セクハラ。

財務省の一連の不祥事とセクハラや新潟県知事の女性問題による辞職報道を見ていて浮世の問題は男と女か? お金や立身出世が絡んだ、この三つで動いていることを実感させられます。 

人はいつも不足のものを捜して、その不足が満たされたら幸せになれると思い込んでいるようですが、全ては蜃気楼を見ている錯覚であり、何を手に入れても不足を捜している人達の心は満たされないのが道理です。 

では権力やお金や女性を求めている人達がその望むものを手に入れた時、何故満たされない不足を感じて更なる欲望に翻弄されるのか? 答えは動機が不純だから心は満たさないのです。 

権力を得て何をしたいのか? お金を得てどのようなことに使用したいのか? 女性の心と体のどちらを望んで我が物にしたいのか? どれも答えは二通りに分かれます。 

得た権力を振り回し私腹を肥やす人と、愛する人や弱者へ贈与をする人です。 

得たお金を自分に優しく他者へは厳しく使う人と、自分に厳しく他者に優しく使う人です。 

女性に対しては男性ホルモンの捌け口と見ている人と、その女性を幸せにしたいという願望を持ち・果たして自分にそれができるのか? という不安と葛藤を繰り返し、この人のためならできると覚悟を決めた人です。 

太字にした前者のタイプの人達は、目的は自分自身のエゴイスティックな欲望でしかなく、対象(相手)は己の欲望を満たす手段としてしか見ていない冷酷な人間か? そんな欲望の根源や対象への思惑など何も考えない幼児のまま大人になった人間か? 

このどちらかの人間だと思います。 

では何故そのような人間になったのか? 多分権力やお金や女性の体への利己的な快楽しか信じられないような育ち方や、人を信じない人間不信の人生を歩んできたからだと思います。 

私もエゴと不純の塊みたいな自己嫌悪と劣等感で二十歳くらいまで過ごしていましたが、短大卒業後東京に就職し孤独の中でただ生活する為にだけ働いていました。 

この孤立した状態の中で多くの人達から厚意や癒しを贈与して戴き、こんな私を認めてくれる人達から私自身の存在意義と生きる喜びを味わったのが東京の六年間でした。 

勿論数々のひどい目にも逢いましたが、両者を比較してどちらが毅然として生き、素晴らしいかを思い知らされ、妻と出会ってからは心の片隅に眠っていた優しい気持ちを自覚できました。 

人間は人間によって傷つけられていますが、その傷は人間によってしか癒されないという矛盾を抱えて生きています。 

私は栄光を手にして沢山の人達の羨望の的の人を見ると、その人の長短含めた全人格を心から受け入れ支えてくれる異性が存在するか? を心配してしまいます。 

人は弱いもので、そのような人がいるという確信や私のように過去にいたという確信だけで心の飢えは埋められています。 

親とは違う他人同士において、信頼を獲得するには育った文化・価値観・倫理観の違う人間同士のぶつかり合いがあります。 

お互いの全人格の戦いを繰り広げた果てに、相互理解に繋げてお互いが相手を必要とする感情と信頼確認に到ることは、人間としての無上の喜びで愛おしさに繋がっています。 

沢山の人に好かれるアイドルや多くの人を従える権力者になっても、身近のたったひとりの人に本当に愛されていると確認できない人の心は不安定で、その心の渇きは水をがぶ飲みするように、事件になるまで問題行動を無意識に起こし続けています。 社会は打算で動いていますが、家庭生活の日常は打算を越えた人間性で動いていて、咄嗟の時の言葉や行動や態度の中にお互いの愛情の深さと人間性などが明確に表出しているものです。 

一般に問題を起こす人は自分に優しく相手に厳しく、相手に求めても自分は与えないエゴイストだから、愛されない寂しさの悪循環に陥ってしまいます。 

セクハラやパワハラをする人達は、日頃弱者に優しいか? 強者におもねるか? 仕事は丁寧か? 雑か? を越えた心の飢えに起因していて、その飢えが男の脳幹に存在する性欲の暴発や、イジメで消化するという感情の制御を超えた暴発です。 

男の性欲コントロールの難しさは、この脳幹に存在する本能的性欲が種の保存を維持するために女性の二倍になっていることが原因で、動物のオスなどは殺し合いをするほどに強力な野性的本能なので、本能を抑制するには他者への配慮という人間らしい思いやりと制御する強い理性が必要になります。 

男女は性的にも家事や仕事でも根本的には異質なものが根源にありますので、相互理解を根気良く続ける努力が男女双方に必要なのですが、多くの人は相手に求める一方通行に考えがちです。 

私は穏やかな家庭に育っていなかったので、妻と結婚した時『ありふれた幸せを実感できる家庭』を目標に、果たしてどのようにすれば実現できるか? を日々手探りで模索していました。 

それは家族全員がそれぞれの人格を尊重し合い、それぞれが窮屈さを感じないでのびのびと生活できる家庭と思います。 

パワハラやセクハラをする人達は、きっと家庭でも同じように弱者に権力を振り回し、家庭内も不快にしている人達だと思いますので、家庭でも癒されることが少ない悪循環なのですが、その元凶が自分だと気が付けない人達です。 

妻の性格を考慮した私の悪だくみは、妻との感情的なぶつかり合いのピンチをチャンスと考えて、妻が怒った時ほど低姿勢にへりくだり優しく慇懃無礼に振る舞うことでした。 

この解決方法は妻への肩透かし効果と感情的な言動への内省効果を生み、次第に日頃の平静な日常に『あなたは本当に小生意気なひねくれ者だねー』と平然と言える状態を生み、暴発を防ぐガス抜き効果で妻がのびのびと過ごすようになりました。 

二十年程前に友人が井上陽水の全曲集を持って来たので聞いていたら、題名『手引きのようなもの』の歌詞の中に《逆らってはいけない、合わさってもいけない、高ぶってもいけない、冷め切ってもならない、どうか届けとつぶやき投げると良い、言いなりに、相棒のいつも泳ぐままに、疑ってはいけない、裏切ってもならない、ただひたすら優しくたぐり寄せると良い》と歌った後に《ああーなんだ、釣りをする時の手引きのつもりが、ああー、まるで君といる時の私ではないか! それなりに大きな答えが出た時は考えてはいけない、土台無理なことだ、全て忘れて獣になるだけ、全てを流して水になるしかない》を聞いた時、こんな考え方を念頭において釣り糸を投げ続けようと思いました。 

本当に愛する人のためなら思いや願いを素直な言葉で表現せずに、ひねくれた真逆の言葉で接していても、日常の行為に愛があるか? 無関心か? は伝わっていて、どちらの場合も相手が理解し受け取った時には同じ場所に立っています。 

最初は忍耐と寛容が伴う忌憚のない暖かい家庭を作り上げることを苦難と思うか? 喜びとするか? なども人間性です。 

歴史的な書物を読んでいて感じる『人間の本性に潜む残虐性』は確実に誰しも持っており、自分自身の中にも残虐な獣性が存在しているという恐れを持っていないと、傲慢な時や追い詰められた咄嗟の瞬間、この獣性が顔を出してパワハラやセクハラの過ちを犯してしまいます。 

昔若者が『なぜ人を殺してはいけない』と大人に詰め寄ったことがありましたが、この若者は大人のたじろぎを楽しむただの愉快犯で、哲学的な疑問ではなかったと思います。 

人間の心の奥底には様々な獣性が潜み眠っていて、その心の奥底には状況によって人を殺す獣性も人間が持っているから、わざわざ法律で禁止して罰を設けているのだと思います。 

法治国家で規制されていること全ては、人間の心の中に確実に存在している獣性(業)なのだと思います。 

封建制の時にはパワハラなど存在せず家臣を打ち首にしており、男尊女卑が長く続いた時代から男女平等の時代になっても、男の潜在意識の中に男尊女卑の意識が残っているから今でも『誰が食わしやってる』という言葉を吐く男が多くおりますが、こんな男は結婚しないで一人で暮らせばよいのです。 

やっと性的な意味でも女性を尊重した、真の男女平等を築こうとしている過渡期なのだと思いますが、知事の援助交際などは買う人間がいても売る女性がいなければ成立しないはずなのに、特別に生活に困窮していないはずの名門女子大生がお金を得て性的欲望も満たしていたのも事実です。 

男の女性への憧れの根にあるものは適度のマザコン体質で、言葉や暴力的なセクハラ行為に及ぶ人達の根には、実母からの愛情に確信が持てなかった飢えによる、強いマザコン体質が根にあるのではないか? と私は思っています。 

豊かになった現代社会でも、人間の持つ様々な獣性が表出する理由は、精神的・経済的に置かれた状況と、どのように育ったのか? という二つが関与していて、一流大学を出たという教育の力を超えたところにあることを忘れています。 

学力より親や親以外でも本当に愛されたという実感を持てた人は、そこから人を愛することは贈与するこということを学んでいるので、対象を思いやる理性が働き決してパワハラやセクハラはしないと思っています。 

昔のブログに『結婚とは』に書いたように、男も女もお互いに不完全な者同士が補完し合う相互扶助が結婚ですから、私はお互いに相手の欠点を責めるのではなく、その欠点を見抜けずに選んだ自分の責任を背負って行こう! と妻に囁き続けました。 

妻が納得してからは、妻の欠点や不甲斐なさも、私を選んだあなたの責任よ! と堂々と私に言うようになりましたが、むしろそれからの方が何事においても頑張っていました。 

人は自らの意志で決断したことでないと不愉快で頑張れず、逆に自らの意志で行うことには誇りが生まれて、その誇りある行為の積み重ねの生活の中で、対象相手への愛情と責任感として育まれて行くのだと思います。 

パワハラもセクハラも人間の獣性として本質的に持っているものであり、法律と言う規制や罰や社会的制裁を受けた生贄を多く見せられ、その恐れを自覚する人達の増加によって広がり、新しい常識になった時に真の男女平等が訪れますが、その常識普及によって減少しても、決して無くならないと思うのは、自分の心の中にある獣性(業)に気が付かない人が多いからです。 

豊かさに慣れた先進国の数々の問題は、家庭と社会の中に人間を成熟させる機能が失われていることが大きな原因で、拝金主義と自分だけは楽をして良い思いをしたいという傾向が蔓延し過ぎた結果です。 

私がひとり身になってからは、買物をして食事を作り掃除や洗濯に身だしなみと、販売する商品を揃え店頭に立つまで、全てが面倒臭いことですが、これら全てが生きることなのです。 

この生活の基本が崩れ出したら、仕事の中身と共に人間としての誇りも一緒に崩れると恐れ頑張るのは、成熟するということは自立することから始まっていると思うからです。 

最近の人達は人物を学歴や肩書きや収入で見ている傾向が強く、強者に迎合したり忖度したりして損得勘定で卑屈になるから舐められ、パワハラやセクハラへの隙を与えている部分も一面としてあり、その脇の甘さも内省し毅然とした態度も必要です。 

学歴や肩書きや収入の損得勘定ではなく、人物そのものを見て判断するという見識が失われた社会が現在で、成り上がり日本人の豊かさの弊害による膿が出ている過渡期です。 

夫婦や家族では学歴も肩書きも通用せず、無意識ですが人物本位の評価という見識で判断している人間関係で、ただ支え求め合うという対等な関係なので、より人間性が明確に表出します。 

性欲は男だけでなく女性にもあり、その性欲が精神的に愛する対象として求めているものか? 動物のような本能的な性欲だけで求めているものなのか? の違いが重要で、愛情より本能優先がセクハラで、年配女性の若い青年へのセクハラ行為などもあり、夫の単身赴任が多い近年は母親による息子へのセクハラ行為で不能になった青年も精神科に多く通っています。 

陽水が歌った『全て忘れて獣になるだけ、全てを流して水になるしかない』の獣は情交を指していますが、愛情が基盤にある情交で水のようにひとつになる愛の行為ことで、お互いの愛情を肌で確認し求め合うことで、協同で未来を乗り越えて行く絆を深める行為を歌っていると思っています。 

私は四十五年前の結婚式終了後に、控え室に戻る時に涙が溢れ出て止まらなくなりました。 

その時に気付いた妻が『どうしたの?』と聞くので、正直に『これからずーっとあなたと一緒にいられると思ったら、嬉しくて涙が出て止まらない』と言いました。 

その夜妻に『可愛いね』と言われた後、二人はただの雄と雌の獣になったことを今も鮮明に想い出します。

普段は理性的に暮らし、愛情を確認し合う時はむき出しの獣になるのですが、セクハラ行為をする人達はこれとは真逆の日常で、きっと真の愛情とは無縁の迷路を彷徨っていて、力が正義と信じた刹那的な欲求不満の解消でしか自己確認ができない可愛そうな人達なのだと思います。 

しかしそんな人間達に迎合や忖度する人が多いのも事実で、イジメのように弱者を異物のように排除するのも、島国特有の日本の社会の風土が根源にあります。 

人間を良い方向に変化させるものは他者から『強い信頼を寄せられること』で、その信頼に応えようとする時『心の飢え』は自然に消え、心は前向きに強くなっているものです。 

お金や権力を持っていても、心から自分を信頼するかけがえのない人に恵まれない人達は、この『心の飢え』という孤立感に苛まれ、よりエスカレートしてしまいます。 

そんな人達は弱者という獲物を見つけると、本能に備わった傲慢な獣性が持つ狡猾さと、損得勘定という理性だけが働いて、パワハラ・セクハラ行為が突如顔を出します。 

幼児への犯罪行為なども孤立と心の飢えが根っこにあり、それに貧困が更に加わると人間の獣性は倍加します。 

ひとりの異性から信頼されるということは、男も女も全人格を賭けた日常の積み重ねで、収入や地位とは無関係の人間性そのものが反映した結果です。 

家族や組織の健全な躍動は、性別や文化(民族)や価値観が違う異質なものを認め受け入れるという前提条件が必要で、その異質なものを触媒として化学反応を起こすには、最初に異質なものへの敬意がなければ良い化学反応は起こらないのです。 

結婚してから私とは正反対の妻の性格に、衝撃に近い刺激を受け続けましたが、その衝撃と刺激の触媒による化学反応として、私は『亭主の鑑、主婦の友』になろうと決心させられました。

その衝撃と刺激とは、妻は普通の人から見ると面白味のない目立たないタイプの人でしたが、その代わり私のような異邦人をあるがままに受け入れてくれ、干渉や影響力を行使しようとせず笑いながら『好きにしていいんだよ』と、異邦人のままでいることを認め許してくれる人だったことです。

人を非難したり干渉したりするほどに自分自身に自信がない妻にとっては自然なことなのですが、そんなあるがままを受け入れる性格の人に救われた積み重ねの確認が、私自身を見つめさせ変容させる化学変化に繋がっていたと再認識させられます。

人が変わる時に『構えないで、あるがままの自分をあるがままの姿で向き合ってくれる人』に出会うことの利点は、干渉や抑圧が伴わない触媒効果による化学変化なので、新しい自分を自らの意志で創り出すことに繋がることです。

ひねくれている私は自営業でいつも店にいるので『女房留守でも元気が良い』と言って、妻を水泳や卓球に出歩くように勧めておいて、『あなたは放し飼いの野良犬で、私はあなたの忠犬と番犬です』と嘘ぶくと、妻はいつも半分照れながら投げやりに『それでは忠犬のお父さんは頑張れー』と励ましていました。 

飼い主を失った忠犬ハチ公が、その後も変わらず駅に迎えに行ったように、私も大好きな飼い主に先立たれた今も、ハチ公を見習い妻が今もこの家にいると思い込み、いつも家で妻の写真に話しかけ会話しながら過ごしています。

朝は『お母さん行って来ます』と店頭に立ち、夜は『ただいま』と帰宅し、寝る時に『おやすみ』の挨拶と共に今日一日の出来事を報告する毎日で、ハチ公のように想い出の中を彷徨いながら老いぼれて行こうと思っています。