嘘の蔓延と他者への敬意喪失。

妻を亡くして丸二年を過ぎてから、少しずつですが日常を前と同じ景色で捉えられるようになってきました。 

例えて言うと、深夜車を走らせて外界を見ていた自分のライトより(妻がいた時)、対向車のライト(世間)の方が強く眩しく感じるような感覚で、自分自身が矮小化され外界に圧倒されている感覚でした。 

人間は自我を持っており、その自我を基準に外界を判断しておりますが、その自我への不信と不安に襲われた揺らぎ感覚です。 人間は動物と違い、建前と本音や生と死のような二面性の中で生きているのですが、本音と死の部分の方だけが肥大化し、自分自身の存在の無意味さと無力感に襲われ、自力への自信が崩れて行って、他力によって生かされていた再確認の連続で、丁度逆光で太陽を見ているような眩しさの中で暮している感覚でした。

そんな揺らぎの日常の中で社会を眺めていて、嘘と悪が大手を振って横行している現状に、次世代の未来への不安で圧倒されそうになった時、私を癒し支えてくれ奮い立たせてくれたのが孫や娘達の存在でした。 

その癒しの積み重ねの中から、婿殿を中心に未来に向かっている娘や孫の家庭に、できるだけ負担や迷惑をかけないようにし、少しは力になれるようにと考えるようになってから、妻がいた時と同様の世間の逆光に負けず愛する人のために生きるという、バッテリーが充電され生への光源に強さが出て来たようです。 

その頃から昔のように次世代のことを視野に入れた日常に戻れ、現代社会の問題や社会悪への問題意識を取り戻し、残りの人生を次世代の人達のことを第一に考えて行動し、仕事と日常生活では迷惑をかけないように心掛けて過ごしたいという思いにやっと辿り着けました。 

そんな気持ちで日本を見て平和ボケの現代社会の諸悪の根源は、狡猾でゴマスリのエゴイスト達が指導者や権力者に居座っていることが一番の問題と思い到ります。 

終戦後の復興は全てがゼロから始め、無から有を作り上げてきたのですが、その過程において従業員と多くの協力者のお陰で今の自分と会社が存在することを創業者達は肝に銘じ、政治家は国民生活を豊かにすることを目指していました。 

しかし経営者や権力者が交代し平和ボケが長く続く間に、ゼロという原点は忘れ去られ国民や従業員は協力者ではなく服従者と捉えるようになり、全ての他者は自分の目的の手段として扱う事に慣れ疑問すら持たなくなったように思います。 

国民も政治家を信用しておらず消去法で政党を選択し、従業員も理念など持たない経営者に共感できないので、自己の安泰と安定を優先するか? 失業への恐れで絶対服従か? 忖度のゴマスリでのし上がるか? で、こんな精神状況の社会や企業で人間の心は活性化しないから長い停滞と不祥事が続くのです。 

自民党を支える三割の支持層も理念ではなく、トリクルダウンという利益のおこぼれ目当てで、無党派層は不信から棄権するので投票率は下がり続け、現在のような五割位になるとこの三割が倍以上の効果を発揮するから加計学園や森友学園のような癒着に繋がっているわけで、無党派層の棄権した人達にも半分の責任があると思います。 

もう書き出したら切りがないほどの複合汚染状態で、格差や過労死問題もセクハラ・パワハラ・忖度問題も根は全て同じです。 現代日本の家庭や社会の日常に、優しさや寛容や誠実や正義などが失われ始めており、そのような環境で育った次世代の人達の常識を変えてしまった私達大人の責任が一番にあるのです。 

多くの大人がつまらぬ権威主義のとりこになって振舞うから、現代の若者は言葉を失って幼児化し、引き籠りや鬱病やオレオレ詐欺や無差別殺人などを生んでしまったのです。 

権威主義の裏に潜む心理的暴力への怖れは、反論できない若者にとっては社会全体への無言の憎しみに通じているのです。

何事も全てが結果次第で、その過程の努力に目を向けず評価もないから、目先の利害を優先する風潮が蔓延し常識になり、スポーツまでもが手段を選ばず勝利すればスポンサーがつきお金になる時代だから、自己保身と拝金主義のエゴが跋扈するのです。 

お金も財産も死ねば終わりで、ゼロの原点を知らない傲慢な子供にお金や財産を残しても、結果的には精神的には満たされない不幸な人生が待っているだけです。 

刹那的な物はお金で買えますが人の心は買えないことは、高額所得者のカルロス・ゴーン氏や渡辺謙氏の離婚騒動が証明しいて、このような傲慢な男を選んだ女性達の判断基準にも半分の責任があると私はいつも思っています。 

常識ほど怪しいものはなく、九十九人の気違いの中に一人の正気が入ったら、正気が気違いに見える現象が日本だけでなく世界中に広がっております。 

動物も人間も本能で己の利を優先するのですが、そこに共有や共存や寛容という文化的な思想があったから人間は考える葦として繁栄し持続して来たのです。 

最近の社会的地位のある人達の白々しい嘘を認めない傲慢さは自己保身ですが、このような平気で嘘をつき他者を犠牲にしても平気な風潮はオウム真理教のサリン事件以後頃から、無意識下の日本人全体に広がり始め加速したような気がします。 

それは高度成長の惰性で続いていた様々なシステムの金属疲労なのですが、バブル崩壊後の長い停滞期間に組織やシステムの中に蓄積された老廃物の腐臭噴出が続いています。 

長期停滞から効率重視に追い込まれ、寛容や共存や共有と一緒に異質を認め敬意を持つという多様性も排除した結果、このような腐敗した老廃物的人間が組織や社会の上位を占めてしまい、このままでは次世代の若者に多額の国の借金を残した上に、腐敗した老廃物の浄化と革新という責務も負わせるということを考えると、今は日本の未来の瀬戸際の正念場です。 

権力という力が支配する人間関係を支えているのは利害関係だけですので、忖度のような萎縮した精神状態の組織になりがちで、自己保身という視野の狭いエゴ集団になります。 

反対に異質な者への寛容や共存・共有の組織においては、お互いの心や体の痛みへの思いやりが潤滑油の役目を果たすので、強い人間関係の絆に繋がり活性化するので、常に革新による活発な細胞分裂が起こるから、組織の老廃物は自然にいつも排出される自浄作用が働きます。 

歴史的に見ても、人類の悪行の始まりは常に嘘から出発しているのですが、最近はその嘘に罪の意識を感じない人達が権力者になっていることで、『罪の文化』である西洋のトランプ大統領から、東洋の日本は『恥の文化』だったはずですが阿部首相・官僚・日大アメフト監督などの恥知らずが大勢います。

『罪の文化』の国では嘘の罪を懺悔し神の許しを請い、『恥の文化』の日本では世間に顔向けできないと恥じ入ったのは、もう昔の話になったようで、見渡せば権力者も責任者も弱い者イジメの厚顔無恥だらけになったようです。

その日本の大きな問題は、恥の文化がマイナス面として持つ『事なかれ主義』が子供の学校から社会全体に広がった結果、世間に顔向けできないという世間が崩壊し始めており、魔女狩り的なマスコミと監視カメラだけが機能している異常さです。 

『嘘も方便』とか『建前と本音』などは社会生活を円滑に進めるためには欠かせない一面もありますが、最近の権力者の嘘は己の利益のみを優先した、社会を破壊に導く人間同士の信頼関係を失わせる嘘の数々で、あるのは己への驕りと支配欲だけです。 

この悪への無感覚と無自覚はオウム真理教の地下鉄サリン事件を思い起こさせますが、この頃から自分の欲望を満たすためなら手段を選ばず、嘘をつき他人を陥れても平気な自我の横行が蔓延し始め、その支配欲の輝きの眩しさに従うか? 忖度しないと身の破滅に繋がるような恐れの中、建前では平和を装った社会の中に、隠れた本音の恐怖が潜む社会になったようです。 

トランプ大統領を支えるキリスト教原理主義と兵器産業には、同じ一神教のイスラム原理主義への攻撃が利害の一致を生むのですが、このような特定の人達の利益のみの世界観では公平な政治を行うことはできません。 

多分日大のアメフト監督のように、最初から己の利益のために相手を壊すことしか考えていないのですが、こんな人達を総理や指導者に選んだ国民の方にも半分責任があるのです。 

原理主義とは歴史的事実を否定し、事実ではない嘘の独自性をでっち上げるもので、ヒトラーもそうでしたが世界的な右派ポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭は、大衆が心理的・経済的に不安に陥っている時、この複雑な現状を単純化して提示するような嘘の幻想にとても弱いので起こります。 

英国のEU離脱なども同じ幻想で起こっており、人間は社会や組織の中に連帯感が失われ始めると、『自分もいつか相手と同じ立場になるかも?』という想像力を失ってしまい、短絡的な自己保身のエゴイズムに走るようになる非常に弱いものなのです。 

民主主義は多数派が少数派に勝り支配することではなく、多数派が少数派にも発言の権利を与え、数の力に抑え込まれる犠牲者を減らすために考え出されたものでもあります。 

組織や社会の活力が減退し衰弱しているのは、利害が一致する強者同士が陰で力を行使し続け、弱者は連携できない状況の中で不信感だけは蔓延し、全ての世界で自分より弱者を獲物として食い物にしている循環の現状があるからです。 

政治は国民に『私達は何をすべきなのか』という指針を提示できず、国民は政治に望んでも自分に何ができるかと考えない現状は、日本の未来への大変な危機です。 

社会や組織では寛容や友愛ではなく、支配や命令や敵対の構図になっているから、そこで迎合や忖度できない人達はイジメや鬱病で苦しみ、耐え抜き頑張り過ぎた人達の自殺・過労死が連日報道されているのです。 

人間の心が病むのは、本能的欲求を満たす快楽原則と、社会を考慮に入れて欲求を制御する現実原則の調和が崩れた時とフロイトが言いましたが、文明が進んだ近代程このふたつの調和が崩れた片寄ったに社会になったからと思います。 

大切なことは自分とは違う異質な考えの他者を、自己否定と恐れず認める寛容の精神で、この寛容が存在しない個人や集団は本質的に貧しくひ弱で凶暴なものになってしまいます。 

これが個人主義の末路で、家庭でも組織でも社会でも『誰かと共にある』という感情なしに、自己だけが肥大してしまった今のような幼児的な社会のままでは、自浄作用を伴う強靭な成熟した家庭・組織・社会を構成できない不幸が続きます。 

本当に成熟している人は、知的障害者にも妻や子供にも敬意を持って接しております。

物の豊かさという文明の進歩の誘惑に勝てない人間が、人間の心を支える精神的な思想や哲学などを置き去りにし邁進してきた心の歪み現象で、文明が文化を追い越し広がり過ぎたギャップの中で傲慢な人間を増やしのさばらしている過渡期が今です。

しかしいずれ腐臭を放つ腐葉土から、闇夜が明けた朝に新芽の若葉が出ていると私は信じています。