ジャーナリズムの起源と商業化の弊害。

私は再三新聞やマスコミを批判しておりますが、ジャーナリズムの中に商業化広告が入り込み肥大し、そのことが様々な悪弊を呼び込み現在の多くの問題を引き起こしていると思っています。 

そんなことを考えていて、果たしてジャーナリズムの起源はいつ頃なのか? などの興味から様々な書籍を読みフランスの新聞の例が一番判り易いので概略から説明します。

フランスにおける新聞とは、十九世紀の政党の宣伝的な機関紙として始まった高額なものでしたが、次第に広告を採用して低価格にしてから購読者が増加して行き、その後本格的な営利を目的にした新聞に変質して行きました。 

新聞に本格的に商業主義を持ち込んだのは、十九世紀ナポレオン三世の頃のエミール・ド・ジダルダンという人で、現代の新聞の原型を作り上げジャーナリズムとして機能し始めました。 

私生児(伯爵の不義の子)の彼が低価格で新聞プレスを発行するまでは、新聞は高額でほぼ政治に直結したものでしたので一般人には全く無縁のものでした。 

私生児から成り上がった彼には私生児の目線が幸いしていて、貧しい者にも買えるようにするために、当時としては考えられない商業広告を載せ、新聞の値段を半額の価格にして発行部数を伸ばし、発行部数を伸ばすと広告料を高額にできるので、購読料を安くするという善循環で販売部数を伸ばし、ファッションやゴシップやスポーツなども記事にして、民衆の好奇心や欲望を刺激し更に販売部数を拡大させました。 

新聞にバルザックの連載小説を載せたのも彼が最初で、以後現在に至る新聞社の原型になるほとんどは彼が最初に行っており、当時他の新聞社が十二時間労働の時に、彼は社員の八時間労働と昇給と年金に近い形のものも実現しており、自社新聞の印刷所も初めて建設したなど、その当時に百年後の今の形の新聞の原型を実践した異能の人だと思います。 

歴史のターニングポイントに『もし』を挿入して、もしジャーナリズムに商業主義を持ち込んだジラルダンが生まれていなければと考えると、現在のジャーナリズムは相当に違ったものになっていたか? 相当遅れていたのではないか? と思います。 

交流のあったバルザックが晩年ジャーナリズムへの問いに答えていますが、『もしジャーナリズムが存在していないなら、間違ってもこれを発明してはならない』と言っています。 

その意味は新聞が商業広告と結び付いてから、巨大な権力装置に変貌してしまったからで、バルザック自身がジダルダンの新聞小説で有名になり名声も手に入れた立場を忘れて、商業化と結び付いた新聞という権力装置の強力さを皮肉っています。 

現代でもフランスのジャーナリズムは商業広告と結び付きながらも政治色は強く、フィガロは保守・スタンは社会党・ユマニテは共産党・ルモンドは中立と色分けされており、日本の新聞社より明確な政治色が残っております。 

人間は現在の自分の世界を常識として錯覚しており、もしジャーナリズムが存在しなかったら? という現実を認めようとしませんが、現在の中国にジャーナリズムは存在せず、ソ連の共産主義社会にはゴルバチョフが登場するまで、プロパガンダは有ってもジャーナリズムは存在していなかったのです。 

ゴルバチョフはソ連で情報公開を進め、結果としてジャーナリズムを発明した為に失脚したのですが、プーチンは情報を遮断しプロパガンダの方に舵を切ったので長期政権維持を継続していると私は思っています。 

バルザック的に言うと、ジャーナリズムとコマーシャルの組み合わせは禁断の果実で競争原理が働く社会においてはジャーナリズムとコマーシャルが巨大な権力装置に変貌することは必然で、その見えざる権力装置が隠された糸で弱者を操り搾取しているから今の格差に繋がっており、この連鎖を止めない限り弱者はより弱者に追いつめられる結果になります。 

中国やソ連でも商業広告があると言っても、本当のコマーシャルは資本主義社会の企業とセットで存在しているだけです。 

三島由紀夫が『小説家の休暇』で映画について『映画を作る楽しみとは、最大公約数の民衆の趣味に迎合し、民衆自身が全く意識していないひそかな欲望と、作者が明瞭に意識した欲望とを繋ぐ一本の隠された糸を張って、そこに意地の悪い連帯感を見出そうとする楽しみなのであろうか?』と言った言葉が、そのまま現代のジャーナリズムの姿に当てはまる気がします。 

最近のコマーシャルを見ていて思うのは、このコマーシャル作成企画会議の様子を想像すると、企画会議とは悪知恵を出し合う会議であって、一本の隠された糸でどのように民衆のひそかな欲望を吊り上げるか? という悪知恵の出し合いを企画会議と言っているように私は思っています。 

ジラルダンは私生児の視線から、自分が持っている欲望は、同じように他者も持っているに違いないという想像力から、新聞の低価格化や記事のバラエティ化を進めたのですが、それまで主義主張を伝える手段の新聞を、彼は単なる商品の媒体としてみていたので、後に簡単に自分の会社を売却しています。 

新聞は商品なので広告料をとれば安く出来る、安くすれば購読者が増え、購読者が増えると広告料を高くできるというミラクルサイクルを作り上げた最初の稀有な存在だったと思います。 

今の電通が巨大になったのはテレビの出現が最大の要素で、テレビ広告が民衆洗脳装置の役目を果たすことに着目し、最初にテレビ広告に参入したから漁夫の利を得られただけで、もしテレビが発明されてなかったら電通の巨大化はなかったと思います。 電通が雑誌や新聞の広告欄の営業活動の時代は単なる広告屋でしたが、テレビができてからはイメージで消費者を洗脳して物を売る手法が高度成長という所得倍増と合致し、企業も利益を税金として払うより広告宣伝費としてコマーシャルをして、販売増と企業イメージを上げた方が得策と電通に誘惑され乗ったのです。 

そして紙媒体の広告と違い、テレビは映像化されていますので芸能人を起用しますが、これが金額の不明朗化を生んで加速し高額化したので、テレビ広告に最初に参入した電通が一挙に巨大企業化した一番の理由だったと思います。 

コマーシャルには極限まで研ぎ澄まされたレトリックが短い時間の中に凝縮されていますので、見ている人間に現実とフィクションを混同させる映像特有の効果もあり、特にリテラシー(理解・解釈・分析)が未熟な人には悪魔のささやきのような錯覚を起こさせる効果が絶大でした。 

そしてこのコマーシャルこそが資本主義の本質で、最近はパソコンとスマホの普及で広告がテレビからネットへ移動した為に、フェイスブックとグーグルの広告収入は巨額になり、両社の現在の広告関連売上げは四兆円以上にもなっています。 

新聞という媒体に商業主義を持ち込んだジダルダンですが、映画の発明からテレビの時代になり、ビデオやゲームの時代になった現代の商業化の波は多岐にわたり、この映像による現実とフィクションを混同させる現象の弊害が深く潜行し、様々な事件や社会問題を引き起こしております。 

恋愛で傷つくより、映像による擬似恋愛のほうが良いというオタクの増加は未婚者の増加に繋がって少子化になり、自殺した人達の統計調査によるとビデオやスマホやパソコンなどの映像画面を見ている時間が他の人達の二倍近くだっり、未成年者や若者の行方不明者三万人以上はスマホ普及の影響など、他にも研究すれば映像洗脳化現象や錯覚現象の弊害は沢山ありそうです。 

しかし人間はどんなものでも一度手に入れたものは手放せない動物ですので、対処法は啓蒙を伴う教育以外にありません。 

エミール・ド・ジラルダンが商業広告を新聞プレスに取り入れ成功してから、ジャーナリズムとコマーシャルは表裏一体の共生関係になり、その共生関係は相互利益を生みますので、次第に強大な権力装置へと変貌して行き、共産主義というプロパガンダの前近代的社会をも崩壊させる力になったのも事実です。 

果たして中国やロシアにコマーシャルと共生関係の真のジャーナリズムが生まれ変貌するのか? は不明ですが、もし実現したら現権力者は間違いなく失脚です。 

共産主義のソ連や東ドイツが崩壊した真の理由は、ジャーナリズムが独裁者から権力を奪ったのではなく、本当は西側のコマーシャルという研ぎ澄まされたレトリックを見て、東側民衆が西側を楽園と錯覚したからで、西ドイツのテレビコマーシャルという悪魔の囁き効果が楽園を想像させ、楽園への誘惑が原動力でベルリンの壁を壊し共産主義を崩壊させたのです。 

しかしこの商業化した権力装置は、近代社会の中でマスコミという形で肥大化しており、記事に見せかけたコマーシャルや健康不安を煽って健康食品を売りつけるなどで消費者を欺き続けて相互利益を得ています。 

現在の新聞社の収入は購読料と広告料半々で、テレビ局はほぼコマーシャル収入ですので、どちらも大企業スポンサーへの忖度なしでは経営できない状況になっています。 

週刊誌は醜聞好きの国民への実質販売で、広告依存度が他のマスコミより低いので、最近は広告主や権力との癒着が少ない週刊誌の方がスクープ記事を増やしているのが実情です。 

このようなお金という商業企業や権力とマスコミが陰に陽に結び付いた社会になると、幼児期から多面的・俯瞰的に物事を捉える訓練のメディアリテラシーを教育課程の中に必須にしないから、スマホ片手に家出をする子供達が三万人以上になり、自殺志願者を呼び出し殺害などの事件が起こるのだと思います。 

ジダルダンが考案した商業化したジャーナリズムが、広告料というお金と報道の結びつきを一層強めてしまった現代は、市民を自在に誘導するサブリミナル効果で権力装置として機能し、作為的に人を動かすその誘導効果には、プロパガンダに似た効果が内包されていると思います。 

先進国の多くの問題は、民主主義とセットの資本主義だけが肥大化し過ぎた弊害で起こっており、癒着や忖度から差別や格差が拡大するなどの多くの問題に繋がり、そのお金とセットの権力に抑圧された下層民の不平・不満がテロや世界各地の地域戦争の増加にも繋がっています。 

しかしジダルダンは新聞王と言われるほどの富裕層になってから社内年金制度にみられるように、フランス国民全てを豊かにする理想と方策を持ち政治的手腕を発揮する機会を心底望んでおりましたが、いつも外的要因が起こり今一歩のところで実現せずに最後を迎えてしまいました。

科学技術の進歩がいずれ新聞を駆逐しても、ジャーナリズムは形を変えて生き残るのですが、その時はどのような形の商業主義や権力と結びつくのか? 人間という狡猾な動物の悪知恵は無限のようですが、ただ戦争や自爆に繋がる前に資本主義の肥大化を抑制・制御する新しい思想を待望しています。