妻を失った代わりに得たもの。

妻を失ってから今年の十二月を迎えると丸三年になりますが、その大きな代償の代わりに得るものは何なのか? をこの三年近く考え続けて参りました。

喪失感で眠れない一年目を乗り越えられたのは、仕事を通じて社会との繋がりを保てたからですが、お米を炊いたこともなかった私が娘達に迷惑をかけたくない一心で始めた料理レシピも、三年間の積み重ねで十センチほどになりました。

月二回の定休日以外は三食作り続けたのは、四十三年間妻が果たした役割を思い知るためでもあったので、楽な方に逃げないで続けられたのだと思います。 

アイロンがけなどの時、妻の写真に『嫌がっていた気持ちがよく判るよ』と話しかけながら続けるのも全ての家事が心の穴を埋める一種の修行みたいなものと思っているからで、料理が美味しくできた時は『お母さんのより美味しいよ』と仏壇に嫌味と一緒に供えるのも日課になりました。 

ここまでやって来られた理由の第一は、『何事も二時間の我慢』で成就するということを習慣化していたことが役立ちました。 仕事もスポーツも家事も全ての嫌なことや面倒と思うことに取り組む時、先を考えずに『今から二時間だけ辛抱』と目先だけを見つめてやり過ごす方法です。 

買物も料理手順も洗濯や掃除も三年の歳月は無駄になっておらず、時間の有効活用も追いつめられて工夫が生まれ、潜在的な能力も開花し始めていると実感します。 

娘が中学生の時、何事も意志次第のたとえ話にロック・クライミングの話をしました。 

断崖絶壁の頂上を仰ぎ見て、誰しも『あの頂上から下界を眺めてみたい』と思うのですが、初めてロック・クライミングを始めた人はハーケンに似たものを打ち込み二~三メートル上がってみてから、この道具を沢山作れば頂上も夢ではないという確信を持ち、道具を沢山作り実行に移し達成したのが起源ではないか? と話ました。 

つまり単なる夢や願望ではなく、『執念に近い願望』を持っていたからと話し、この執念に近い願望があるか? ないか? が全ての物事の分岐点になっていると伝えたかったのです。 

人間は意思を持ち続けさえすれば、何者にもなれる可能性を持っているが、諦めたらその時点で可能性はゼロで、できないのではなくまずやろうとしないからできないのです。 

妻を亡くしたから、仕事で忙しいからなども、全ては言い訳に過ぎず、娘に過去に言ったことを忘れて実践しなければ空念仏なので、六十六歳からの料理は二十数年前に私が言った『執念に近い願望』の実践でもありました。 

二年目頃からは夜中二~三度目覚めても眠れるようになり、この頃から寝室にミニコンポを置き妻との想い出のCD曲集を作って深夜聞き、妻との四十二年間の喜怒哀楽の人生を振り返る追憶の時間でもあります。 

無理に眠ろうとせず、六十八年間の過去と現在を俯瞰して眺め直し、今までの数々の失敗を教訓にして、自分の人生の終り方という未来をじっくり考える時間になりました。 

三年を振り返って『眠れない夜が教えてくれた』ことが沢山あり、もし死を予感できるような不調の兆候が出て、『苦痛を二時間耐える』と死ねそうな時は我慢したいと思ったのは、娘達には介護や看護の負担をかけずに、妻のように旅立ちたいと思ったからです。 

まだ死ねそうもなく貢献できそうな時は救急車を呼ぶのか? なども、妻の不在が私の幕引も考える機会を与えてくれました。 

あらゆることを反芻して考えられる眠れない夜は、もし妻を残して私が先立っていたら? もし寝たきりでも妻が生きていてくれたら? もし脳ドックを受け、脳の静脈瘤の手術を受け元気でいてくれたら? などを何度も考えました。 

どのケースの場合でも想像した結果は同じで、妻の性格や人間性を思うと『妻のためには、あの結果がよかった』という思いに行き着きました。 

恐らく妻も生前の眠れない夜に、老いて行く私達の行く末を考えた結果として『お父さんより先に、眠っている間に、一気に死にたい』と言い続けていたのでは? と思いました。 

そんな妻の気持ちを察して見送る約束をしたのですが、亡くなる三年ほど前に『お父さん、私を見送ってくれるならタバコを止めて』と言うので、その日から亡くなる日まで止めたのも、妻が一人残される不安の強さを思い測ったからでした。 

性格と人間性は環境への順応性にも現われるもので、私には想い出が残りの人生を生きる力にできても、妻の場合は想い出が失った過去への未練に繋がってしまい、不安から孤立に陥るタイプの人だったと理解していました。 

知り合いのお医者さんにも妻に内緒で、『高野さんの奥様は本当に内気で大人しく、鬱病から認知症の危険がありますよ』と告げられた時、『判っているので、私には牙を剥けるようにしてあり見送る覚悟をしています』と答えたら、『流石、できることがありましたら』と問答したのは妻が亡くなる一年前でした。 

世間に怯えるように内気で大人しく社交性に欠けるので、卓球や水泳も最初は私が強引に行かせた経緯があり、定休日も私と一緒に遊びまわっていましたので、一人残したら娘達にも遠慮し社会との繋がりが絶たれ、先生の言う通りになったと思います。 

もし事前に脳動脈瘤が発見されたら手術を恐がり頑固に拒否したでしょうし、元気な頃から加齢と共に過度に認知症への怯えを持っていたので、もし脳動脈瘤の手術をしていたとしても、毎日のように怯えや不安を口にする生活だったと思います。 

たとえ寝たきりでも生きていてくれたらと思っても、私の世話になり負担をかけることに傷つき、生前から時々言っていた『その時は、殺してね!』の言葉を繰り返したと思います。 

自営業の私達は、結婚してから四十三年間のほとんどを、昼も夜も休みの日も一緒でしたので、お互いの気持ちは阿吽の呼吸で読み抜いた仲でした。 

この三年近くの眠れない夜は、この『もし・・・だったら』を反問し過ごして参りましたが、この結論に納得できたのは同じようなことを娘に言われた時でした。 

私達は磁石のN極とS極のように、守って欲しい人と守ってあげたい人なども含め全てが正反対の性格だったから、お互いに惹かれ合ったと思いますが、最近の男女関係の継続しない難しさを見ていて、共同体の崩壊が陰にあるように感じております。 

現代の家族は昔の共同体に存在した因習から解放され、家や地域社会という結び目からも解放されています。 

しかしこの結び目という支えを失うと、その男女の剥き出しの関係自体によってしか支えられないので、閉じ込められた関係の中での軋みは実に危うく非常に壊れやすいものになります。 

出逢いがしらの恋が増え、出逢いがしらの喧嘩で安易に破綻の結果として母子・父子家庭や単身者が増加したように思います。 最近の男女関係には共同体だけでなく、親も親族も関与できないプライバシーの肥大が進み、男女関係の軋みも特定の二人だけによってしか維持・解決できなくなり、いつも崩壊の危機と隣り合わせの危険な関係になったと思います。 

男女関係の破綻は家庭の崩壊にも繋がりますが、たとえ子供がいても男女二人の意志のみで決定しています。 

現代は会社が昔の共同体の役割のようになっていますが、会社は家庭には関与せず、逆に家庭を顧みずに会社という共同体への忠誠を求める、むしろ家庭にとっては会社は危険な存在になっています。 

このような現象も資本主義のお金だけが頼りになった副作用で、結果として個人も家庭も孤立化が進み、企業という法人のために個人が従属させられているような状況です。 

田舎の古いしがらみから逃れて幸せを感じた時代から、都会で孤立した不幸を感じる時代になり、幸せと不幸も紙一重です。 

この流れも個人個人の総意が時代の趨勢を決めている結果で、単身者の増加は人間関係の希薄化を推し進め、家族そのものを解体する時代に向かっているように見えます。 

一見すると文明が家族を解体し始めているように見えますが、実は便利で豊かな文明が人間のエゴも含めた真の姿を剥き出しにさせた結果なのかも知れません。 

お金が結び目の脆さは、歳を取りひとり身になると思い知るのですが、そんな時人間の支えになるものは利害を越えた人間関係と、承認され承認したと確認できる人間関係です。 

私の三年間を支えたものも、想い出の中にある妻の私への信頼と、四歳の孫の言動の中に溢れ出ている信頼と、長年のお客様が私を信頼し来店して必要としてくれること、この三つが私のひとり身生活の勇気を奮い立たせてくれる源泉になっています。 

人はひとりでは生き辛いもので、実はこのような結び目こそがひとり一人の人間の精神的な破綻を回避する役目を果たしているのだと実感しています。 

妻と私の関係でも、お互いの良い所と共に悪い所も認め、それを笑いにして夫婦関係の結び目を作り上げたのですが、そこには男と女の獣的な剥き出しの性愛関係も大切な結び目の役目を果たしており、その性愛関係があったから日常のお互いの剥き出しの感情の長短も裏表と捉える心の余裕に繋がったのです。 

人は生まれると食欲から始まり、成長と共に性欲から金の欲へ発展しますが、老化と共に金の欲を失い・性欲を失い・食欲がなくなった時に死を迎えます。

このように『食』は人間の生の原点で、料理は大変でも美味しいものを食べる喜びも快楽で、家族のために得る収入という夫の役割にも大変さと共に快楽の部分があり、お互いに補完し合う男女間の不満の噴出の根源には、無意識領域に『自分が果たしている義務的行為に対して、相手に認めて欲しいという承認欲求』の甘えが根本に存在しています。 

私が妻を失った代わりに得た一番大きなものは、『仕事も家事も人生も全てを俯瞰した眼で捉え、社交性を意識的に保って孤独や孤立に陥らない心構え』を持つことで、その為には孤独な老人が無意識に振り蒔く悪行の数々を意識的に抑制しなければいけないという自覚でした。 

妻の死でジグソーパズルの絵のような今迄の私の生き方がバラバラの破片に解体されたのですが、三年の歳月をかけて散乱したパズルの破片を組み直し繋ぎ合わせて、新しく描いた絵としての生き方を作り上げてきたように感じています。 

その過程で自分の生誕から死まで、仕事を通じた取引先とお客様、娘達の家庭と孫達の将来、私的な人間関係などのすべてをズームアウトした俯瞰した眼で捉え、解体されたパズルの一枚一枚を埋め直してきたように感じています。 

これは私の残りの人生の振る舞い方の指針になるもので、大きな二つは孫達への友蔵爺さん役(ちび丸子ちゃん)と、仕事で店頭に立ち続けることで、その二つを私の残りの人生を死へと真っ直ぐに前進させる両輪に据えて元気に過ごすことです。 

ひとり身になって気が付いた利点には、妻への気兼ねがないので家でも好きな時に本を読める・興味のある番組以外はテレビより音楽を聞くことが許される・寝室で音楽を聞くなどの妻に怒られるようなことができることも失った代わりに得たものです。 

妻が生きていた意味は、妻の死によって私が味わっている空しさですが、肉体的には消滅しても今も霊的な存在として歩みを共にしていると思えるようになりました。

 

    虹立ちて忽ち君の在る如し(高浜虚子)