平成の時代とは。

今月で終わりを迎える平成の三十一年間の時代を考えるには昭和と対比すると判り易く、昭和は戦争と終戦の貧しさから始まり高度成長・終身雇用・バブル・人口増加(高齢者が少なかった)・インフレの時代でしたが、平成は真逆の時代でバブル絶頂の豊かさの真っ只中で始まり、バブル崩壊による可処分所得の減少・少子高齢化が進み人口減少・デフレ・非正規雇用の拡大による格差拡大など社会が激変した時代だったと思います。

それは昭和の若年層増加という人口増加の枠組みに円滑に対応していた社会システムが、真逆の少子高齢化の人口減少社会には不都合を起こしてしまう社会システムになってしまった機能不全が社会の全ての部門で起こった時代で、家族は専業主婦から共働き世帯・企業は終身雇用からリストラと非正規雇用へ・国家は税収不足と高齢者増加による社会保障費の増加で財政の悪化が進み、すべてにおいて正から負へ移行して強者はより強者に、弱者はより弱者へと加速してしまった、新しい人口構成へ対処するための社会システム変更の模索に失敗した時代だったと思います。

年金財政などを例にとると、現在の八十代以上の年金支給額は若年層の増加と当時の寿命を前提に設計した高額な支給額になっていたのに切り下げを先延ばしにした結果、それを支える前提の若年層減少が進んだため支給年齢を六十五歳にし、これからは七十歳にしようとしていますが世代間の不公平は歴然です。

システム変更の不備が公平さに歪みを生んでおりますが、政治家は若者が投票せず高齢者は投票率が高いので、当選するために改革を先送りし続けた結果です。 

平成時代は昭和時代の社会システムの制度疲労をあらゆる部門で背負い続けた時代で、経済成長の幻想を追い求め応急処置の繰り返しでお金だけ使いより財政を危機的にしました。 

個人も未婚化・晩婚化・離婚の増加によって少子化を加速しており、無事に大学まで卒業させ育てた子供が非正規社員だったり、正規社員でも転職後に転落して鬱病や引き篭もりになったり、年金受給の親が大人になった子供を支えている家庭も増加し続け、すべてが逆三角形の逆さま現象が社会に蔓延しております。 

これらの大きな引き金になったのは米ソの冷戦終結による国際秩序の変化が根底にあり、冷戦終結と共にバブルが崩壊し製造企業は低賃金の中国や東アジアへの海外移転を進め、グローバリズムに対応した結果として下請け中小企業の倒産が続出したのがデフレの始まりでした。 

国の対応は過去の幻想の『土建国家』としての経済循環から抜けきれず、公共事業で景気を刺激しても税収増には繋がらないのは情報化社会に変化していたからで、投資すべき部門が時代に適合していなかったからです。 

個人の格差が拡大しただけでなく、都市と地方の格差も拡大したのが平成時代で、地方分権を謳い市町村合併で過疎化を食い止めようとしましたが、財源の委譲が伴わなかったので東京都以外は国富の再配分で減少し、大都市重視の経済政策は大都市の過密と地方の過疎を加速し続けています。 

昭和は『どこの地域・どのような親のもとに生まれたか? などで将来の機会の平等が奪われなかった』時代でしたが、平成は生まれた地域や親によって格差が大きくなった時代でした。 

地方の医師不足なども、医師不足の僻地に赴任した方が所得は倍以上になりますが、医師の子供の教育環境と都市のような娯楽や社会資本が整っていないことが赴任しない理由です。 

銀行なども合併が進み地方経済への活性化に貢献できなくなったのは、ゼロ金利まで金利が低下したことだけでなく、企業が労働者への賃金を切り下げ内部留保を増やし、設備投資するにも銀行から借り入れをしなくなったことと、大企業などは株式市場からの直接金融にシフトしたためで、金融市場も昭和と平成では様変わりしたのでサラ金のような高金利のカードローンと住宅ローンに生き残りをかけているのが最近の銀行の実体です。 

誰もがデフレ脱却を望んでいるのですが、日本のGDPの六割を占める個人消費が伸びないと無理なのに、一部の経営者だけが高給を取っても、八十代以上の高額年金者では個人消費には繋がらないのは道理で、その分を若年層の給与増に振り分ければ確実に個人消費が伸びデフレ脱却に繋がる確率が上がるのですが強者達は決して手放しません。 

国家の経済成長の二大エンジンは個人消費と企業の設備投資ですが、この両方がこのような状態だからデフレが続いており、この両方を解決できなのは人間とは既得権益は絶対手放したくないプチブル根性が備わっているからです。 

昭和の時代は奇跡的な経済復興だけでなく、教育・社会福祉・年功序列の終身雇用・家族(専業主婦が老人を支えた)・公共事業など全ての部門で成功しすぎたシステムでしたが、成功しすぎたシステムのメリットが逆にデメリットになり不具合を生む悪循環に繋がったのは、新しい人口減少社会という環境の変化に対応ができなかったためです。 

つまり成功体験が変化を阻みアダになったのですが、大きな政策的な失敗は土建国家的志向の継続で財政を悪化させたことと、若年労働者の失業率上昇と雇用・賃金の劣化を進めたことで、結果として国家としての活力が失われ自殺・過労死・引き篭もり・非正規社員の増加などマイナス効果だけが増加しました。 

これはバブル崩壊による大企業の危機意識が人件費削減だけに向かい、日経連(財界)の強い政治的要請で製造業にも派遣を解禁したことが始まりでしたが、小泉内閣の高い支持率を背景に構造改革という口当たりの良い言葉で行われました。 

これ以後から非正規社員が増え続け、年収二百万以下の激増で非婚化・パラサイトが進み少子化に拍車がかかりましたが、高齢者は増え続けたので医療・年金の社会保障費が増加し続けた結果として財政はより悪化しました。 

ちなみに私共のお客様は高齢者の年金受給者が多いのですが、八十歳以上の方達の年金受給額は高度成長時のモデルで設計されておりますので驚くほど高額で、非正規で働く若者の倍以上の年金を受け取っている人達も多数おります。

ちなみに九十二歳の方で、六十歳から三十二年間年金を受け取った金額を私に告げた総額が約一億二千万円にもなっていると話して『こんな生きるのだったら、欲しいものを買い続ければよかった。でも七十五歳くらいまでに死ぬのがよい』と言う言葉には、私も納得で『生き過ぎたね!』と言うと頷いていました。

こんな状況を非正規で働く若者が知ったら驚くでしょうが、マスコミが格差拡大へのキャンペーンとして報道しない状況も、権力者への忖度と視聴者・消費者である高齢者への忖度です。

私などは国民年金で月額六万円強ですので年金だけでは生活できないので一生働き続けますが、厚生年金の方達でも年齢が下がるほど給付額が下がっているのは、少子高齢化への対応策として後続世代には遅ればせながら対処したからです。 

国家の対応策が後手に廻っているだけでなく、私には若者から搾取して高齢者に廻す所得移転のように思え、子育て支援の充実政策も施さずに少子化を嘆くふりをして、結婚や子育てが安心してできないような賃金の若者を増やし続けております。

高額受給の高齢者にも痛みを負担してもらうような政策転換を断行できない土壌としては、日本人の単一民族的な思考による国民性の中にも存在しています。 

それはアメリカのような多民族国家特有の化学反応によるカウンターカルチャーを生み続ける土壌がないことで、例えば情報化社会の覇者はアップル・フェイスブック・アマゾン・グーグルなど四社全てがアメリカ企業で、世界規模で個人情報を掌握している恐さがありますが、このような新興企業が生まれる活力の土壌がアメリカ社会の懐の深さになっているように思います。 

ベトナム戦争中にベトナム戦争を批判する映画が世界公開されたり、トランプ大統領を批判する映画が公開されたりなど、メインカルチャーに迎合しないカウンターカルチャーの活力が根強く残り続けていることが背景にあるような気がしています。 

日本では政権を批判するような映画はもとよりテレビ番組も圧力で放送中止になったり、そのような番組や映画を制作した人があとで更迭されたりしており、まるで恐怖政治のようで力に迎合するような番組も多くなっております。 

日本の悲しい文化『忖度』はアメリカにも多少はあるのでしょうが、このカウンターカルチャーが活発なうちはアメリカの活力は衰えずに覇権国として存在し続けると思います。 

アメリカの危機が訪れるとすれば、トランプ大統領のような人が指導者として三代ほど続けば起こりえます。 

次世代のことを思うと老巧化したインフラの補修費用・老巧化した原発の廃炉費用・団塊世代と団塊ジュニアー世代の社会保障費など、こらからは今生きている世代と次世代の希望に折り合いをつける道筋を模索しなければいけない時期なのに、トランプ大統領のご機嫌取りに高額なミサイル防衛や戦闘機購入で防衛費を増やし続けているのも属国の忖度です。 

駄目で不満だらけの亭主も、料理も家事もしない妻への不満も、その相手を選んだ本人の見る眼がなかった責任が半分あるように、国民の半数ほどしか投票に行かない状況と、虐げられている若者が投票もせず叛乱も起こさずに、制度疲労したシステムの犠牲を嘆くだけで病んでいる人達にも半分責任があるのです。 

資本主義でも共産主義でも社会はルールにもとづいて勝者を争うゲームを行っているようなもので、その社会のゲームのルールを勉強しないで戦う者は負け続けるのも必然なのですが、ましてやゲームに参加すらしない者は敗者になり続けます。 

人間だけではなく動物の世界も生きることは弱肉強食の戦いで、動物は種の保存のためには命を賭けて闘うようにプログラミングされておりますが、食うに困らない豊かな社会なってからの人間ほど、このような本能が希薄化してしまったようです。

 平成の時代に昭和の宴の後始末ができなかったのは、若年層の政

 治的無関心に乗じてルールを悪用した大人が多かったことと、小

 泉首相のように時代にそぐわないものを破壊する勇気を持つ人が

 少なかったことで、小泉首相も破壊だけして創造をしないで辞

 めたことが、格差を拡大させ財政も含め事態をより悪化させてし

 まったと思います。

 しかし新しい元号の令和の時代を迎え、ひとつのターニングポイ

 ントとして望みと期待をしているのは、終戦後の失うものがなく

 なった最悪から再生したように、バブルが崩壊してデフレのよう

 歴史とは皮肉な出来事の繰り返しですので、私などが死んだ後

 に訪れそうな日本の再生という意外性に期待しております。