか? になっており、もし奉仕や忖度を止めたら居場所がなくなるというイジメ社会になっています。

無差別殺人のような犯罪をする人達も実は『自分の居場所がなく   なった人達』で、家庭で自分の居場所がない子供は虐待を受けており、学校で居場所がなくなった子供はイジメを受けており、会社で居場所がなくなった人達はやはりイジメやリストラに苦しんでおり、社会で居場所がなくなった人達は覚せい剤や犯罪に手を染めており、その前段階の人間はイライラから自分の思い通りになる車の運転による万能感から煽り運転で無差別・無意識に憂さを晴らしているのだと思います。 

それらの違法行為を抑制する理性を育てるために教育があるのですが、目的が学歴という自分自身に利する成果(最終的には高収入と安定)を求めるという落ち着かない競争原理の中で生きていると、他者の脱落が自分の格上げに繋がるという偏差値と同じ上昇効果を得るので、知らずにエゴは肥大して行ってしまいます。 

人間は他人にあって自分にないものには敏感に気付くもので、現在のように格差が広がっていると、いい家に生まれた奴にあるものが『自分にはない』と思う嫉妬や劣等感が、情報化社会の普及によって過剰な刺激を受けてイライラが行き場を失っています。 

地域社会が機能していた昔は、身近な大人の誰かが『他人にあって自分にないもの』が欲しかったら自分で努力して手に入れればと呟く人がいて、何でも揃っているいい家に生まれたら意外と自由のない窮屈な親のいる家かもよ! と呟く人がいたものです。 

昔は格差ではなく階級社会でしたので、階級差というものを自然に受け入れており嫉妬や妬みなど持たず最初から諦め受け入れていた時代でした。 

昔の階級社会から民主主義の建前だけは全ての国民は平等という意識の時代になったから不満を持つようになっただけで、同じ市民の権利として所得差を比べたから『階層格差社会』が見えてきただけです。 

昔の階級社会においてはそれぞれの階級に社会的責任が伴って機能していたのですが、今の上層階層は権力とお金をひたすら求めて義務と責任は下部階層に押し付けるという歪な構造になっていることが大きな問題なのです。 

本来の民主主義とは支配階層の人には大きな責任が伴っているうえに、わがままな下層階層の言うことを聞かなければいけない義務もあるという大変なもので、多数を占めた者達は少数意見にも耳をかさなければいけないというのが本来の姿だったのですが、今は多数を占めたら何をやってもいいと錯覚している時代になっています。 マスコミやネットや携帯電話でもプロパガンダ(特定の方向へ誘導する情報や行為)が蔓延している時代で、トランプ大統領のツイッターのように政治的だけでなく、同じことが公共電波を使いテレビコマーシャルやインターネットで公然と行われているブラックプロパガンダが蔓延している時代です。 

ビッグデーターを使い大衆ひとり一人を分析してから、その個人にふさわしい誘導方法を選択し攻撃(洗脳)しており、あたかも本人は自分自身の意志で選択しているように誘導している恐ろしい時代になったのも情報処理技術が進化した結果です。 

人間は自分の嗜好に合う情報を求めており、その自分の嗜好を肯定されると安心と快楽を得るので喜び勇んで受け入れてしまいます。 科学技術の進歩を巧妙な手口で悪用している頭脳集団が選挙も政治も消費も誘導し高収入を得ており、その誘導された人は無自覚に搾取され下層民に落とされて格差はより一層拡大しています。 

過剰な情報の中では結果のみが意識に残るので、いい思いをしている人が有名大学出身に多いと思い込み、短絡的に子供に学歴を望むという思考になっているようですが、子供自身が考え決断するという習慣を積み上げる親の努力があって、子供がコツコツと積み上げる努力を重ねることを習慣化できるのに、最近は親そのものが何事にも一気に成果を上げることを全ての場面で求める時代になったから子供も努力より結果のみを求めるようになったのです。 

画一化した時代に潜む危険は異質なものを排除することで、だからイジメが社会全体に広がっているのですが、教育の原点として一番大切なことは『社会へ出る前に、自分とは異質な存在を知っておく』ことが人間の生き残りには必須なことなのです。 

社会との繋がりなしに生きられない人間が生き残り成長するためには、自分とは異質な存在を多く知っておくことで、異質な人で構成されている『社会への対処法』という視点を見失ってしまった教育だから、上手に自分の居場所を見つけられない人達が増えているのだと思います。 

学校に居場所がなくなった子供はイジメに苦しみ、家庭に居場所がなくなった子供は虐待を受け妻は暴力を受けており、会社で居場所がなくなった人は精神病を患ったりリストラに遭い苦しむのも、異質への対処法が身に付いていないからです。 

根本的に人間は自分達が慣れていない異質な存在を排除する傾向があるのですが、文明開化時は異質なものに刺激を受け学んだから成長や成熟に繋がったように、異質なものは人間を刺激し変化させる触媒効果の役目を果たしているものなので、異端と異質の排除より寛容の方が確実に人間の成長や成熟に繋がります。 

これからの日本の社会に『どのような人間が必要か』と今の大人が考えれば、『どのような教育が必要か』が見えてくるのですが、短絡化しこの視点が抜けているから学問という手段がいい大学に入るという目的になってしまい、その結果いい大学に入るという目的が達成した瞬間に勉強しなくなって何をしたらいいのか判らないという壁にぶち当たってしまいます。 

大概の人間は壁にぶち当たると、放心した後に精神が退行し始めますので、有名大学医学部学生による集団強姦事件などのような不祥事に繋がりますが、現代大学生の実態を目の当たりにしている教授陣の著作を読むとこの嘆きは必ず載っています。 

しかしこれは私達大人が手段と目的を混同した誤りの結果ですが、壁にぶち当たって精神が退行しても正しい退行を選択することができる人は少数でも必ずおります。 

子供の場合の例としては、中学の勉強で理解できない『壁』にぶち当たったら、小学校時代の理解できなかった学年の勉強にまで戻って勉強するのが正しい良い退行行動です。 

大人になってからの悪い退行行動は現実からの逃避行動に現われ、歪んだ退行行動はより弱者に向けられることが多くセクハラ・パワハラ・買春・少女淫行などのほとんどが犯罪行為ですが、大人でも良い退行をする人は健全だった若い頃に支えてくれた人達に思い至り逢ったり電話したりで相談することで、一度辛い現実を忘れ去ってみると勇気が湧きますので、そこから再び『壁』を乗り越える方策を考え努力を積み上げ目標に向かって立ち上がります。 

この違いは人生において自分の存在を無条件で受け入れてくれた人の記憶という『自己肯定感』が勇気の源で、それが人間の生きている意味と生きる力の根源になっているからです。 

その存在が親であるのが理想ですが、親に恵まれなくても異端や異質な人への寛容の精神さえあれば出逢いは必ず訪れます

訪れないと嘆く人は不寛容な自分自身を顧みないで他者や社会のせいにして逃避しているか? 最近の醜い指導者層のようにエゴイスティックな欲望だけを肥大させて過ごしているからです。

ひとり身の私が壁にぶち当たってする退行は、自己肯定感をくれた妻との想い出にひたることで、板橋環状七号線沿の銭湯に二人で通ったことや、錯覚そのものを楽しんでいた新婚時代などの若かりし頃への退行です。

そんな時は二人で会話していた時に、車中で流れていた拓郎や陽水の懐かしい曲をかけて振り返り明日に繋げています。

妻と出会うまで一人で生きる寂しさに悶々としながら、吉田拓郎や井上陽水の曲を聞きながら吠え続けていましたが、ある日高校・短大・就職を一緒に過ごした友人からの誘いを嫌々承諾した飲み会の時、池袋のオカマスナックで四十七年前にやはり友人と来店していた妻と初めて出会ったのでした。

友人が二人で名刺を渡しどちらに電話がくるか? と提案してくれなければ交際にも発展しなかったと思います。

私の残りの人生は過去の錯覚した若き日の夢の追憶を糧に、次の時代の人達の邪魔にならないように力になれたらと思っています。

死期が近づいた秀吉の『露と落ち露と消えにし我が身かな、浪花のことは夢のまた夢』の言葉が最近の私の心境です。