必要悪。

リニアー新幹線工事における談合問題の推移を見ていて、良い意味の談合から悪徳な談合へ変質していることが大手ゼネコンの対応から垣間見え、最初は企業と社会を相互に上手く機能させる知恵として考えた必要悪の談合が、正義を振りかざされ談合イコールを悪と決めつけられ地下に潜ってしまってから、どこの企業も己の利益追求と抜け駆けに走り、明るみにでると責任転嫁するような体質が深く潜行して横行し始めているようです。 

社会の潤滑油としての必要悪を認めないと、社会的にもっと大きな被害の災いが突然訪れるのですが、昔鉄骨の構造計算違反の耐震偽装をしたアネハ事件があり、コストを下げるために見えない鉄骨部分を偽装計算し、見た目は同じでも建築強度が低いという論外のことも行われ、大地震などが起こらないと判明しない、住んでいる人達にとっては恐ろしいことが行われました。 

最近の大企業の不祥事問題も根は同じで、利益のためにコストを下げる違反行為が業界の常識として平然と行われています。 談合イコール悪の構図スクープでマスコミは正義を振りかざし、スクープで販売部数を増やす目的だけではなく、談合の益と害も含めた報道姿勢を持たないと、太平洋戦争突入前と同じ過ちを新聞報道が犯すことになるように感じています。 

人間は困って生き延びるために、体でも魂でも何を売っても良いと私は思っていますが、正義だけは売り物にしてはならないと思うのは、正義は人を汚すと聖書にも書いていることが本当に正しいと思い、多くの他者を傷つけるのが正義と思うからです。 

自分達のことは棚に上げて、この正義を振り回し穢れているのが日本のマスコミの現状で、大地震や戦争のようなある日突然大きな不幸として表面化した時、過去の記事は忘れたふりをして、また次の正義を振り回し続けてきたのが実態です。 

必要悪には建前だけでは機能不全に陥る人間社会の本音の部分を和らげる潤滑油としての役目もあり、その社会にどっぷり浸かって熟知した人間にしか理解できない利害調整のために必要なもので、決して正義などでは解決できない社会矛盾を調整するための人間の叡智なのです。 

例として、十五年ほど前に北海道が発注した江別の立派なある施設は、談合問題で大揺れの時でしたので完全な競争入札で行われて、一番低価格の業者が落札受注しました。 

完成後にお茶の注文があり、断ったのですが官庁の人にしては立派な女性課長でしたので取引を了承し時々納品に行きました。 鉄筋コンクリート二階建ての大きな立派な建物でしたが、一年もしないで雨漏れが到る所で起こり、何処からなのか? 原因が判明しないと聞きましたが、これなどもまず受注ありき! から起こった見えない部分の手抜き工事が原因で、結局総合的にコストが高くついた好例です。 

損をした商売をしていると企業は社会的に存在できず、企業としての道義的責任も果たさなければいけない狭間で、同業者同士の存続と企業の社会的・道義的責任を両立させるために考え出されたのが談合で、古書のオークション入札業者などにも暗黙の談合があり、企業の存続と社会的・道義的責任の狭間で葛藤を繰り返して、倫理的ルールの抜け道を、手間と時間をかけ考え編み出した人間の知恵です。 

談合はお互いの良心に訴えるような牽制も同時に行われるので、ある一定の節度を持って行われていましたが、談合が悪になり闇に潜ってから、節度そのものが失われ始め、その節度のなさが業界の常識になってしまったから大企業の不祥事が続くのです。 一度箍(たが)が外れたら、事件・事故に繋がり発覚するまで歯止めが効かないのは、誰でも人間は悪への罪悪感に少しずつ慣れ麻痺するので、事故・事件に到るまで覚醒しないのです。 

白黒や正邪の報道では国民の思考を深く啓蒙できないので、西欧では多様な解釈ができる風刺画やブラックユーモアーで国民を考えさせ鍛えているのだと私は思っています。 

社会に存在する必要悪は沢山あり、牛や豚などの屠殺などは人間への食料自給のためですが、動物虐待の罪にはならない矛盾は人間の食料調達を優先した必要な悪だからです。 

アメリカでは千九百二十年から十三年間禁酒法で、酒の製造・販売・輸送が禁止されましたが、皮肉なことにお酒の飲まれた量は十%・飲酒運転は五倍近く増加したそうです。 

暴力と強盗専門だったマフィアが違法アルコールを地下で製造し、アル・カポネなどマフィアが何百万ドルも儲ける資金源になって逆に巨大化しました。 

禁酒法を解除してからアルコール依存症の人も減少し、逆に社会秩序が維持されるようになりましたが、これなどは必要悪が人間社会に欠かせない典型例です。 

農作物製造時の農薬や薬も毒ですが使い方と量次第で益なので、食品添加物もほぼ同じ理由で、総合的に見てプラス面を多として必要悪として認めた結果です。 

自動車なども交通事故による死者より、利便性と物流のためなどを優先した必要悪で、その必要悪を認めたことから出発し、その弊害の交通事故減少のための安全性の向上に繋げて進化し続けています。 

人間の持つ根源的な欲望である食欲と性欲の調整や、一度手に入れたものは手放せない所有欲などを正義などで抑圧すると、暴発しより甚大な被害に至ることから学んだ必要悪の制度は他にも沢山存在しております。 

競馬やパチンコや宝くじなどのギャンブルも禁止すると、地下に潜って公営で行うより悲惨な家庭崩壊や暴力や殺人事件に発展するからで、ギャンブル行為も山登りやスポーツなどと同じ暇つぶしのストレス解消法としては同列で、それを健全・不健全と分類する基準も時代によって違い、その価値もその時代の収入に繋がるか? どうか? で決めているだけです。 

人間の持つ趣味や趣向や所有欲と支配欲の強弱など様々に沸き起こる根源的な欲望を緩和し、調整する働きとして必要悪は人間社会には不可欠なものです。 

抑制できない人間の欲望が存在するから、花札やさいころ賭博なども昔からあり、現代もラスベガスのような公認賭博場で金欲のゲームが続いております。 

私もマカオで初めてスロットルをした時、物凄い勢いで当たりコインが大量に出てきた時に味わった快感は別物で、楽をして一攫千金を夢見る前の抑えきれない衝動感覚は鮮明に蘇ります。 

その後負けて止めたのは、若い時の競馬の経験から初めから金額を決め、予定のお金が尽きたら終わりと決めていたからです。 それでも後ろ髪を引かれる思いがあり、これほどに子供から大人になっても遊びというゲームの誘惑に弱いからゲーム機器も存在し続け、これにお金という欲が付随するゲームになり負けが込んだり大勝したりすると、アリ地獄へ落ちて行きます。 

最近の危険な誘惑はスマホで、知ったつもりになれる検索だけでなく、ゲームに興じている人達も沢山います。 

昔は遊郭でその後は赤線があり、今は風俗として存在している性風俗産業は、男と女が持つ獣性のガス抜きみたいなもので、禁止し押さえつけたら強姦事件は何倍増になるか? 想像しただけで恐ろしくなります。 

赤線廃止後に梅毒・淋病などの性病が蔓延したのも、禁止して抑圧された反動で地下に潜った結果です。 

人間が動物で最強になったのは、欲望と狡猾さが抜きん出ていたからです。 

権利を平等にすると、義務を怠けて権利を受益するものが増えたから共産主義は崩壊しました。 

逆に市場経済は人間の狡猾さを踏まえ、競争原理を必要悪として登場したのですが、際限のない欲望は一%の人間が富の半分を持つ搾取社会になってしまいましたが、これも人間の精神に宿る害と益をハカリにかけ、必要悪として認めた結果の制度です。 

どのような選択を試みても悪知恵を働かせる人間特有の狡猾さと、人間の根源的な業をハカリにかけて必要悪を認めないと、より多くの弱者が犠牲になる結果を招くので哲学が必要です。 

このような人間社会に正義などを持ち込むと社会が上手く機能しなくなるので、知恵としてあらゆる組織において最善の必要悪を考案してきたのですが、時間が経過すると相互より個人の利益に走る悪知恵を考案する者が出て変形するのも、人間の果てしない欲望の結果です。 

新聞とテレビは系列で繋がっているのでお互いを批判せず、新聞の購読料値上げも横並びの談合ですが、しかし自分のことを棚に上げて報道する機関がなくなると、新聞以外には監視されない地方議会などが条例で議員の給料を何倍にしていたというアメリカの州の矛盾もあり、果てしないエゴへの欲望の戦いを繰り広げる、懲りない動物が人間という傲慢な生き物です。 

談合仲間における暗黙のルールは、各自の倫理観に依存して成り立っているのですが、つまらぬ正義はこの暗黙のルールと一緒に、談合本来の健全な相互利益という目的も破壊しています。 相互という他者を顧みないエゴの肥大が孤立した人を増加させ、行き場を失った怒りがテロを誘発しています。

暴力という力が正義の封建時代には、祭りの期間だけは日頃の抑圧のガス抜きとして無礼講にしたのも、権力者の知恵でした。 資本主義普及と共に、お金という力が正義の時代になり、国家間においても搾取と抑圧が行われ、差別に近い区別をされている側にも搾取側の豊かさの情報が手に入る状況になった今、緩和策のガス抜きが存在しないと一瞬触発の緊張状態が続き、自暴自棄になった人が増えるからテロは止まらず増え続けると思います。 

どのような組織やどのような社会にも、平等はありえず存在するのが人間社会なので、摩擦を緩和するための必要悪が潤滑油として必須なのです。 

そこにつまらぬ正義が入り込むと、戦争のような悲惨なことが正義という名目で行われています。 

私の中にも在る邪悪さの自覚に伴う自己嫌悪の経験から、自我に目覚めた三歳の孫が時折みせる自分の邪悪さに戸惑っている様子を温かく見守っている時、人間が併せ持つ内省という高尚な部分に触れているようで感動させられホッとします。