虐待は複合汚染。

父親からの虐待によって死亡した栗原心愛ちゃん(十歳)の母親の公判記事を読み、母親がかばわなかったことや母親も虐待にかかわったかなどの内容を読むうちに、私自身の子供時代を思い出しました。

私の父も毎日ではなくても度々あり、気に食わないことがあるとまず正座させられ、理不尽さへの表情がでると殴られ、興奮してくると蹴られました。 

前のブログで書きましたが病気で身体の不自由な祖父が、全身で怒りを表現し私をかばおうと父を怒っていたのは鮮明に記憶していますが、母が私をかばってくれた記憶がないことを、この公判記事を読んでいる時に突然想い出したのです。 

では父が暴力を振るっていた時『母はどうしていたのか?』が、いくら考えても記憶が蘇ってこないのです。 

人間には嫌な記憶を消して人生を前に進める自己防衛機能が精神に備わっていて、辛く悲しいことも時間と共に薄れて行くように、物忘れも人生を前に進める心の焼却炉のように精神の健康維持機能として働いています。 

女優の東ちずるさんがテレビの控え室で精神科医の人と談笑している時、『私高校年生の時の記憶だけないの』と言ったら、一度来院して下さいと言われ治療を受けた経緯の本を読んだことがあります。 

その記憶を消した原因が母親(毒親)と判り母親も治療してから母子関係が円滑になったとのことですが、このある時期の記憶が抜けているのは、トラウマとして残ることを回避する精神の免疫作用が働いている場合があり、多重人格なども別人格を作り出して苦悩から逃れており、私の場合も母への嫌な記憶を消していたのかも? と今回初めて気が付きました。 

東ちずるさんも母との絡まった糸を解さないと、母子関係でまた再発するので治療を促され母子ともに治療を受けてから、母親も伸び伸びと暮すようになり偶然の出逢いに感謝していました。 

私の場合もきっと父の暴力を受けている私を擁護してくれない母の存在を消していたのだと思います。 

私が小学生で普段父がいない時の母は『まあちゃんは成績も悪いけど、正直で優しい子だよ』と接してくれていましたので、母への不満はありませんでした。 

私は食べ物の好き嫌いも激しく、父への怯えだけでなく反感や批判的な面も強い嫌な子供の上に、感受性が強かったので夜尿症が続き小学校高学年まで失敗し、その度に父に『頭は悪いし好き嫌いするから身体も弱く、病院代はかかるし寝小便もする』と不肖の息子として怒られていました。 

私自身が私のような子供を持っていたらと思うと果たして? と悩みますが、親として父のようになっていたか、親として試されてもっと成熟できていたか、きっと両極端の親になっていたと想像しています。 

父の支配から逃れる決心をした中学生からは四時間くらい(半分は小学校の復習)勉強し、高校は進学校に行き、短大を出て東京に就職して支配からの離脱は成就しました。    

三年後に妻と結婚してからは、何事も『あなたの好きなようにしていいのよ』という妻の口癖の言葉が情緒を安定させてくれたようで、子供を諭すような優しい上から目線で言うこの口癖には本当に感謝しています。 

就職してから父の心理を理解するために心理学の本を読み漁り分裂病と理解できましたが、妻のこの言葉がなかったら私はアダルトチルドレンのままだったとも思っています。 

東ちずるさんの父親も酒乱だったようで、母親が毒親になったことには夫の存在も関係している複合汚染的な要素があり、栗原心愛ちゃんの家庭も同じような要因を抱えた家庭だったのでは?と推察されます。 

私の父も栗原心愛ちゃんの父親も、男社会の中で社会的に認められないジレンマを抱え、その鬱屈を家族のより弱者にぶつけるという弱い人だった背景には、自己肯定感を持てずに育った可哀想な成育の環境が素因にあったと思います。 

フロイトのエディプスコンプレックス説の中にもある、男の子には母性が・女の子には父性が重要なのですが、父の母は家事は一切しない人でしたので、子供全てが母親の自己犠牲的な行為を通じた母性を受け取っていなかったことが遠因です。 

人類史として続く男尊女卑の悪習の伝統と、密室である家庭の中で肉体的優位の男の暴力の前に口をつぐむ以外に自分自身を守る術がない女性は現代社会でも多く、また子供のために離婚しても収入問題などで生活していくための不安から我慢している女性も多いと思います。 

昔は勿論現在でも女性への差別が存在しているから母子家庭の貧困率が高いわけで、妻へのDVと子供への虐待などは発展途上国の貧困世帯には特に多く、精神科医がペルーに行って調査した結果の本(貧困の病理)を読んだ内容は鮮明に覚えています。 

私の母は昼間に文房具屋を営み収入はあってもそのお金管理は父で、会社で孤立していた父はやがて鉄道会社を辞め、母の営んでいた文房具屋が生計の屋台骨になりましたが、頭を下げるのが嫌な父は店頭には出ず町内会の名誉職を好み出歩いていたので、実質的には仕入れも顧客販売も全ては母がやっていました。 

私が中学生の頃に母が『あんな父さんでも男がいない世帯になったら、女を甘くみて世間の悪い奴がつけ込んでくる』と言ったのは、過去に母だけで商売していた時に嫌と言うほど味わっていたのだと思います。 

男も女も外で振舞う建前と家庭という密室で振舞う本音は違う人が多く、表裏がない人などごく少数で特に男は外にはええ格好しいです。 

人間は何事においても自分を尺度に人を判断し批判しているもので、栗原心愛ちゃんの母親を安易に非難する人達は幸せな家庭で育ち暮らしているか、抗議し離婚しても自立できるような収入を持っているかなどで、現実には暴力に怯え自分へ矛先が向ってこないように傍観する以外に術がない立場の女性も多くいることへの配慮も必要と私は思っています。 

むかし虐待家庭のドキュメンタリ―を見た後に、正直な妻が『お父さんがあんな男だったら、私も子供を守れないような気がする』と言った言葉に、私は返す言葉が浮かばず、ただ『気をつけます』とだけ答えたのを想い出します。 

母が認知症になってから施設に行くたびに昔話をし、母が胸に閉まっておいた数々の私の知らない出来事と、私の知っている事実とを繋ぎ合わせると、母の取った行動の選択と決断には母が生き延びるための女としての自覚による苦悩がありました。 

子供はエゴで残酷ですので、母親には父の盾になり自分を守って欲しいと望みますが、たとえ母親でも自分自身を一番大切にしてよいと子供が思えるようになるには、ある程度成長して人間として成熟してからでないと無理なことです。 

私が今の店舗の借財で大変な頃、父のエゴで色々あった時『父さんの要求を受け入れる代わりに、父さんを勘当する』と宣言し絶縁したのですが、七年後にまた父のエゴで別な息子とゴタゴタが起こった時に、父を許し援助したのは父が反面教師として存在していたから今の私があると思ったことと、妻が常々『本当にあなたは面倒くさい男。小生意気でひねくれていて、私にあなたのような子供がいたらお母さんのようには育てられないよ』と女として母を褒めていたからです。 

しかしこの『父を許す』ことに、妻は結婚四十二年間で唯一私に異を唱えました。

それは父のエゴを受け入れたことで新たな借財を背負い、新店舗の借財との二重債務に私が苦しんだ七年間を妻だけは知っていたからです。 

この二重債務の返済は以後も八年間続き、破綻の危機は三度あり店舗を手放す相談に、事情を聴いた主力取引銀行の支店長の好意の不正融資で三度とも救われましたが、このような私達の金銭的な苦労を何も知らずに父は亡くなりました。

 男も小心者だけならよいのですが、昔の言葉の『女の腐ったよう

 な男』の父は陰湿で自分より弱者には容赦のない暴言・暴力を振

 るいますが、肉体的・金銭的強者の前では豹変し揉み手を行い、

 陰で悪態をつく負け犬の遠吠えをしていました。 

 私共のお客様はほぼ女性ですが、お客様との会話の中できっと

 の大きいご主人だろうなと感じる人がおります。 

 その奥様は無意識ですが夫への気配りはあっても、夫への怯えを

 伴うような忖度がないことが言動に出ており、夫への信頼感が

 何気ない言動に見えています。 

 このような家庭は妻が夫に本音を言え、妻が孫悟空の時に夫は三

 蔵法師のように自愛で見守り、夫が孫悟空の時に妻が三蔵法師に

 なれるという、お互いが相手への敬意を胸の奥に持っている夫

 関係です。 

 私は『幸せですね、今度ご主人を連れてきて』と言うのですが、

 ほとんどのご主人は照れ屋でシャイです。 

 子供を育てる時に大切なことは、子供が自我に目覚める頃に『生

 まれて来てよかった』と思えるような自己肯定感を優先的に与え

 ことで、勉強などは本人がやる気になればいつでも取返しがき

 ことですので、精神的な基盤である自己肯定感は親からもらう

 のが理想なのですが、社会に出て上司などの肉親以外の場合もあ

 り、私のように妻からもらえる偶然は稀なことと思います。 

 貨幣社会における家庭の平和には経済的安定が重要ですので、格

 差を縮小する政策と子育て支援をもっと充実すれば、DV・虐待

 ・不登校・引き篭もりなども半減できると思います。 

 昨今はお金という単一の価値観を追い求めるお金原理主義の社会

 になっていますが、その犠牲はいつも弱者に影響が及び搾取が蔓

 延し増え続けています。 

 私はお金というと産業革命頃の資本主義を皮肉ったマックスウエ

 バーの『我慢して働いてもお金が欲しいというのは、欲望の形

 としては変態なのではないか』という言葉と、見田宗介氏の皮肉

 を思い出してしまいます。 

 見田氏は『我慢して勉強するのは良い学校に入るため、良い学校

 に入るのは良い会社に入るため、良い会社で我慢して働くのは良

 い老後のため。 今日の生活は明日に備える道具であるが、しか

 し人間は無限に生きるわけではない。 ひたすら我慢し勉強して

 働くのは、良い墓に入るためなのか?』と皮肉っていました。 

 生きることに明日も大切ですが、今を楽しく幸せを感じるには家

 族との触れ合いや趣味の時間などがもっと大切で、お金はそのた

 めの手段(道具)ですが目的ではないと思います。  

 どちらも人間の『意識の医者』である人文社会学者ですが、ひた

 すら明日を思って頑張り続けて不安に陥っている現代人は『意識

 の病気』だと思います。 

 我慢して奴隷のように働き、物を買う時だけ主人(お客様は神

 様)になる変態では、我慢した不満が一層物への欲望を肥大させ

 るという悪循環に堕ち込みお金原理主義は加速します。 

 手間暇を惜しみ全てをお金で解決する典型が食事で、外食(夜)

 や中食(朝・昼)やインスタント食品の増加と孤食で、団欒の会

 話と共にあった食文化などと言うと笑われそうな時代ですが、虐

 待など問題のある家庭は食生活に如実にでています。 

 『日本の食卓』研究の岩村暢子さんの本(写真入)を読むと、

 事作りが自己犠牲的な無償の愛であることが判り、養老孟司さん

 は岩村さんの本を高く評価し数々の賞に推薦するが駄目と嘆いて

 おりました。 

 最近は人間関係なども摩擦を避けメールですが、摩擦を通じた相

 互理解の親密感を避けるから、想像による他者への不安や恐れの

 人間関係に陥り、引き籠りなど疑心暗鬼の対人適応障害の人間

 増えたのです。 

 手間暇をかけた人間関係は安心と信頼を生み、料理は経済的で美

 味しくなりますが、手間暇の一番の効用は人への思いやり意識の

 鍛錬とお金の節約にもなり、お金原理主義から逃れることにも   

 繋がっています。 

 私も長く借財の返済で苦しみ『我慢してもお金が欲しい変態』

 陥り自問自答した果てに得たの答えが、『どうせ死ぬのだから今

 を楽しむ』という決断でした。 

 私に自己肯定感をくれた妻を亡くしてからも、美味しいものを作

 りなるべく嫌な奴に会わないよう心掛けて暮らしているのは、こ

 のふたつが私の生きている意味に繋がっているからです。 

 しかし反面教師の父や嫌な人達から学んだことは糧になってい

 るので、反感は持っていても感謝しています。 

 漢字で感謝の言葉を『有難う』と書きますが、これを漢文的に読

 『難が有る』になり、人生に苦難が有ることが人間の成長と

 熟につながっているから『ありがとう』という感謝の言葉なの

 でやはり苦難は必要と思っています。

  虐待や搾取を考えると、人間が本質的に持っている野性的な部分

 と理性的な部分が経済的な意味でどのような形で表出するか? 

 で三通りに別れるように思っています。

 一番目は最も動物的なエゴの追及で、他者には与えず略奪を優先

 する搾取を目指すものですが、人間と動物の違いは人間は貯える

 ので略奪に際限がないことが大きな弊害を生んでいます。

 二番目は等価交換的な思考で、相手に与えてもらった分だけ返礼

 する倫理で、経済的な等価で生きるという一般的に正しく見える

 え方で、親孝行はこのような思考が根底にあると思います。

 三番目は最も理性的な人間の形で、損得や他人の評価などを考え

 ない極めて反射的な弱者への慈悲の心で贈与する自己犠牲的な

 で、親が餓死しても子供に与える行動などです。

 どのような人間性に辿り着くのか? は複合的な要素が絡み合っ

 て構成されるのですが、これほどに人間は多面的な要素を持って

 生まれ、多面的な社会で生きる中でそれぞれが生き残るために複

 雑怪奇に変化するので悪魔も仏も現れるのだと思います。

 虐待も搾取も動物として持つ野性的なものが、人間だけが持つ悪

 知恵で異常に肥大し過ぎた結果で、豊かさという文明の弊害がエ

 ゴを肥大させた複合汚染のような気がしています。