人はいくらお金があると安心するのか?

動物の赤ちゃんは誕生と同時に『食欲』という欲が備わって生まれてきますが、それは生まれすぐに食欲がなければ死を迎えるので、生き延びるための必須な本能として備わっている欲望です。

そして成長し肉体的成熟期を迎えると『性欲』という欲が湧いてくるのも、種の保存の為の本能として備わっています。

脳科学で調べると男の性欲の部分は女性の二倍の強さになっておりますが、これも種の保存の為にどの動物のオスにも備わっていて、発情期のオスが命を賭けて戦う悲しい性に翻弄されるのも本能の仕業で、メスも強い自分の子供を望むので勝者を受け入れます。

高等な脳を持った人間は強さ以外の優しさや思いやりで選択しますが、野生のマントヒヒで稀に思いやりで選択をするものがいます。

この性欲の目覚めとほぼ同時に眠っていた『権力欲』の膨張が始まりますが、それは肉体的に大人と対抗できるような体格になるにつれて現れるのは、子供は弱者として保護を求めている間は抑圧し迎合していて隠しているだけでは? と私は思っています。

この食欲・性欲・権力欲は人間の脳の一番根幹にある脳幹という所にあり、この脳幹は爬虫類などにもあり全ての動物が所有している脳で、この食欲・性欲・権力欲が備わっていることが生命維持と固有種の生存連鎖を可能にしているのだと思います。

生物として生き延びるために一番優先される食料において、人間以外の動物は毎日がアテのないその日暮らしですが、人間だけは生産し貯蔵することが出来たのは前頭葉の発達によるもので、その結果として霊長類の頂点に君臨したのだと思います。

動物はその日の飢えを満たす分しか殺生をしませんが、人間は保存し貯えることを覚えてから、それが武力と同じ権力の道に通じていることを認識したので際限なく欲望するようになりました。

その後貨幣制度が導入されると権力欲と金銭欲が同化してきて、権力者が金銭欲を満たしたり、金銭で権力や名誉を手に入れたりし、いずれ人の心まで金銭で買えるような社会になりました。

お金が価値を持たない生死にかかわる困難な状況下では、人間は例え異質な嫌悪を感じる相手に対しても我慢をしますが、それは自らが生き延びるために協力者が必要だからです。

タイタニック沈没寸前のように貨幣が役立たない時や、アメリカ新大陸に移住した頃の人達は文化や肌の色が違う人同士でも助け合わないと生き延びられない状況だったので、普段から多少の違和感は我慢しても相互関係を良くして置かないと援助を得られない為で、つまり緊急時はお金では解決できない感情優先になるからです。

産業革命から資本主義に進展し工場勤務というサラリーマンが誕生した時、マックスウエーバーが『嫌なことを我慢してまでお金が欲しい気持ちが理解できない』という趣旨を述べていましたが、それまでは人間も動物のようにそれほどノンビリしたその日暮らしを楽しむ時代だったのでしょう。

この頃から貯蔵から貯蓄になって行き、権力欲は金銭欲へと変貌して行き、お金で自分自身の不都合はなんでも解決できるようになりましたので不快な隣人への我慢は必要なくなり、区別が差別に少しずつ変貌して行き多くの人間関係において利害の一致が優先され、相互扶助やコミュニティーが崩壊して行ったのだと思います。

しかし稀なマントヒヒのような人間も残っており、価値観や倫理観の一致に価値を置いて生活している人が少なくなっても残っていることが救いで、行き過ぎた資本主義による格差是正はこのような人達が表舞台に出る社会にならないと是正できないと思います。

いつの時代においても差別と格差が拡大したり縮小したりしても無くならないのは、人間の脳幹という心の中に潜む本能の欲が存在するからで、性欲の強弱のように金銭欲にも強弱があるようです。

ある小説を読んでいて、いつもお金に困っている主人公が『いったいいくらお金あったら安心できるのだろう』と呟きながら、五百万か?・・・・今は五十万でも良いという箇所がありましたが、金額は人と立場によってと欲望の先天的な強弱などもあり様々ですが、確実なことは誰でも持てば持つほど欲望が肥大する取集癖みたいなものと私は思っておりまして、心の何処かで? これで充分と思うか? 己の分を思い知って諦めるか? をしないと止められないのが人間の悲しい性と思っています。

私が死んでも持って行けないお金の為に我慢や搾取をしても意味がないと言うと、『病気になったらどうする』と次々に理由を述べる人が多いのですが、お金が必要な理由も根拠もなくお金自体の万能性を信じ求めているので何を言っても無駄です。

個人経営で保険会社の代理店経営を長くやっている人達は、家族に大金を残した為に残った家族が不仲や不幸になった人達を沢山見てきていますので、程々を知っている人に会うとホッとすると客観視して言いますが、我が身はノルマに追われて似たようなことをしているのでは? というと苦笑いをして頷きます。

人はお金をいくら持っても安心なんか出来ないもので、安心はその人の心の有り方の中に存在しているものです。

私も持ったことがないので判らないので想像ですが、むしろお金を沢山持つと不安になるものと思っております。

昔私共のお客様でバブルの頃に中央区のビルを売った年輩の女性がいたのですが、次々に値が上がって行き『もういい加減に嫌になったから七億で売った』と私に事の次第を話したことがあります。

この方は息子さんがいたのですが、このお子さんを育てている時はご主人と必死に働いていたので、充分な愛情を与えることが出来ず子供より仕事で過ごしたのですっかり疎遠になっていました。

若い時は生活を楽にすることが子供と家庭の為と思って夢中になって働いていましたが、御主人を亡くし一人になって初めて、もっと大切なものを犠牲にして来たことに気が付きました。

ビルを売った話をした時に『この歳になって、いくらお金を持っても欲しい物も行きたい所も行けない』と呟き、『昔あなたが言ったお金より大切なものがあると言った時、私達の成功に嫉妬していると思っていたのが間違いだったと最近気づいた』と言いました。

それ以後来店していませんが、誰かがお金の話をすると私はその方のことをいつも想い出しています。

コミュニティーが崩壊した現代に助け合いを求めることなど無理なので、頼れるものはお金となることも理解できますが、お金を目的化した生活でもっと大切なものを失うのは愚かなことなのに、気付かない人が多いのは原因と結果に時間差があって訪れるからです。

若い時の仕事は生活するための手段と共に目的化されますが、老いると仕事や家事で社会や家族と繋がったり、社会や家族の役立つことで自分が社会や家族から必要とされているという自分自身の存在意義を確認するものだったことを思い知ります。

それはお金では代用できない言葉や行為を通じてお互いの心に染み込むもので、育てられている子供は日常の積み重ねの中で体感して実感しながら育っております。

ある人が『人間は本能が壊れた動物だ!』と述べていましたが、その理由は本来動物の親は『この子の為なら死んでもいい』という慈愛が本能として備わっているはずなのに、虐待やネグレクトなど自分の快楽や都合を優先する親の増加が豊かな先進国社会ほど増加しており、この現象もお金社会の進展と歩調が合っております。

どんな社会においても、親は子供を作った責任を考え自己の欲望を抑えても親としての義務を優先し、その義務と責任を果たし終えてから自分の欲望を復活させるように本能としてプログラミングされていることが種の保存原理として正当なのに、やはり豊かさとお金万能社会が人間の動物としての本能を壊し始めているのでしょう。

お金と地位と名誉のような権力に繋がるものは、持ち過ぎると麻薬のように正常な神経を麻痺させ、本人が気づかないうちに非情で傲慢な人間に変貌させるのですが、老いて体が思うようにならなくなった時にその報いが呪いのように覆いかぶさってきます。

お金も物も伴侶に対してもどの位で満足するか? はその人の心の持ち方によるのですが、兎角欲望の強い人ほど自分自身に甘く内省をせず、他者に求めるものが強く際限がない傾向があります

私は行商から借財返済までほとんど困窮の連続でしたが、そこから学んだことは親を選べずに生まれてきた娘への責務と借財返済の責務を背負ったことが、食生活と生活習慣に気を配った健康管理に繋がっていたのではないか? と思い到ったことです。

もしもっと早く借財が終わっていたらと思うと、調子に乗って夫婦や親子の形が今とは変わった形になっていたような気もします。

借財返済後いつも意識していることは、『お金は少し足りないくらい』を心掛けていることで、少し足りない不安を抱えることが健康管理や生活習慣への緊張感に繋がり、固定のお客様への商品責務と老いの身で娘達にできるだけ迷惑をかけない責務を果たすことにも繋がって行くものと思っております。

どんなにお金を持っている人でも幻想に過ぎないと思うのは、その人の体が不自由になったら自分のもののようで実は自分のものではない人の姿を嫌というほど見てきたからで、その人のお金でも実に簡単に移動してしまう便利なものだから厄介なのです。

なんとか食べられる生活で、社会から必要とされる仕事と役割を持ち、日常の料理・洗濯・掃除などもこなしながら生活するという、背負うものを持つことが私の残りの人生の暇つぶしになると思い、手が届きそうで届かない(お金が少し足りない)状態で奮闘して生きることが心と体の健全さの維持に繋がるのではないか? と思っていますが、耳元で『また負け犬の遠吠えかい』と妻が囁く声が聞こえて来ましたので一声ワオーーンで終了します。