消費支出の倫理。

この前のブログで新車を購入すると書きましたが、私はお金の使い方には人間性が現れていると常々思っていますが、一般に日本人は収入という稼ぎ高で人を判断する傾向があり、そのお金を得る方法には倫理を求めますが、得た収入の使い方の倫理には寛容な傾向があり昔から不思議に思っていました。

私は収入より支出の方に重点を置いて人を見る傾向があり、どのような物を誰の為に支出しているのか? という点にその人の隠された人間性が出ていると思っています。

たとえば『自分が稼いでいるのだから、自分の欲しい車をローンでも買う』という人もいれば、『自分の欲しい物があっても、妻や子供の物を優先する』ような人もおりますし、もっと先を見て『家族全ての欲しい物を、今は我慢して未来に備える』という人もあり人間は多種多様です。

つまりその消費支出決断の時、注意して見ていると自分には厳しいが人には優しい人と、自分には甘く優しいけれど人には厳しい人もおり、お金の使い方にその人の隠された倫理が明確に現れています。

一般に日本人は盗むとか詐欺のような収入を得る時の手段にはとやかく言うのですが、消費という買い物では自分達には寛容ですが、隣人には嫉妬しがちで、テレビなどのような身近でないお金持ちの豪邸や高級車が何台も並べている光景などは疑問も持たずに羨んで見ている傾向があります。

私にはゴミ屋敷のゴミを集めている人と同じに見えて、お金のない人はゴミを集め、お金持ちはお金を集めることを目的にしているだけで、私にはゴミとお金の違いだけで同じ種類の人間に見えます。

私にも自己顕示欲はありますが、過度な物やお金に頼った自己顕示欲ほど醜いものはなく、それを『俺が稼いだお金だ、俺の好きなように使って何が悪いとか、価値観の違い』で済ませています。

非倫理的収入への批判や蔑視があるならば、非倫理的支出にも批判や蔑視があって当然ではないか?

と私は思っているのですが、どうも価値観の多様化などという言葉が出て来てから誰も不思議に思わなくなったような気がします。

芸能人が自分で稼いだお金で大麻を買うと、犯罪として逮捕されるのは、大麻を売った暴力団のような非倫理的な集団の収入に繋がっているからです。

賄賂や盗聴器や拳銃などの武器も同じで、法律で罪になるものは、そのお金の使用目的が非倫理的なことに繋がっていると公平を欠くからとも思います。

しかし家庭において一般に普通の物を購入することは罪になりませんが、家族の生活を顧みずに自分の稼いだお金だからと言って博打を打ったり酒や車を買うような自己中心的な支出をしている亭主や妻も家族に対して『公平という点で、支出の倫理から逸脱している』と私は思っています。

消費支出とは不思議なもので、自分が持っているお金の範囲であれば自分の自由に使って良いと思っているのが通念ですが、実はその行為の中にその人の性根のような人間性が潜んでいて、嘘偽りのない自己表現を無意識にしているのが消費です。

そして一般的な消費行動でもうひとつ不思議なことは、チラシを見て何処が??円安いとか、いくらの物がどれだけ割引をしているか? という比較的安価な買い物には神経を尖らしていますが、家や車などの高額な商品の買い物の時には細心の注意や調査を怠って、住宅展示場の雰囲気やテレビコマーシャルなどのイメージなどで意外と安易に決断して買っているように思われます。

今の個人住宅建設は建築思想が違うだけで、実際の中身は下請けの大工・板金・電気工事などで作られていて、大手の住宅会社においては営業の給料やテレビコマーシャル代金や住宅展示場の費用なども上乗せされていないと会社は潰れています。

それでも何かあった時の安心料で大手への信頼のように言いますが保証にも期限があります。

自分で調べて自分の望みを建築設計士に話し図面を検討し、次に安心できる工務店を捜し、その建築設計士に別途お金を払ってでも建築過程の監視・点検の検査も依頼すると、確実でかなり安く家を建築できて最終的な費用は驚くほどの差額になります。

一生に一度の買い物の家や、十年は使用するなどのような高額な商品購入に際して、勉強し調査してお金の支出を考える方が、安価な日用品に神経をすり減らすより長い目で見て効率的でスマートです。

昔読んだ司馬遼太郎さんが対談本で話していたのですが、日本人はお金を使う時のプラスとマイナスが判っていないと述べ、それは農村というお金がなくても米で生きて行ける時代が長く続いた為で、貨幣経済の中で生きていることにリアリティが持てず、貨幣に成熟していないからと述べていました。

つまり貨幣経済が今の世界を作り上げているという認識がないと、真の合理主義が生まれないことを知らない弊害で、だから負けると判っていた民が苦しみ沢山の人が死んだ戦争をしたと言っていました。

お金は王様が百円使っても、乞食が百円使っても百円は百円だ。という合理主義です。

このようなお金に対する成熟した合理主義が持てなかったのは、貨幣経済体験が歴史的に浅かったことが原因で、だから成り上がり者はお金を粗末に使うが、その典型が田中角栄とも言っていました。

百円は百円というお金への合理主義がないと、貨幣経済を生き抜く為の思想には到らないと思います。

お金への思想を持つと、お金を貰ったり使ったりする時、貰ったり使ったりする時の理由というモラルが生まれると言っていたのが頭に残っています。

私が『支出の倫理』という言葉を知ったのは、確か明治時代に日本に来た宣教師の人が述べていたもので、ローマ時代から貨幣が存在した西欧的な貨幣への成熟から生まれた合理主義と思います。

私は拝金主義になれませんが、貨幣経済で社会が成り立っていると思っておりますし、お金への合理主義は行商時代と長年の借財返済の苦労なのか? お金は生きて行く為の大切な道具なので上手に使わないと怪我をする、と思っているので支出の倫理などにこだわるのかな? とも思います。

しかし電気製品は故障すると日常生活に支障が来たし、若い時と違って高齢化するとフットワークが悪くなるので、多少の価格差には目をつぶって何かと細かく融通のきく町の電気屋さんに決め、全ての商品をその一軒で買って何かと助けてもらいます。

家のメンテナンスの工務店や電気工事や水道関係など日常生活と直結したものは、全て信頼を基準にした何十年来のお付き合いで備えています。

『支出の倫理』にはお金と言う金額の多寡だけではなく、家族においても他人においても信頼関係を育むということを勘案するバランスが大切です。

もう二十年位前ですが、六十代の女性客の方が私に『もうすぐ新築の豪邸が出来るのよ、完成したら主人と離婚して私と娘でアパートに引っ越すの、これは長年支配された主人への報復』と言いました。

その豪邸にご主人がひとりで生活する様を思い浮かべ溜飲を下げるのは判りますが、実はこのような結果にも『支出の倫理』は関連していて、普段御主人の支出行為が愛情を伴った贈与か? 傲慢な支配のを伴う支出行為だったか? が家族に伝わっていたからと思います。

今日朝食の用意をしながら井上陽水のアルバムを流していたら、妻と交際して結婚を決意していた頃に

盛んに聞いていた『いつもと違った春』という曲が流れ、ついこの間だったような感覚に陥りました。その頃に声を張り上げて一緒に歌っていた歌詞の一番好きだった部分が『男が右で女は左、真ん中にいた約束』・『君が僕を好きになってくれたら、心を粉にしても、体をすり潰しても働くのにーー!

で、金持ちになれなくてもこんな思いで贈与を繰り返し続けると、女性は絶対裏切らない生き物です。

しかし男は調子に乗って搾取する傾向がある生き物なので始末が悪いのです。

妻がいなくなった春は『いつもと違った春』です。