マザコン・ファザコン。

最近は結婚した三組に一組は離婚しているという新聞記事の後に、私のような高齢者の婚活が盛んだとの記事を読み、新聞記事の信憑性を少し疑いましたが、確かに事実婚なども含めると理解できるような気がします。

若年層の未婚と離婚の増加は、平成不況の影響という金銭問題もあるのですが、離婚のもうひとつの原因は夫婦間の育った文化の違いによる軋轢などもあると思います。 

戦争も離婚も文化の違いですが原因はつまらない出来事が引き金になっており、このつまらない文化の違いが度重なると人間を苛つかせ、落ち着かない気分の我慢を強いられた分だけ爆発する時に理性を失わせます。 

しかし相手の暴発が実につまらない出来事なので、『そんなこと』にと無性に腹が立ってしまうので、つまらない出来事の応酬になり『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』になり、どちらかが離婚の言葉を発して成立します。 

文化の違いによるつまらない喧嘩の例として、女四人に父親が一人の家庭のトイレの蓋はいつも閉まっていますが、男四人に母親が一人の家庭のトイレの蓋はいつも開いています。 

この男女が結婚した時、その文化に馴染んでいる当人達が、自分が使用する時に逆の状態だと意味もなく強い不快感を覚えてしまいます。 

ここでお互いの育った環境を思いやることができないと、毎日・毎回覚える不快感は相手の行為によって与えられており、なぜこれくらいの事ができないのか? と相手の譲歩を求めるのが人の常で、自分が譲歩すれば良いと考える人はごく少数です。 

この文化的なものは精神的な染みとして沁み込んでおりますので、かなり理性的な力で矯正しないとできない努力のいるものです。 

この日常生活における文化的な習慣の一致は、家庭における共同生活の平和維持に必須なもので、家庭生活を円滑に進める潤滑油みたいな役目を果たしています。 

私自身は離婚してないのでこれは想像ですが、離婚後に冷静になって考えて『離婚がよかった』と思える人はきっと少数で、つまらない喧嘩に後悔している人達が多いと思います。 

昔男性のお客様で再婚した人に『良い人に巡り合いよかったですね』と言ったら、『未成り(うらなり)は未成りで、本成り(ほんなり)には及ばない』と言われ、知性的で絶妙な表現に感心させられて忘れられません。 

これは西瓜やメロンなどのツルの先の方になった実が、時期遅れで味が悪いものを未成りということの比喩で、本成りはツルの最初にできた果実で美味しく、より美味しくするために先に果実がならないようにツルを切った一品は高価格です。 

この男性が言った本成りは初婚のことで、若気の至りで些細な喧嘩などありますが、お互いの本性まで認め合った仲を言っておりますが、五十代以降に再婚すると悪い意味で大人になって無用な争いを意識的に避けるという味わいに欠ける生活になってしまう表現が含まれており頷けます。 

離婚をした人達は失敗から学び少しずつ我慢強くなりますが、性根は矯正されないので理性を失うと我慢ができず、またつまらない喧嘩で失敗を繰り返す人もおりますが、この繰り返す人達の中にはマザコンやファザコンが多いのではないか? と私は思っています。 

どちらも本人が無自覚なので厄介なのですが、これも家庭の親子関係の中に潜む文化的なものが起因して起こっています。 

マザコンも母と息子だけでなく母と娘の間にも存在しており、ファザコンも父と娘だけでなく父と息子の間にもあります。 

このふたつは親子関係が円滑過ぎるの場合に多いのですが、少ないですが軋轢があっても存在します。 

この答えは子供が親を乗り越えることですが、その一番良い方法は『両親の結束が強く、この間に自分は入り込めない』という認識を子供に与え続けることです。 

我が家の場合は、『世界で二番目に大切な??ちゃん』と言い続けたことですが、幼児期に『一番は誰?』と最初に聞かれた時に『お母さんです』と言うと、『私を一番にしてー』と言いましたが『ダメー』で終わりです。 

しかし妻は何事も困ると『お父さんに聞きなさい』でしたので相談事には私が答え続けましたが、中学生になった時の相談事に『何でもお父さんに頼っていたらファザコンになるよ!』と言いました。 

『ファザコンて何?』と聞くので『図書館に行って自分で調べて読んでみなさい』とだけ言った次の日、帰宅するなり『もうお父さんには相談しない』と宣言されました。 

この宣言が親子と夫婦の分別を理解し、次第に子供自らの人生を見据えた親を乗り越える力に繋がって行きます。 

高校三年生頃に『これからは私を一番と思ってくれる人を捜す旅が始まるんだね』と言った時、もう乗り越えたと安堵したのを懐かしく想い出します。 

子育ては親としての自分が成長した分だけ子供が成長すると思っていないと駄目で、一方的に子供の努力や成長を促したり、盲目的に愛したりすることだけでは子供にリバウンドの弊害が必ず生まれます。 

妻を亡くして一年半後、娘達の家で私が係わった誤解による出来事があったあと、娘が私に話があるとやって来て『私は自分が一番大切で、二番目が旦那で、三番目が娘で、お父さんは四番目だからね』と念を押して帰宅しました。 

その後姿を見送りながら寂しさより嬉しさを感じたのは、このような決意から違う文化で育った二人の文化の融合が始まっており、結果的にファザコンやマザコンからの離脱にも繋がるので、この宣言に二人が新しい文化の家庭を築き始めている手応えを感じられ、その夜は仏壇の妻に『これで安心して死ねるよ』と報告しました。 

 その後二人目の孫が無事生まれた時、今度は五番目に格下げに

 なったと思ったのが一年半前ですが、実は私には四十六年前の

 結婚時に似たような前科があります。

 妻との結婚前夜に、母が『茂ちゃんにマーちゃんを取られる

 うな気がする』と言うので、『母さんこれからは妻が俺の一

 で、母さんは二番だから』と言って泣せました。

 翌日の結婚式が終了し控室に戻る時、私は涙が溢れ出し妻が気

 づき『どうしたの?』と聞かれ、『これからずーっと一緒にい

 られると思ったら嬉しくて』と答えていました。

 この泣き顔を兄が撮っていたので、母には直接的にも間接的に

 引導を渡しようなものです。 

 もし結婚生活の中で夫を実父と比較したり妻を実母と比較した

 りしている人がいたら、自分はまだ親を乗り越えていないマザ

 コン・ファザコンと自覚する必要があるので、その自覚から逃

 げないで自らを見つめ直し親を乗り越え、夫婦二人の文化を

 融合する努力をもう一度試み、自立した健全な家庭の幸せ作り

 に生かして欲しいものです。 

 人間は他の動物と違い、長い依存期間を経験しないと自立で

 きないから脳が進化したのですが、その弊害として両親の家庭

 の文化が沁み込み過ぎます。 

 特に豊かな社会になると長い依存生活に慣れてしまい、精神的

 な自立を妨げる甘えに繋がり易い面があったから引き篭もりが

 増えたのだと思います。 

 親として心掛けることは幼少期から子供の人格を尊重する

 とで、子供の自我による失敗の責任を引き受ける覚悟と、子供

 に求められるまで口や手を出さないで見守ることで、一番大切

 なことは両親の絆の強さを子供に確信させることです。 

 生物として本体的に持つ子供の生きる力は、成長と共に無意識

 に自立しようと行動しているのですが、親の意識が子供の成長

 に付いて行けずにいつまでも『子供扱い』することが多く、

 これが子供の段階的な自立の道を阻んでいる行為が豊かな時代

 になって特に多くなっています。 

 社会人になり子供が自活し始めたら特に敬意を持って接する

 ことで、まして家庭を持ったら口出しを慎み二人で創り上げよ

 うとしている新しい文化を見守り尊重することが親としての最

 後の任務です。 

 親と違う文化を築いていることに口出しをすることは、若い人

 達の文化を否定することに繋がっており、団塊世代の舅や姑の

 干渉が原因で離婚に繋がっている人達を多く見て来ました。 

 日々時代は変化しており、古い時代に生きた文化を子供達に押

 し付けても責任は取れないですし、むしろ時代遅れで子供達の

 迷惑に繋がることの方が多いと肝に銘じることです。 

 子供が自立するまで、親が子供の傘になって守ることは生を

 授けた親の義務ですが、守る傘の範囲が過剰になると自立の妨

 げに繋がります。 

 子供の方も親の言うことを受け入れ過ぎても反発し過ぎてもマ

 ザコンやファザコンに繋がり易い難しさがあります。 

 親孝行なども内実は複雑なもので、現代は遺産目当てで親を引

 き取る者もおり、昔の子供の数が多かった時代の親子同居も、

 その同居お年寄りが『一番薄情にした子供に世話になってい

 る』という言葉が多かったのですが、この親孝行には『親の承

 認を得られなかった子供が老いた親に孝行することで、無意

 識ですが未だに親の承認を求めている』ファザコン・マザコ

 ン心理が隠れているケースもありました。 

 親の傘に守られている傘からいつまでも抜けられない引き篭も

 りもいれば、親の傘から抜け経済的には自立しても心理的には

 親へのコンプレックスから抜け出せていない人達も数多くい

 ると私は思っています。  

 経済的にも精神的にも自立した健全な親孝行とは、自立して築

 きあげた伴侶との家庭の幸せがあるのは、親の傘に守られ育て

 られたお陰で今の自分の家庭があるとの思いで、『老いた親に

 今度は自分が傘を指し出し見守る立場になった』という人生

 を俯瞰した視点ですが、忘れてならないのは自立した自分の家

 庭を最優先に考えることです。 

 いつまでも親に親らしさを期待している子供は、未だに傘の下

 で親を見上げている子供心理のままで、老いた親に傘を差し出

 す行為には親を見送るという成熟した心理があります。 

 マザコンやファザコンは、両親の経済状況や性格や相性や祖父

 母との関係など複雑に絡み合っていますが、修正できるか? 

 できないか? は伴侶との相性なども絡み合っております。 

 単純に男女関係を考えると、男は多少のマザコンがあるから母

 性の郷愁であるオッパイが好きで女性を求め、女性も多少のフ

 ァザコンがあるから守ってくれる父性を求め着飾っており、ど

 ちらも極端に行き過ぎてバランスが崩れると病的なものになる

 のだと思います。 

 しかし三島由紀夫のような『他者を排除して覚える恍惚』から

 自分の欲望を肯定し自己達成を目指す成功の軌跡は、学習院―

 東大―大蔵省―流行作家となり成就しましたが、反面祖母の暴

 君によって大事な幼児期の母性愛欠落が、人の愛し方を知ら

 ず愛されることも拒絶するグランドマザーコンプレックス

 ったのではないか? と私は思う特異な家庭もあります。 

 生後四十九日から十三歳まで夫を憎み・蔑み、六人の女中と実

 母を従えた病弱の暴君祖母に育てられた三島由紀夫は、祖母

 を越えられない『祖母の囚われの人』が実体で、祖母と同じ歪

 んだ意地悪と自己嫌悪を知的な美しい文体で覆い隠し続けてい

 ましたが、結局最後まで『自分の人生を生きていない』とい

 う空虚に囚われていた人だったと思います。 

 『仮面の告白』から始まり『豊饒の海』まで全ては三島由紀夫

 自身による自己分析的な私小説で、最後の作品『豊饒の海』で

 自分の人生の無意味さを明確に認めて自決したのは祖母を越

 えられなかった『祖母の囚われの人』の必然だったのではない

 か? と思います。 

 人間は様々なコンプレックスを抱えて生きているのですが、三

 島由紀夫に巣食った『他者への不能』は男も女も心から愛せな

 い苦悩の人生でしたが、その反面『異質な文化で育った』葛藤

 と苦悩が才能溢れる知性という異能を育んでいました。

 他者への不能とは、その前に自分自身を愛せない不能があるか

 ら他者である男(友情)も女(恋愛)も愛せない病で、サディ

 ズムを伴う非情に自殺に繋がりやすい病でもあります。 

 人は異能の人を羨みますが、何事も犠牲が伴うので平凡や普通

 にこそ感謝すべきで、精神的な病とは自立までの長い依存期間

 を要する人間の不運な宿命によって起こるマイナス現象でも

 あります。