人たらし。

新年明けましておめでとうございます。

昨年の年越しから連続三日間娘達の家で夕食を御馳走になり孫に遊んでもらい、妻を亡くしてから初めて三日間も夕食を作らずに過ごし何か不思議な感覚の三日間でした。 

今年で不安の連続だった自営業も行商二年・プレブ店舗十年・今の店舗が三十二年経過し、今年は通算して四十三年目に入ることができますが、この間には何度も倒産の危機がありました。 

その危機をなんとか凌いでこられた陰に多くの年長者の助けに恵まれた幸運がありましたが、一番に上げる人は借財が完済する頃まで三十年以上、週三日は私の店に顔を出し『商売はどうだい』と言って私の様子を聞き、商い・金融・親族・夫婦など公私にわたりアドバイスを頂いた方です。

この方はシベリア抑留から帰国後に書店業を営み、復員後は父代わりになって弟妹三人を高校・大学を卒業させ、書店業も多店舗化して高度成長の真っ只中を突っ走った人でした。 

この人の助言がなければ私の今の店舗もなく、あっても倒産をしていたと思います。 

当時売り上げの二倍以上の借財を銀行に申し込み支店長に断られた時、『高野さん、女房を口説いたように諦めるな』と言われ、『なるほど』と思い口説き続けると、根負けした支店長代理が紹介してくれたのが、後に問題になり消滅したノンバンクでした。 

その後も負債過多で三度の黒字倒産の危機時も、この方は会社に行かず私の決算書を見てアドバイスをしてくれ、不動産の活用術も指南してくれたりしたので、『何故、私にこんなに力になってくれるのですか』と聞いた時、俺は高野さんの窮地に金も貸してないし・保証人にもなっていない、あんたを見ていると楽しく惚れさせるものがある、『あんたは人たらしだ』と言われました。 

だから銀行の三人の支店長もあんたに惚れて不正融資をしてまで助けたのだと言い、人間は金銭的信用よりも人間的信用を持っていないと危機を突破できない、多くの人の協力を得られるから今のままの商売を続けろ! と言った後に『あんたに近づいたのは、俺の会社に入れ、俺の右腕にするつもりだった』と白状し、今は諦めたと言って帰った後姿は忘れられません。 

長年の糖尿病との闘いで三年程の入院生活で亡くなりましたが、見舞いに行った最後に『俺は家に帰れずに死ぬ。高野さんが商売を大きくするより、奥さんや子供を優先したのは正しかった。俺の負けだ』と言ったことも、三十三年間の二人だけが理解できるせめぎ合いの中に深い意味が詰まっていました。 

私は妻が言っていた通り意固地で小生意気でひねくれている、小賢しい悪知恵の働く才だけがとり得の嫌な人間と思っていたので、このような人に見守り育てて戴いくことがなかったら、私達家族の人生は違ったものになっていたとも思っています。 

この方が何かにつけて私の事を『人たらし』と言うので振り返ってみると、二十歳で家を出るまで自信の持てない自分が、多くの人達の厚意を受けて歩んできた私の幸運も想い出します。 

短大卒業後父の支配から逃れるために東京に就職した時、早稲田大学の応援団卒業の先輩が、北海道の山猿が寂しいだろうと言って可愛がってくれ、銀座のクラブに時々連れて行かれ、酔っ払い運転で田無の寮まで送ってくれたり、料亭での食事や芸者の座布団遊びなどにも連れて行かれたりしましたが、その頃世間を何も知らない私は『こんな遊びの何が楽しいのですか?』と聞きながらも、寂しさを紛らわすために好意に甘えておりました。 

この人はパンチパーマに背広は会社に仕立屋を呼んで作り、昼食は私の知らない美味しいものを食べに連れて行ってくれましたが、ある日突然左遷でいなくなりました。 

上司に??さんはどうしたのですか? と聞くと会社の金を1千万(今なら一億)近く使い込んだが弁済したので、トヨタレンタカーに左遷され婿に入った実家が練馬の地主だったのが幸運だったと、上司や会社の人達が羨んでいました。 

銀座も料亭も一緒に行った私は良心が痛み場所を聞き、自由が丘の会社を尋ねお詫びに行きました。 

洗車をしている人に??さんはおりますか? と聞くと、所長は中にいますと言うので戸を開けると、机の上に足を上げて『おお、高野よく来たな』と言い、美味しいピザをご馳走してやると連れていかれ、私が謝っても実家の土地を売ればいいと頓着せず、ご馳走してくれたピザを初めて食べ、世の中にこんな美味しいものが有るのか? と思うほど感激したことは今も鮮明に想い出します。 

その後大人になり世の中を知ってから、銀座で見た芸能人や料亭遊びの芸者が大会社の妾などだった事実などを納得できた時、大変な経験をしたものと初めて驚きました。 

この方は必殺仕事人の中村主水みたいな人で、銀座の女性や芸者にお金を使っても決して性的な目当てはなく、奥さんと姑には忠実な本当に面白い人で、『俺は選ばれた男』しか行けない所で遊んでいるという自己顕示欲のみを満喫している人でした。

私の配属された営業所は日活撮影所が近くにある調布で、中古車販売が主なので映画撮影で使う車の注文もあり、芸能人なども紹介され知り合いになり、当時絶頂の鶴岡正義さんに呼ばれ夜のヒットスタジオの収録も見に行きました。 

六年間の東京生活は高度成長の始まり時で、世の中全てが活気に満ち誰もが不安など微塵も持たず、植木ひとしの『そのうち、なんとかなるだろう』と考えられた前途洋々の時代だったのです。 

現在のような出来上がった堅苦しい社会ではなく、誰もが何者にでもなれると錯覚していた日本の歴史上かってなく、これからもありえない自由で伸び伸びしていた雰囲気でしたが、三島由紀夫が割腹自殺した市ヶ谷駐屯地も営業で行ったばかりの時でしたので、ニュースで知った時は本当に驚きました。 

その後歳を重ね社会を知り、本を読み時代を知るうちに、この頃の日本人の浮き足立ったものを三島由紀夫が憂いたことが判り、何も知らずに渦中を過ごした私には納得できるような気がしました。 東京生活の六年間は田園調布のお客様や、沖縄からの中卒集団就職のお客様など、貧富の差も目の当たり見てきましたので、社会と人間の縮図を怒涛のように見てきたような思いです。 

書店経営の方に『人たらし』と言われて気が付いた私の才は、振り替えると沢山ありキリがないので止めますが、営業成績が良かったのもきっと私のこの才能だったと思い至ります。 

この才能は私が親の家を出るまで内向的で屈折した表ウラのある嫌らしい悪智恵を隠し持ち、表面的には決して出さなかったことが育てたような気がしますが、反面信義の部分は寝たきりのお爺ちゃんの世話をしていた中で、家族の誰にも内緒でお爺ちゃんが私への返礼として精一杯の厚意で報いてくれたことが、私の中に人間だけが持つ信義を育ててくれ、この信義が人たらしには一番重要です。 

一番印象に残っているのは、私が父に叩かれ蹴られている時に、動けないお爺ちゃんが鬼のような形相で、親として父に『やめろ』と怒鳴って私を守ろうとしていた光景です。 

そのお爺ちゃんの様子を見た時、痛さを忘れて嬉しかったことが今も鮮明に心に残っております。 

やり手だったお爺ちゃんに甘え媚びていた父が、病気で動けなくなったお爺ちゃんに『爺さんは黙ってろ!』と悪態をついている姿に、私も含め人間が持つ嫌なものを思い知らされ、動物と人間社会では『力が正義』なのだと斜め下から見るようになりました。

妻が言う私の小生意気でひねくれている部分が、書店経営の方にはあんたの魅力だと言われ、なぜですか? と聞くと『普通の人間が媚びる所であんたは逆らう、そして隠すところを平然と見せる』と言われ『人間は癖と才能で全てを説明できる。良いものも悪いものも癖や才能だが、それは咄嗟の時には全て出る』、辛苦を舐めた苦労人は、その咄嗟の様子を見逃さずに見ていて、私はシベリアで嫌というほど見てきたと色々と話してくれました。

極限状態で無意識に咄嗟に現れる人間の本性とは実に嫌なもので、特にインテリは信用できないのが多く、職人あがりは立派だったには私も納得でした。 

私も大田区蒲田の旋盤職人の方達と接し、精密な仕事ぶりを見て話し感じたのですが、職人として非凡な仕事をする人は、人間としても非凡な人ばかりでした。 

あんたは物売りのくせに客に媚びず、金の力で強者の振舞いの客に食ってかかるのはいい癖で、子供や老人の弱者に優しくするのはいい意味の才能だと褒められたのですが、この原点になったものが、動けない体なのに鬼の形相で私を守ろうとしてくれたお爺ちゃんの顔で、私の癖や才能として沁み込んだようです。 

お爺ちゃんは腎臓病でお腹に穴を開け、チューブを入れて瓶にオシッコが垂れ流しでしたので、部屋は排泄臭なので誰もが嫌がっていましたが、新聞を読んであげたり相撲中継がある時は父に許可をとりテレビを運び見せたりしていましたが、私はただ喜ぶ顔が見たくてやっていました。 

ちなみに四人兄弟で、私だけがお爺ちゃん政吉の『政』をとり政裕と名づけられています。 

妻はいつも来ている書店経営者の方に『お世話になっております』と挨拶だけですが、この方は必ず『奥さんも人たらし騙されて大変だね』と言い、妻も『本当に騙されました』と答えるだけでしたが、妻はいつもあなた達は似た者同士でピッタリ息があっていて、どちらも人たらしだよ! と笑っておりました。 

寡黙で私以外には本性を見せず挨拶しかしない妻が、『よく来る悪態をつく友とこの書店経営者を、お父さんが信頼している人だから私も信頼している』と言ったことがあり、思わず『お母さんのそういう所がひたすら好きです』と言うと、『あなたのそういう所が人たらしなの!!』と嬉しそうに怒ったことも懐かしい想い出です。 

私は家でもよく喋るので『男のおばさん』と呼ばれていたのですが、寡黙な妻を私は『女のおじさん』と呼び返していたのですが、人たらしと言われた私も妻にたらし込まれたのです。

明日からは日常が戻ってきますので、時間のある今日のうちに娘に教えてもらった煮込みハンバーグを作り置きします。

レシピを見ながらこれから二時間半の格闘です。

本年も宜しくお願い申し上げます。

高校三年生のサトパラリさん、運は運ぶものです。

ゆっくり、あせらず、時に集中して、幸運を手繰り寄せて下さい。