健全なる精神は、健全なる身体に宿る。

妻を亡くしてから英語も水泳も止めたのですが、三ヵ月ほど経過した時に娘から水泳だけは続けるように勧められ、それから週一回泳ぎに行っております。 

嫌々行き始めたのですが、帰宅後に不思議な感覚変化を感じたのは、身体を動かすことが精神的な萎えを蘇えらせてくれる効果があったことでした。 

『健全なる精神は、健全なる身体に宿る』と言いますが、身体が先か? 精神が先か? なども鶏と卵の関係に似ていますが、身体を動かし血の巡りを良くしないと精神的な鬱状態も良くならないことを実感させられました。 

その経験から定休日も妻と過ごしたように、夏はパークゴルフ・冬はカラオケにひとりでも行くようにして、声を出し身体を動かして過ごすようにして血の巡りを良くするように心掛けております。 最近は四歳の孫がカラオケに一緒に行って、幼児の曲だけでなく沢田研二の『危険なふたり』を覚え歌ってくれます。 

子供の脳は柔軟で、私の車に乗っている時に興味を持ち覚え、新井満の『千の風』や吉田拓郎の『今日までそして明日から』も覚えようとしており、私にとっては怪我の功名の喜びです。 

車に乗ると、死んだ婆の歌をかけてなどとリクエストされ、覚えてから一緒に行こうと誘ってくれ、私と孫の連帯感とストレス解消になっています。 

身体を動かすことや声を出すことが、人間の心の中に溜まった澱や毒素を排出する効果があるようで、身体の動的な行為から生まれる連帯や興奮や感動の魔力には、理性などを無力化するほどの力があるような気がしています。 

暴動などの映像を見ていても、デモなどで身体を使っているうちに興奮してきて、その精神的な興奮が身体を通じて他の人達にも伝染して行き、そこに集団的心理が働くと普段抑圧していたものが噴出して狂気の暴動に繋がると思います。 

つまり身体が先で精神が後のように思えるのは、一般的には理性的な状態からの興奮や感動が少ないことからでも明らかです。 

今七ヵ月の下の孫を見ていて本当に『人間らしくなって来た』と実感するのは、私を見ると微笑みズリ這いを始め『この人はすぐ抱いてくれる人』と判別して手足をバタバタしますが、これら一連の行為はすべて反射的に行っています。 

人間の形で生まれた最初は身に付いていなかったこのような行為も、抱かれるという行為の積み重ねで心地良さを身体で知り、その心地良さを脳が記憶した結果で、まず身体で感じ脳が記憶という主従関係が存在しています。 

スポーツなども十代で覚えたものは、長いブランクがあってもできるのは『身体が覚えている』からです。 

この身体が覚えているという感覚は、視覚・聴覚・味覚・臭覚・皮膚感覚の五感が果たしており、この五感による人生上の経験がその人間の文化的な個性をも形成しております。 

それは身体的な仕草や身振りになり、発する言葉使いだけでなくリズムや呼吸などの全てが人格として表出します。 

最近身体的な現象で目に付くのが、サッカーワールドカップの選手やオリンピック水泳選手やプロ野球外人選手の刺青です。 

刺青やピアスなどの身体加工を動物はしませんが、その身体加工の起源は生への不安が高かった未開人の自己を守るという存在証明だったそうです。 

未開人にとって鼻・耳・口・肛門などの自分の身体の穴の部分は悪霊の侵入口と怯えそれを防ぐお呪(まじ)いとしてピアスや刺青や腰周りの布を巻き始めたことが起源だったそうです。 

中国では纏足・西洋ではコルセット・日本ではお歯黒やちょん髷などがあり、このような身体加工が減少し出したのは、ここ百五十年前位の食糧生産安定と文明の急激な進歩という、生への不安要因減少と個人の自由が獲得された時期と連動しているそうです。 

つまり身体加工はシャーマニズムと連動した不安解消行為だったのですが、その身体加工が現代の一流アスリート人や一般人に増えている現象には、未開人とは正反対の過度の飽食と自由への不安が現代人を襲っているからのように思います。 

未開人が求めた自由の幸福と、現代人が手に入れた自由過ぎる不幸も表裏一体で、過剰な身体装飾は人間の無意識領域の不安を現すバロメータのようです。 

身体が死ぬと脳も死ぬようにやはり身体が先ですが、生きている間は誰でも何かしらの不安を抱え生きるのが人間の宿命です。 

この日常の不安解消法にも、実はシャーマニズムにヒントがあり、祭りや祈祷の踊りのように兎に角身体を動かすことです。 

このような舞踏文化はどの国にも存在しており、舞踏の舞う方は農耕民族に多く日本の能のようなすり足で、は狩猟民族の西洋のバレエのように飛び跳ねる文化になっています。 

この舞踏が人間の不安を解消する効果の証明として、西洋でも東洋でも昔から戦いに行く前に『士気を鼓舞する』ために踊ったから鼓舞に舞うという字が入っており、一番判り易い例では桶狭間の戦いを前にして織田信長が『人間五十年・・』と歌いながら能を舞ったことで、多勢に無勢の中で声を出し舞うことで不安を払拭し自分や家臣の士気を鼓舞するために行ったのだと思います。 

行動心理学者の下條信輔氏が『脳の来歴』という考え方の中で、幼児が痛みで泣いている時、抱き上げ『痛いのかい』と言われることで痛みを心で理解し、やがて他者の痛みも自分自身の心の痛みとして感じるように、意識は心の内側から起こるのではなく、身体と環境から発生した経験によって意識として認知するように、人間の記憶は身体とその人の人生における環境に偏在しており、人生経験の豊かさとはどれだけ多くの他者と共に生きたか? であると述べていました。 

努力と忍耐の心を作り上げるには、ピアニストも芸術家も武術家も小説家も身体的な修練がまず先に存在していると思います。 

生きることは不安との戦いですが、迷い悩み不安に襲われ心が萎えてきたら、無心で身体を動かす運動や修練を積めば良く、それが自分自身を鼓舞することに繋がっております。 

麻薬やアルコール中毒によって脳が支配・操作される人は、身体を動かす修練によって健全な脳に導くような、自分自身による自分の管理や操作を怠っているからです。 

四歳の孫がバレエの発表会が終わってから、日常に音楽が流れると無心でバレエを楽しそうに踊っている機会が増えたのは、無事に発表会を終えプレッシャーから解放されたからで、その喜びが無意識に真に踊りを楽しむ行為に繋がっているからと思います。 

その発表会を最前列で見ながら、脇役でもこのような行事を通じて少しずつストレスへの耐性を高めて成長して行くのだなあーと思ったので、翌日には賞賛の言葉とご褒美にガチャガチャとアイスとカラオケと寿司に連れて行き、ひとつのハードルを乗り越えた姿を見守り喜んでいるマー君爺の気持ちを伝えました。 

日本の能も西洋のバレエも、人間の生と死の境目を踊りで表現しているものなのは、自分自身の死を受容することが人間として真に生きることに繋がるからで、人間が人生の難関を乗り越えるために自分自身を鼓舞する踊りという文化を発明して、死ぬまでより良く生きる道に繋げようと考えた結果です。 

私はとっくに死を受容していますが、身体を動かす水泳とパークゴルフもより上手になろうという情熱がないと楽しくならないので、どちらもいつもテーマを持って続け、老人の運動による身体の故障防止と、成長する孫と老いる我が身を相対化し少しでも長く抱いてあげたいので、ストレッチや腕立て伏せや腹筋などを寝る前に三十~四十分ほどかけて休み休みやっています。 

しかし運動には競走意識がつきものなので、それを避ける意味も有ってプールはほぼ私一人だけの日曜の夜、パークゴルフもひとりで行く方が集中力も増しますし、特にパークゴルフは状況によって妻の囁きが聞こえて来る想い出などが一人だと湧いきます。 

カラオケは娘や孫とデュエットしたりして楽しんでいますが、一緒に行くと四歳の孫の音程成長も楽しみのひとつです。 

一人で行った時は採点機能をつけ九十点以上を目指すのは、妻に期待され楽しんだ想い出をなぞれるからです。 

人は死ぬまで何か? 夢中になるような暇つぶしと好奇心を持っていないと退屈になりやがて怠惰になります。 

極論すると文明も文化も情熱的な人間の有意義な暇つぶしの結果だと私は思っています。 

人間の身体は五感によって命を守り繋いでいるのですが、食事の味覚・音楽の聴覚・絵画や映像の視覚・好悪の臭覚・性愛と危険回避の皮膚感覚などの五感を満たす快楽が生きている喜びで、五感による嫌悪は生存のための防御機能を果たしており、この快楽と嫌悪を脳に知らせ認識して人生を豊かにしながら紡いでいます。 

人生経験を積んで得る第六感などは、この研ぎ澄まされた鋭敏な五感情報を統合し、それに経済や環境情報に経験知を積み重ねて何となく予期されるものです。

五感の身体が先に感じ取ってから脳が認識し、その統合した結果から類推するのですから、『健全なる精神は、健全なる身体に宿る』の順になるのですが、私自身は身体が考えているのだと思っています。