人生における勝ち負けとは。

私は店頭にて様々な年代の様々な考え方の老若男女と会話をして過ごして参りましたが、年代と性別による視点の違いだけでなく、倫理観や経済力などの境遇によっても考え方は違っており、会話が楽しいと思う人と苦痛な人の違いもありますが、その違いは何なのかを常々考えさせられます。 

まず一番は『同じような感性と倫理観を持った人と話す』ことが誰でも『楽しい』と感じ、感性や倫理観が違う人と話していると表面では適当に合わせても心の中では『この人は私と違う』と感じるから退屈で我慢するから苦痛になるのです。 

『似た者同士』という言葉がありますが、暴走族がたむろするスナックの経営者は暴走族に似た感性と倫理観を持った人が経営しており、暴力行為や罵詈雑言の話がきっと『楽しい』のです。 

健康な人が癌を患った人にどんな労いの言葉をかけても心に響かないのは、『似た者同士』ではない自分とは違う『健康な人』だからで、同じ労いの言葉でも同じ癌患者から発せられた言葉には共感が存在するので心に響きます。 

それは発した癌患者としての重みだけでなく、受け手の先入観念も作用するという複雑多岐にわたって人間の心情が形成されているからで、この複雑多岐にわたる人間の中で同じような感性の人と話ができ共感できたら心が慰められるような幸せ感を感じるのです。 

しかしそのような出逢いに恵まれなくても似たような効果を期待できるのが本を読むことで、同時代の廻りの人に恵まれなくても時代を越えて出逢いは選択できます。 

決して勉強として読むのではなく、自分自身の感性に合う『そうそうなんだ』と思えるような本を選択すればよく、時代を遡った過去の人も含めて感性に合う人の本を読んでいると、『感じていたが上手く言葉にできなかった』表現に触れたり、自分が気付かなかった思慮深い考えを知ったりすると本当に嬉しくなるものです。 

私は過去の人でも現在でも、一般の人からは異端や異質に見られている人の本が好きで、異端・異質の裏側に持っている信念やこだわりみたいなものに共鳴するからです。

普通の会話においても、お互いの中に学びの姿勢が感じられて話をしている時は楽しいので、話題は芋ずる式に展開するのですが突然表情が曇ることもあります。 

子供がいない人に孫の話などの例ですが、人間が話をしていて楽しくないと感じている背景には、僻みやネタミや自己嫌悪などの勝者と敗者の感覚があるからで、立派な人でもテレビや映画なら苦にならず『素晴らしい人』と喝采するのですが、目の前にいると『なぜか自分が卑屈な人間に感じさせられる対象』に思えて嫌な奴に思えたりするのも人間らしさです。 

次が年代の違いにあり、十代の人は三十代になったことなど想像もできずに生きているのですが、もう若くもなく老いぼれてもいない四十代になった人は『四十になって六十や八十になること』を少しは実感させられています。 

しかし例え実感しても六十代の人と話をしていて、六十代の人間を理解できないのはまだ中途半端な若さが残っているためで、人間はその年齢を迎えないと理解し実感できないことがほとんどなのです。 

女性のお客様で多いのは『母の歳になって初めて母の気持ちが理解できた』という言葉で、今思うと『ひどいことを言った』と後悔する人は沢山おりますが、私はこのように内省できる人はまだ立派な方と思っていて、人間とは『井の中の蛙』で特に年齢とは越えてみないと判らない関所みたいなもです。 若い女性にとって中年男は厚顔無恥な嫌らしい存在に見えるのですが、自分自身が中年のおばさんになると中年男より若い女性が非常識で身なりばかり着飾った厚顔無恥に見え始めるもので、自分が若かった時のことを忘れて偉そうに非難しているのが実体です。 

このような人の心を惑わす背景は色欲の存在で、若いうちは若さゆえの色欲に惑わされ、老いぼれは老いぼれの色欲に惑わされるから、昔はかわら版で現代は三面記事や週刊誌沙汰でいつの時代も他人の色欲まで覗き込んで賑わうという変わらないのが人の世の常です。 

脳幹は食欲と性欲という動物の生存本能を司る所ですが、オスの性欲がメスの倍以上の太さに作られている神秘は種の保存のためで、動物のオス同士が交尾の優先権を巡って凄惨な殺し合いまでするほどに惑わされ狂わされるのが色欲です。 

同じ本能の食欲は単純に生存のためで、グルメなどと言っていてもお金がなくなればそれなりで済ますのですが、色欲という神様のいたずら心は前頭葉の抑制力が強力に働かないと制御できないから始末が悪いのです。 

携帯電話の普及でSNS出会い系サイトによる事件が多く表面化していますが、事件にならない内側で行われている色欲によるお金のやりとりは膨大な数と私は思っています。 

ここでの会話はメールで行われますが、最近は会社内や家族間でも会話ではなくメールで行われているそうで、摩擦回避が逆に相互理解を妨げるので孤立感に苛まれ悶々として心が病むから精神病が増えているのです。 

色欲も他の欲望も人間の心を惑わし溺れさせるのですが、どんなに溺れても満たされることには繋がらず、溺れれば溺れるほど愛欲や情欲や獣欲になって行きますので、前に書いた『同じような感性と倫理観を持った人を愛したり話したりする相互関係』以外に真に心を満たすことには繋がらないと思います。 

しかし会話や色欲の裏側には人間の見栄が潜んでいるので、この見栄をお互いが取り去った関係にならないと、お互いに心が満たされるという安堵感を得ることは出来ません。 

男は男らしさという見栄で、女は女らしさという見栄で無意識に生きており、特に若い頃は見栄の張り合いが顕著で幼児などなら可愛いのですが、出会いがしらの会話における見栄は張る方も張られる方も疲れ不愉快になります。 

一般に感情を剥き出しにして愛情を求める男や女はひどく醜く見えるものですが、見栄を取り去った関係の相手に求められるとなぜか可愛く見えてしまう効果があり、普通なら不愉快なテレビの受け売りの知ったかぶり話なども、多少のことなら『うんうん、そうなのー』と騙されてあげる余裕を持てるから人間の関係とは不思議なものです。 

普通同性同士なら、こちらが楽しいと思っていたら相手も楽しいと思っており、嫌いと心の中で思っていたら相手にも伝わっているものですが、男女関係では目が曇るのは色欲という下心が絡んでいるからです。 

この様々な欲を越えた『伴侶や友』を得ることが人生を豊かにするのですが、またまた徒然草ですが百十七段に『友』について誰もが一度は聞いたことがある面白い記述があります。

友とするに悪い者が七つあり

 一つは身分が高くて尊い人間。 二つ若い人間。

 三つ病気知らずの丈夫な人間。 四つ酒好きの人間。

  五つモーレツで勇敢な人間。  六つ嘘をつく人間。

  七つ欲深い人間。

良き友に三つあり

  一つ物くれる友。 二つ医者。 三つ知恵のある友。

これは読む人それぞれが、どのように解釈するか? 自分自身で考えることが自分を知ることに繋がるので解説はしませんが、これは伴侶とする者にも当て嵌まるように思います。

昔妻に『意地の悪い男は、意地の悪い女と結婚すると子供にとって幸せ』に繋がっていると言ったのですが、そこに生まれる子供にとっては両親の倫理観が一致していることが家庭円満に繋がり子供の情緒が安定して育つからで、極端な倫理観の違いは夫婦喧嘩の種なので、子供には落ち着かない環境になり情緒不安定に繋がり子供の人生に影を落とすと私は思っています。

人間は会話や行動だけでなく表情や語気にも感受性や倫理観が表出していて、他者はそれらを受け取り自分の感性・価値観・倫理観と照らし合わせて好きと嫌いを判定しているのです。 

お金持ち男と離婚した女性は、恐らく結婚する前はお金の価値観を優先したのですが、一緒に暮して知った価値観と倫理観の違いに耐えられずの離婚ですが自業自得の部分もあります。 

伴侶も友も、私共のような店舗の選択も人は無意識に選び合っているのですが、その選択の自由の裏側には選択した自分の責任が必ずついて廻るのです。 

学業も就職も結婚も兎角この世は勝ち負けで、貧困は敗者で金持ちは勝者のようですが、私のような妻を亡くした黄昏の年代になると勝ち負けの意味合いは全く違います。 

妻と結婚した二十三歳の時、井上陽水が歌っていた『ありふれた幸せに持ち込めたら』だけを願い走り続けて来ましたが、アッという間に六十九歳になっています。 

ひとり身になってから何度も自分の人生を振り返ったのですが、最近やっと自分なりに勝利できたのではないか? と思えるようになりました。 

それは決して他者と比較しての勝利ではなく、『自分なりに精一杯やってきたな』思える自分自身への勝利です。 

娘を育てる時も、誰かと競争して勝つことではなく、自分自身に勝利する人生にして欲しいと望んだのは、他者との優位性を競う達成感では決して心は満たされず、不健全な競争心は不安を増幅するので必ず心が疲弊するからです。 

人生は地位や財産による結果などではなく、自分の心に問いかけてもしも『中途半端な生き方だったな』という思いがあったら負けなのだと思います。 

私はできれば死を迎えるまで仕事を続けたいと思っていて、愛すべき長年のお客様と娘達家族のために精一杯残りの人生を生きて、私なりに惜しみなく与えることができたと思えたなら、妻のいなくなったひとり身の生活にも勝利できたという満足感で死を受け入れられると思っています。 

仕事と家事の両立は大変ですが、今の仕事のしんどさは若いうちに『当たり前』にしていたので何とか続けられそうですし、家事なども高齢化で固定客が減少しておりますので何とか両立できると思っています。 

老齢世帯二千万円問題の報道を聞いても、そんなお金のない私には働き続けること自体に社会から必要とされるという意義があり、死んでも持っていけないお金に執着することは不安を助長するだけとも思っているので、高齢者として甘えることより人手不足ですのでプライドを捨て高齢者向きの仕事をして社会と繋がり働いた方が不安は減少すると思っています。

 社会や娘達に必要とされる役割を果たすために健康管理のストレ

 ッチ体操や水泳なども続け、何事にも死ぬまで目標を持ち前のめ

 りの向上心で生産的な生き方を続けていれば、きっと妻のよう

 なピンピンコロリの前のめりの死を迎える最後の勝利に結びつけ

 られる信じ過ごしています。