言葉。

孫の成長と共に発する言葉に驚き、その言葉は置かれている環境に大きく影響を受ける怖さを改めて実感させられています。 

最近は核家族化が完了しているので、ひと世代前の語彙は死語となり通じないことは日常茶飯事になりました。 

親子三世代が同居していた時は、自然に祖父・祖母との会話で昔の語彙『ほいと(悪例)・めかけ・胡乱(うろん)・反故(ほご)・尋常小学校・浪花節(なにわぶし)』などを聞いていたので知っていたのですが、今はひと世代をまたいだ人達の語彙が判らないのは核家族化が完了した証です。 

つまり親の語彙だけが子供の語彙になる幅の狭い言葉になります。

汚い暴力的言葉が多い家庭で育つと、それが子供の日常語彙になって不思議ではなく、語彙・思考・行為は幼児期の家庭内での言動を基礎に形作っており、やがてそれが性格や人格形成に繋がり、その子の人生に最も大きく影響を与える要素になって行きます。 

昔狼が育てた子供が発見されましたが、その後どんなに努力しても言語は身に付かず、ウウーとうなるだけで、やがて人間環境に対応できずに早死しました。 

これは人間社会においては、家族の言葉使いの中で覚えた言葉がその子の言語になることを示し、その言葉が思考回路そのものを形作るのことは、シオランが国家とは言語であると言ったように、全ては言葉から始まって文化をも形成するのと同じです。 

子供は成長と共に幼稚園や学校という環境の中で語彙は増えて行きますが、成人し職場などで不特定の人からの電話応対ができないのは、核家族化と携帯電話普及による仲間うちの対応しかしていない経験が起因しており、それゆえ敬語を臨機応変に使えないのです。 

会社で電話が鳴り出ると、こちらが客の立場の時と、相手側が客の場合があり、その言語対応は咄嗟に判断しなければなりませんが、今は家庭や社会での買い物でも見知らぬ他者との会話経験をしていないので企業教育しても難しいのは、狼が育てた子供に似て全ては経験が大切だからです。 

孫は私に何かを要求して、してあげると自然にそして反射的に『ありがとう』と必ず言うので、娘に教えたの? と聞くと思案して『何事も強制はしていないけど?? そう私が何か要求したりお願いしたりした時に、してくれた時は必ずありがとうと言っているからかな?』と答えたことで納得しました。 

その後発する言葉に注目して気付いたのは、保育園に送って行った時、玄関で迎える先生が『??ちゃん、おはよう』と言っても返答の挨拶をしないことでした。 

これは家族内でおはよう・おやすみなどが日常化していないのかな? と想像しましたが越権行為なので、これは聞けません。 

私も孫に自然に教えるように努めていますが、決して孫に強制するようなことは孫のマイナスになってもプラスにはならないので、ひたすら手本になれるように振舞うだけです。 

世界中で挨拶のない国はないように、挨拶も社会に出ると必須のもので、本来は禅問答の時に使われたのが起源で、『挨(あい)』には心を開くという意味があり、『拶(さつ)』には相手の心に近づくという意味が有り、自分の心を開くことで相手の心を開き、相手の心に近づいて行くことを意味しており、人間関係における重要な潤滑油になるのが挨拶です。 

言いたいことは言葉とは生まれた家と時代に支配されて身に付けているということで、今『やばい』という言葉は妙齢の女子がテレビでも普通に使うのですが、使っている意味も変わってきているのは理解しても、私などは何とも言えぬ困惑した気持ちになります。 それは人間は言葉によって感動したり怒ったり、感動から血が騒ぎ心すら動かされたりするもので、どんな言葉を身に付けるか? は非常に大切な要素として働いているものです。 

英国やフランスのような階級社会では、初対面で会話した時、言葉だけで階級が判明するほど言葉使いが意味を持っています。 

事実私は孫が瞬時に自然に発する『ありがとう』という言葉を聞くたびに、心からこの子の望むことは叶えてあげたくなる衝動に襲われる不思議な力が言葉にありますが、乱暴で感謝の念も言葉もなければその逆になるのが人情です。 

挨拶も自然に出ることが肝心なので、本人が自然に使えるようになるまで待ち、強制しないようにしないと、このような効果は望めないので強制はしませんし望んでもいません。 

私自身が四十代になって気が付いたことですが、若い頃から年長の人達に助けられることが多かったのは、幼児期から同居していた祖父母との係わりが他の兄弟より非常に多かったからでは? と思い至りました。 

それは明治生まれの祖父の寝たきりの面倒を見ていたので、祖父との会話から自然に古い言葉を身に付け、社会に出てから自然に古い語彙が口に出ていたので、ひと世代上の人達が私の発する古い言葉に注意をひき、そのきっかけから好意を生じさせたのでは? と自分自身が年長の立場になって初めて気が付きました。 

そしてそのきっかけから注目され、年長者が私の思考や行為を注視しているうちに好意が厚意に繋がったのでは? と納得できたのが五十代になってからでした。 

私が二十歳で東京に就職した時、先輩・上司・年配のお客さんに可愛がられた背景に、会話の中に北海道便と若者に似合わない言葉が混じり、驚かれたり喜ばれたりしたのを鮮明に覚えています。 

言葉と思考の繋がりは、年長の人達の発する言葉から相手の思いも推察できたことが要因で喜ばれたのでしょうが、年長者との世代の断絶がなかったことは祖父母との密接な関係のお陰と思います。 ある時ひと世代またぐ若い人と話をしていて、私が不意に『ほいと』という言葉を使った時、ほとんどの若者が知らないのに理解されたので、知っているの? と言うと御爺ちゃんが時々言っていたと聞いた時は阿吽の呼吸で理解された喜びがあり、孫の『ありがとう』を聞いた時と同じような感情が湧いていました。

『ほいと』は現在差別用語で今は禁止ですが、言葉は区別する為に存在していたもので、同じ人間でも心根が違う行為を表現する為にあったのに、間違った平等思想の蔓延から禁止用語が増えたのですが、その間隙を突いて義務を放棄している人達ほど権利を主張する社会になっているので、私は意識的に差別用語を使っています。

昔のような貧しかった時代に『腐っても鯛』という言葉がありましたが、人間社会にはサメのように何でも飲み込んでしまう、強欲さが程度を越えた賎しい人間もおり、その人物表現に必要だったからこのような言葉が存在し使われたのです。

表面上は豊かになった現代ほど、建前は飾って本音では汚いことをしている者はむしろ増えていて、森友学園・加計学園のような権力者と有力者の癒着構造や大企業の不祥事報道を見ていると、ほとんど無意識に『ほいと』と口走ってしまいます。

今は社会でも学校でも権力や暴力を笠に着た弱いものイジメで、弱者の貧しい人達もクレーマーや万引き、買物の時に因縁をつけて土下座させるなど、このような差別用語が使いたくなる人達が増加しているので嫌がられてもワザと使っていますが、先日『お前はどうなんだ』と言われたので、『私はもう腐臭を放っている、腐りきった鯛です』と答えました。

こんな私が孫と接して孫に悪影響を与えないように、孫と接する時は孫と同じ三歳の次元でただ遊ぶだけにしていますが、孫は私を何でも言うことの聞く子分のように思っているようです。

分別をわきまえた祖父母との適度の距離をとった同居や、孫との適度の接触は親以外の言語・思考を受け取り吸収して、将来的にはその子の人生の多様性にも繋がって行くとも思っています。 

しかし祖父母との密接関係にも益と害があり、孫の益になる祖父母は孫をただ見守り愛する慈愛のこもった人達です。 

孫の害になる祖父母は孫に対して上から目線で教育したり・躾たりする、何かにつけて干渉し支配・命令するような人達です。 

子供を教育し躾をする権利は養育義務の持つ親だけで、子供は生存を保護してくれる親だから自我を抑え従っているのです。 

三面記事で祖父母が孫に殺された記事を時々見ますが、そのほとんどに祖父母の過干渉が存在していて、実の親の耐えられないような過干渉への反逆でも、祖父母が同居していたらより弱者の祖父母に刃は先行して向けられるものです。 

ですから祖父母が豊かで暇があり過干渉で命令的なら、子供の健全な成長のために、同居は絶対に避けるべきと思っています。 よく『言葉の暴力』と言いますが、時には体罰より悪い効果を生むのは、肉体的な痛みは傷が癒えると意外と忘れるものですが、言葉による暴力的攻撃は心に刻み込まれるので、トラウマのように反復して内面に現われ、生きる力そのものを痛めつけ弱める非常に危険なものです。 

抑圧された怒りが暴発すると他者を傷つけ、抑圧が自己の存在否定に向けられると自殺になります。 

イジメによる自殺なども言葉や文字によるものの方が心に刻み込まれていて、言った方は悪意でなくても、心の傷を負うと善意すら悪意にとることも起こり得ます。 

逆に言葉による励ましでも、日常の何気ない行為の中に『愛情に裏打ちされた寛容の容認』が肌で感じられていないと、励ましの効果は逆効果になり、励ましに答えないと愛されないのでは? という逆効果のプレッシャーになり心を閉じてしまいます。 

親子でも夫婦でも日常発する言葉の中に、挨拶や感謝の言葉が存在するだけで、お互いを寛容な気持ちで相手を容認する気持ちと行為に繋がって行き、支えられている意識の確認が幸せを意識させ、その認識は困難を乗り切る時の原動力になります。 

シオランが『国家とは言語である』と述べたように、家庭内における『子供の豊かな精神文化と家族の絆を作り上げる原点も言語であり』、それを感謝や挨拶の言葉使いが担っている思う所以です。