心と身体の錆び。

バブル頃から始まった女子アナに代表されるような有名人や芸能人になりたい人が増えた理由は、金銭的な安定と誰にでもある『認められたい』という欲望ですが、最近はその欲望が肥大し続けてエゴの限界値に達しているような気がします。 

最近の芸人希望の増加なども『学校で教えてくれない』お笑いなので、勉強などせずに有名で金持ちになれそうで楽しそうだからですが、最近の子供はユーチューバーになりたいが多いそうで、収入になり有名になって自己顕示欲を満たす安定・快楽志向のように思えます。 

このタイプはプロスポーツ選手を目指す子供達にも多く、どちらも『学校で教えてくれること』には興味がなく、ひたすら一芸に秀でることが目的化されています。 

女子アナ全盛時代の頃の男達は『学校で教えてくれること』に精を出し、いい大学に入っていい企業に入って一部上場企業や官僚を目指し実現した人達が勝者でした。 

男の『学校で教えてくれること』における負け犬は、私のように自営業になるか? 中小企業で満足するか? 昔はヤクザな世界だった芸能人になるか? でしたが、やがてテレビ全盛の時代になりタレントという世間から注目される憧れの職業になり、テレビで毎日のように人の視線を浴びるのが快感だから東大出の女優やお笑い芸人まで出て参りました。 

現代の子供が幼児期からひたすら勉強する子と、まるっきり勉強しない子に分かれているのは親の収入格差と、テレビや携帯電話などの影響があり、今後はスマホのようなデジタル知識と技能なども子供達希望の視界に入ってくると思います。

スマホで写真を撮ってインスタグラムに投稿することなども増えておりますが、その背景にあるものは『認められたいと繋がりたい』への飢えがあるからで、インスタ映えするという自己顕示欲には惜しげもなく消費しますが、その一方で他者から見えない部分では粗末な食生活で過ごす偏った思考があり、基本的に他者への思いやりに欠けた金銭感覚の人達が多く、ケチな『自分には優しく、他人には厳しい』タイプで、私には高級車をシタリ顔で運転している人間と同じに見えます。 

しかし人間には適度の自己顕示欲がないと不思議とだらしなくなるのも事実で、そのだらしなさは自己顕示欲を過度に失うとゴミ屋敷に進む危険も孕んでいるので難しいものです。 

極論すると小説・絵画などの芸術表現も根本的には自己顕示欲で、私のブログなども自己顕示欲だと思います。 

大切な違いはバランスですが、最近の自己顕示欲には誰でもいいから自分を認めて欲しいという『自己承認欲求』への飢えが強く感じられ、そのような人ほど他者を認めることには無頓着で、そのほとんどは正当な承認欲求ではなく単なる自己主張の氾濫で、まるでトランプ大統領に似て日常生活の中で信頼できる人を持てない孤立している実態の反動です。 

多くのインスタ投稿は人が汗したものを投稿し、自分が紹介したと手柄にしているようなものが多くありますが、本来は自分の努力とか自己研鑽とかを伴う行為によるものを投稿し評価や承認を求めるのが健全な形態で、これでは北朝鮮の金正恩が駄々をこねてミサイルを打ち上げアメリカの承認を求めている行為と同じようなものです。 

人間にとっての精神安定に大きく寄与する『承認される』ことは、親や配偶者や友人や同僚などに承認されることで満たされると『自己肯定感』に繋がるのですが、恐らくこのような人間関係が構築できないから自己不安感を抱え、その不安解消を求めた自己主張が増加し続けているのだと思います。  

世の中に出て過ごす人生の大切なもののほとんどは『学校で教えてくれないこと』に満ちており、友情や人間関係の上手な築き方やセックスや夫婦・親子の良質な関係作りに必要で大切な人を愛する技術を磨くことなどの全ては『学校では教えてくれないこと』ですが、生きる知恵の伝達を阻んでいる原因として世代間の断絶もあります。 

日本で性が禁欲的になったのは、キリスト教の禁欲思想が明治になって西洋思想と共に流入した影響が大きくあり、江戸時代の遊郭や男女混浴状況を考えると、元々の日本は性には寛容だったと私は思っています。 

人を愛する技術は子供が思春期の時と、夫婦生活が老いを迎えた頃の対応時に技術の優劣がはっきり現われますが、それは長年積み重ねた人間関係の中に錆びついたものが積み重なって存在しているからです。 

子供が授かったばかりや錯覚による恋愛中の対象相手は、磨きがかかった鉄がピカピカ光輝いているようなものに見えているのですが、長く一緒にいるとお互いに所々に錆びが出てくるのは日常の生活の慣れを積み重ねた結果です。 

しかしその錆びを放って置くから、思春期の親子関係と老いを迎えた夫婦関係に倦怠感が生まれており、親子・夫婦お互いの関係が手が付けられない状態になるのは錆びついて真っ赤になっているからです。 

特に老いを迎えた夫婦関係は意識的に楽しくしないと暗くなるのですが、私の妻も亡くなる十年位前から『歳を取ったらロクなことがない』と愚痴ることが増えましたので、お母さん『若い時は出来なかった事ができるようになるのが成長だけど、歳を取ったら出来たことができなくなるのも成長なんだよ! どっちも成長だから、歳を取って出来なくなったことを楽しんで行こうよ!』と言いましたが、最初から納得しませんので根気よくお経のように唱え続けました。 

ある時叫び声を上げて台所に走った妻が、『やってしまった』と落胆しているので行って見ると空焚き鍋が黒こげでした。 あまりに落胆しているので『火事にならないでよかったね、でもこれからはもっと大変で素敵な初体験が一杯起こるから楽しもう!』と言い、それからも何かヘマをやるたびに『お母さん素敵!』と色気声で言い続けました。 

半年ほど経過した頃、私がヘマをした時に妻が『お父さん素敵!』と色気声で私を蔑むような目をして嬉しそうにするようになってから、自然にお互いのヘマを楽しむ『素敵!』の言葉が日常用語になりました。 

子供も思春期を迎えるまでは、自分自身の中にある錆びの部分には無頓着に生きていたのですが、思春期を迎える頃から他者との比較で自分自身の中にある錆(欠点)に気が付くようになり、長年無頓着で過ごしてきた反動で異常なほどに自分自身の中にある錆びが気になる過敏症の時期を迎えているのだと思って親は対処して行けばいいだけです。 

人間は誰でも錆びを持って生まれてきており、その錆びを身近な人が磨き取ってあげることが人を愛する技術に繋がっていると私は思っています。

妻が変わったきっかけは、私もお母さんに錆を取ってもらっているから仕事に頑張っていても楽しい生活だよ!と妻に言ってからですが、その時に妻が『ありがとう』と言ってから愚痴らなくなり、その後は私のヘマを『お父さん素敵!』と私を蔑む快感を楽しむ余裕ができ明るくなりました。 

一般の人はこんな行為を照れてできないようですが、私は孫達とも幼児性丸出しで遊んでおり、一歳の孫が駄々をこねると床に顔をつけて泣くのですが、孫の目の前に行き同じ姿勢で私も泣き続けるとキョトンとして泣き止みますが、これも私が孫達と同じ次元に降りて遊ばないときっと孫達も楽しくないと思っているからです。 

人間であれば誰の心の中にもある幼児性を失って大人のふりをしてしまうと、人間の心は必ず錆びつきます。

昔からあるお笑い芸の中に潜む幼児性に笑い転げることが、日常の錆びを研磨すること繋がり、この笑いこそが人間の心の潤滑油の役目を果たしています。 

お笑いで有名になり冨を得て勝者になるには、明石家さんまのように『学校で教えてくれないこと』を身に付けないとなれないのですが、明石家さんま自身しか判らない代わりに失っているものや嫌な経験は必ずあります。 

余裕のない社会になったので、最近の芸人は知性より幼児性を売り物にしているものが流行っていますが、大衆自身が日常で失っているものを無意識に求め満たしているのです。

一流大学・一流企業・一流芸人も『見出し』ですが、芸風の幼児性も見出しなのに最近の大衆は『見出し』でしか人間を判断しない・できない人種だらけで、芸人の私生活時にも平気で幼児性の芸を求めてくる白痴の大衆が増え芸人も大変ですが、知恵者の明石家さんまは白痴を軽い笑いでいなしています

反対に『学校で教えてくれること』に偏って精を出し過ぎ、社会性を身に付けられず引き篭もりになっている人も相当の数おりますが、この社会性などは『学校で教えてくれないこと』の典型で、学校で教えてくれることと教えてくれないことの両方をバランスよく身に付けられない人間が増えたのは、社会と家庭における知識偏重教育の歪みが原因です。 

見えている見出しと見えない本質を区別できない白痴化した人間の増加も同じ歪みの結果で、自己主張の強いエゴの肥大した輩は一流大学・一流企業人にも沢山いるから、ストーカーやパワハラやセクハラや不祥事などの社会悪が蔓延し増え続けているのだと思います。 

煽り運転をする人達は心も身体も錆だらけで笑いの潤滑油もないので、身近に友達や信頼できる人がいない苛立ちをいつも抱え孤立しているから、言いがかりをつけてでも人と係わりたい飢えた野獣なの、抑え切れない性欲で強姦する獣と一緒です。

その上に『学校で教えてくれること』なども身に付いていない人間なので、こんなことをしていたら逮捕されるという想像力すら持ち合わせていない白痴なので逮捕されるまで続けますが、このような人間が老いを迎えた時の哀れは、錆で本体が判らないような状態に変貌しています。

ある年齢を超えると人間の風貌には人生の辛苦が現れており、あんなに綺麗だった人が・・・と絶句することもありますが、これは金銭の苦労より親子・伴侶・友人などの人間関係による辛苦の方が風貌変化には影響しています。 

人間は必ず老いて死を迎えるのですが、係わってくれる他者に恵まれている人は、老いても錆を取り磨いてくれる人に恵まれるので大きく変貌しませんが、孤立している人は生気を失い暗くなり何事にも無関心になって、やがて鬱病から認知症になった人達も私は多く見てきました。 

妻を亡くした私は幸い長年の旧知のお客様と毎日会話ができ、尋ねてきてくれる友人と娘達家族の特に孫達には磨かれ続けておりますので日々感謝です。

私がこの家で孤独死を望んでも怖くないのは、死とは眠りと似たようなもので境目が当人には判らないと思うからで、決して恐れるようなものではないと確信しているからです。

死は眠りと一緒で一瞬ですが、生きることは収入を得る仕事から始まり料理・洗濯・掃除だけでなく、挫折から立ち上がる苦悩や他者と判り合うまでの苦悩など、沢山の努力を絶え間なく重ねないと生きる喜びは味わえないのです。 

それに妻に『見送る』約束をした時に、その代わりに必ず『迎えにきてね』と約束をしてあるので、再会して積もる話をしながら一人身の錆を落してもらうのも楽しみなのです。 

唯一の心配事は身体が衰えても、頭の意識が若い時のままのギャップで廻りに迷惑をかける行為に及ぶことで、身体と意識の問いかけをいつも保ち続けることが重要で、この自分自身で自分の錆を落す心がけが今後の優先課題です。

 それが出来ないで老害を撒き散らしている多くの老人は、生ま

 れながらに持っている錆に気付かない、思春期以前の子供に

 戻っている老人ですが、本人が気が付いていないので子供より

 厄介で廻りは大変なのです。