人間行動の動機と分類。

人間行動の根源的動機になるものは次の三つに集約されます。 

①利への欲 ②名誉への欲 ③恐怖心 で、これは動物の本能をつかさどる脳幹という場所に存在しています。 

動物はこの機能によって強いものから逃げ、自分より弱いものを捕食して生き残ることが可能になるので、この脳幹を損傷すると食欲そのものさえなくなるので、それは『死』を意味します。

しかし人間の場合は前頭葉の発達によって、この三つの行動動機が科学や文明の進歩と共に複雑に多様化したために、動物でいう所の『共食い』のような戦争になったり、他の動物には見られないような差別や格差が起こって来ました。 

判りやすい例ではサバンナでライオンが満腹状態の時は、普段は捕食される立場の動物達も平然とライオンの前を通過するそうです。 これは人間社会では考えられないことで、映画などでも死の迫った時でも金塊を手放さないで死んでいくシーンがあり、過労死するほどの状態でも辞表を提出しない人が多いのは、本能による脳幹からの死への恐怖を抑圧し制御する計算が働き、そして成果を上げて認められたい名誉欲が働くからで、発達し過ぎた前頭葉が未来を考え瞬時に計算している大きな間違いを起こします。

ライオンは満腹という現在を生きていて、人間のように目の前の獲物を狩り蓄えて置くという発想はないのです。

人間はいつも際限のない未来を生きていて、だから不安や恐怖に怯えてエゴを剥き出しにしがちですが、ライオンのように現在を生きている爽やかな人間は稀な存在の時代になりました。 

人間は食べ物がなくなったらという恐怖心と、未来に備えるという脳の発達で欲望の肥大が始まり、やがて貨幣の発達と共に何でも手に入り貯蓄できるお金への欲望が異常に肥大したのだと思います。 これには科学技術の発達が大きく関連していて、便利さに慣れもっと便利な物、もっと早い時間で、もっと快適に、と際限がなくなって行き携帯が生まれ・新幹線ができ・飛行機もジェット機になりましたが、便利で豊かになった分だけ精神が病んだ人が増えてしまう皮肉な現象が進行しています。 

科学技術の進歩は他者との比較で幸不幸を判断する人を増やしますので、人に有って自分にないのは辛く不幸なことに結び付き、有る者は無い者を見て勝者という名誉を実感しています。 

私が未だに携帯電話を持っていないのは、ひねくれているので便利な物は時と場合によっては不都合な時に進入してくる不便な物でもあると思っているからです。 

便利なものは実は少数の管理する側にとっては都合が良いものですが、多数の管理される側はそれには気付いていません。 

そして人間は一度手に入れたものは手放せない欲張りに出来ている動物なので、私は核兵器もそれによって破滅するまで手放せないと思っています。 

今私が使っているパソコンも自動車も持つと無い生活には戻れない悲しい性が人間にはあります。 

科学技術の進歩を目の当たりにするたびに思う事は、その割に人間そのものの愚かさは進歩しておらず、歴史的には同じ過ちを繰り返していると再確認させられることです。 

現代人が科学技術は認め崇拝するほどに飛びつくのは財産として残せて目に見える形で便利になるからで、電気やパソコンや自動車などのような財産のない生活に戻れない欲と利からです。 

しかし新幹線ができると、一泊二日の出張が日帰りになり、生産性が上がり経営者にとっては有利になりますが、労働者には肉体的にも精神的にもキツクなって行きます。 

一方人間が進歩せず愚かなのは、人間としての精神上の遺産は財産として子供にも孫にも残せないからですが、これを精神的財産と認めた人でないと学ばないほどに利が見えないからです。

人間の煩悩を救うための宗教家や孔子や孟子のような賢人が死んでしまうと、その子供達はまた最初からやり直さなければならず、賢人の親の域に達した子供がいないこと財産として残せないのです。 

つまり物質上の財産や科学の財産は残せるので学びますが、精神上の財産を学び受け入れる人は稀なのは、人間は自分が経験したことしか理解できないので、余程の想像力を持たないと未経験は理解できず、形に見えるような財産ではないので受け入れないのです。

その証拠として人間学は古典を読めば足りるのですが、現代人は科学同様に古いものは劣るものと思っているようなので、古典は読まれず忘れ去られ進歩しないのだと思います。 

私はこの科学技術の進歩と、人間の停滞または退化によるアンバランスがある限界値を超えた時、その時に人類存亡の危機が訪れるのではないか? と危惧しています。

人間は何事においても二種類に分類されて、売る人買う人、捕まる人と捕まえる人、欲しい人と与える人など際限なく分類できます。 

最近は醒めたもの見方に拍車がかかり思うことは、人間社会存続にとって必要不可欠な稀少な種類の人が減少して来て、むしろ害を及ぼすような人達が増加しているような危惧する覚えます。 

生き方においては自分以上を捜し発見し学び目標に生きる前向きな人と、自分以下を捜し蔑み溜飲を下げ消化して喜ぶ人、の二種類の人間に分かれ前者は少数で、後者は多数を占めています。 

例えば醜聞の雑誌がかわら版の頃から続いているのは、他人の悪事や醜聞を言い立て、自分が潔白で正義のような錯覚に陥っているのですが、お金を払って買う人が絶えないので現代もあります。 

羨むような有名人や権力者が落ちぶれている姿に快感を覚えるのは実は嫉妬の裏返しで、特にマスコミ関係のインテリはその常習犯ではないか? と思うのは、持ち上げて・そして落として二度報道して収益に繋げているように私には見えています。 

本物の優秀な人は自己否定から出発し、自らの模範を探し求め見つけると歓喜し模倣しますが、模倣は学びの一番大切な行為なので、徹底した模倣の果てにその人独自のオリジナルが生まれます。 

このような人達はいつも自分以下は眼中にないので、人を蔑むことも少ない傾向があります。 

逆に自己改革を望まない多くの人達は、自分以下を見つけないと不安を解消できない偽善の安心を無意識に求めているのです。 

最後にもうひとつ私の目につく二種類ですが、『自分がしてもらった事を大きく感じて、自分がしてあげたことを小さくか? 不足か? 忘れる』少数の人と、『自分がしてあげた小さな事をいつまでも覚えていて恩を売り、自分がしてもらった恩はなるべく早く忘れるよう努め、まもなく忘れる』大多数の人達です。 

福沢諭吉が『人間の最もいやしむべきことはねたむ(嫉妬)ことだ』と言ったのは、人は成功者や幸せそうな人を非難する時、嫉妬と判明するのを隠すために、いつもつまらぬ正義を持ち出し一方的に非難する人達が圧倒的に多いからです。 

私が正義を持ち出す人を怪しむのは、その人の振り回す正義は嫉妬の擬態に見えてしまうからで、声高に叫び気付いてない姿は滑稽でただ苦笑いするだけなのは、言っても無駄と思うからです。 

最近のマスコミの大衆への迎合は目に余り、購読者数や視聴率のために大衆の嫉妬を察した正義報道に歯止めがなく、まるで揚げ足取りのような報道記事が増えております。

名士による投稿記事もマスコミに迎合したつまらぬ記事が増えているは、テレビ・新聞に出演・掲載されて初めて名士なので、新聞社に迎合・忖度した発言・記事を書いているからで、異端者の記事は採用しないことを知らない読者にとって、多様性を失った読む所のない新聞と見たくないテレビになり下がりました。

こんなことを書いていたら哲学者・田中美知太郎氏(明治三十五年生まれで八十三歳死去)の言葉を想い出しましたので引用して終わりますが、時代を越えて頷ける言葉ばかりです。 

  • 他人の悪事をどれほど言い立ててみたところで、それが自分の潔白の証明にはならない。

  • 西洋の教養はまずなにより古典を学ぶこと、わが国も同じだった。 文明開化の必要がそれを破壊したが、西洋の伝統に結び付く道も閉ざした。 だから今日の日本人の教養は全く荒廃した。

  • 実際政治化のトップレベルの方が、政治的な見識においても、また知的水準においてさえも、雑誌や評論家のレベルよりも、むしろ高いのではないかと思うことが少なくない。政治家を軽蔑するのがインテリの常習ではあるが。

  • 同類の証言は、いくらあっても、一人の証言と同じである。

  • 正義は多く、あまり利益にならず、損になる、正義の人は不幸なことが多いと恐れられている。 つまり正義は悪かもしれない。 だから逆に、戦争は悪だといわれても、なお正義かと疑われる。

  • 正邪を言わずただ利害得失を考えよ、利害には共通の言葉あり、正義は利用するためにある。

  • この幸福な社会はそのまま不幸なのである。