常識の変遷と生死の哲学。

時代の流れと共に過去の常識が未来には非常識になったり、過去の非常識が現在の常識になっていることも多く、歴史的に俯瞰してみれば善・悪も時代と共に変遷しており、人はその生きた時代の常識や善悪の基準の違いにより世代間のズレも起こっております。

封建時代は格差が当たり前で、武士階級の家では長男が家督も含め親の仕事も継ぎますが、他の子供達は嫁に行くか? 男は婿入りできなければ実家の部屋の片隅で負い目と共に生涯を過ごしました。

その代わり家督を全て継いだ長男には、その家督相続の権利と共に他の兄弟を嫁や婿に出す義務があり、それが叶わぬ兄弟・姉妹と隠居した父母を養育する義務も伴っていることが常識でした。

しかし戦後に民法が制定されてから財産相続権と相続順位が法律で決められ、家長である長男が財産を全て相続できなくなり、封建時代のように親の職業を継ぐこともなくなりました。

戦後は職業選択の自由と工業化による高度成長の訪れと共に、地方から都会へ出た若者がサラーリンマンとして激増し地方の過疎化に繋がり、親が高齢化しても食べていける年金制度が親子同居を減少させ、その結果現在の老々介護と独居老人増加に繋がりました。

バブル崩壊後は少子高齢化が一段と加速し、若者への高負担と過労死のような過酷な労働環境が正社員には課され、パートや派遣社員などの非正規の増大で格差は拡大し、結果として中流層が下層に落とされた消費不振のデフレになりました。

高度成長時に人口増加と経済成長を前提に作った年金制度は、少子化と高齢者の激増で若者への高負担に拍車をかけました。

このような若年層の状況では独居老人や老々介護も必然で、若者は金銭的にも精神的にも余裕を持てず、親は高度成長時の蓄えと年金で金銭的には大丈夫だろうと考え、たとえ親が肉体的・精神的に大変なのは判っていても、俺たちは金銭的・肉体的・精神的の三重苦で老後の年金は先送り状況が見えている不安を思うと、自分の方も大変なので判りたくないのが実情です。

今起こっている老人問題は、歴史的に捉えるとヨーロッパで100年かけて緩やかに行った人口構成の変化を、終戦後30年で成し遂げてしまったことが大きく影響しています。

年金がなかった昔は嫌々でも子供が親を引き取り、世代間の葛藤を通じて情に繋げる自宅死でしたが、年金制度の現代は世代間の文化的常識の違いによる確執解消の為にも別居が最良の形のようです。

しかし一番の問題は年金制度と介護保険導入以後から老人問題を全てカネのことだけで捉え、『心の問題』には無関心なことが危機で、お金だけでは解決できない日本人の心のあり方の危機です。

高度成長頃から人の死は病院で迎えるのが常識になりましたが、介護保険導入と共にその一歩手前の手のかかる親の介護も施設に入れてしまうようになり、まるで臭い物に蓋をするようになりました。

人は誰でも何もできない状況で生まれて来て、何もできなくなって死を迎え、そのどちらの状況も誰かの助けを必要とします。

幼児のように成長と共にできる事が増えて行く状況は未来に明るさを感じ楽しいのですが、出来ることが出来なくなって行く老人介護は先の見えない暗い道で肉体的・精神的疲労に辛いことで、私達の年代は『共倒れを防ぐ為に親を施設に入れるだけで、良心が少し痛む』ような端境期の世代で、自分達は次の世代の子供には迷惑をかけたくないが常識ですが、恐らく次の世代は手のかかるようになると迷わず施設に入れるが常識の時代になると思います。

四十年間お客様の生活状況を見てきて思うことは、かって日本人にも『生と死の哲学』はあり伝統だった家族に看取られ最後を迎える『在宅の死』などは戦後の拝金主義と共に忘れ去られました

ここ十年ほど前から老々介護や独居老人世帯の様子で散見される事は、そのような状況の方が亡くなるまで子供は手を差し伸べる人が減少し、財産処分の相続の時には来る人達が増えたことです。

それまでの本人から生の声を聞いていたので良く判りますが、実はこの相続においても格差の連鎖を生み出しています。

貧困層の親の所に生まれた子供は、教育や就職においても差別に近い区別が存在し、相続という実質的な不労所得の恩恵などは勿論なく、相続においても貧困の連鎖と格差拡大が助長されています。

資本主義社会下でも現代の富裕層における相続は、身分制度を前提にした財産と職業を長男に渡した封建社会の思想と同じことが行われていてこれも格差拡大の一因になっています。

在宅の死は金銭的・肉体的・精神的にも大変な問題ですが、相続税や消費税を格差解消やスエーデンのような高負担・高福祉体制に向け、それが国民に信頼される状況になれば、若者も将来への不安を取り除かれた安心から高負担にも納得すると思います。

二十年程前に老々介護や在宅死の援助を医師が会員制で始め、最近は富裕層に普及し設立企業が増加している形体があります。

最初に実践し始めた佐藤智氏の『ライフケア・システム』中身は『自分達の健康は自分達で守る』と『病気は家庭で治すものである』がモットーで、会員の健康を生涯にわたって守る組織で、自宅死を望む人には緩和ケアーも含め支援していますが、実はこのような組織を公的に行っているのがスエーデンです。

病院での死が常識になった頃から寝たきり老人ではなく、病院や介護施設に寝かされている老人が増え、老人の年金がその費用に当てられていますが、医療費と介護費用などの公的負担が若年層への高負担に跳ね返り、少子化に繋がる悪循環が現状です。

医療の近代化・大規模化と共に、在宅地域医療の二本立てを進めることは必須で、寝かされて長く生きるより、五~十年早く死んでも自宅で最期を迎えたい私と同じ思いの人も大勢いると思います。

肉体的弱者の高齢者への子供からの言葉の暴力や、オレオレ詐欺なども親が普段子供に電話をした時の対応が冷たいことも関係していて、合法を装った詐欺など一流企業や医療でも単身高齢者に対して陰で行っていることを注視すると巧妙化し悪徳化しています。

このように複雑化して迷路に入り込んでしまった死に直面した老人問題は、人間の『生と死の哲学』を避けカネに解決法を求めた貨幣による複合汚染も原因のひとつで、その結果として若者も三重苦に追い込まれている皮肉に思えます。

私も妻を亡くし本当に孤立を実感する此の頃ですが、唯一救われていることは妻との想い出が詰まった家にいる事と、仕事を続け社会との繋がりを維持できていることで、たとえ孤独死でもこの家で妻のように死にたいが心からの願いです。

妻からの見送って欲しいという願いを果たした翌日から煙草を吸い始めたのは、寿命が短くなっても残りの人生を自分らしく自分自身のための生活を楽しむことが生きる事と思ったからです。

子供も自立し私を必要としてくれる妻を失った人生に意味を求めるとすれば、ひとつは多くのお客様から『元気で今の商品を売り続けて下さい』という社会から必要とされる仕事を確認できる声を頂ける事と、今ひとつは未来のある孫や娘達に迷惑をかけないようにしながら少しは力になれる自分でいたいという思いです

最近はスイスで安楽死を迎える人が増えているそうで、ご夫婦で安楽死を迎えた人達もおりますが、私もいずれ病気などで余命が判ったらスイスやベルギーのように安楽死で最期を迎えることを選択できる権利が欲しいと思っております。

日本人は死を穢れたことに捉えているから塩をまくのですが、私は生と同じくらいに死も荘厳なものと思っています。

かなり昔になりますが深夜NHKの放送でスイスでの安楽死の特集を見ましたが、ベッドに横たわる高齢の女性が家族に見守られ最後の別れを迎える様子は、今想い出しても見送る方と見送られる方の双方に心の通った今生の別れで荘厳さに包まれたものでした。

その中で見送る人達は安楽死を迎える人と向き合い、その人との係わりの中で授かった自らの人生を振り返ったと思いました。

一人では生きられない状態で生まれ、多くの支援者のお蔭で今の自分が存在している自覚を持つことが、その後のその人の人生を豊かで充実したものにしますので、自宅死も含め身近な人の死と向き合うことは実は大切な役割を果たしているような気がしています。 

お金はお互いの欲しい物を交換し合う物々交換から始まり、交換物が一致しない不便を解消する手段として、どの商品とも交換できるようにお金という抽象的な道具を発明したことから始まりました。

しかし国家的規模になり地球規模でお金が通用するようになり、産業革命頃から急加速して人の心までお金で交換できるようになってからは必要な物への欲望そのものを越えてしまい、お金それ自体を欲望するようになってしまったのが現在の状況です。

人間の寿命や死までもお金の問題に変質し始め、偽善的で理想を失った建前の世界が肥大し、人間としての心の裏側にあるものまでが変質してしまった利己主義の蔓延は、政治家の政務活動費不正も大企業経営者の不祥事もお金=権力が原因です。

金の亡者になり大金を手にした人にも病と死は訪れますが、病や死の床に伏した時には『生と死の哲学』を強いられ、人は人の真心をお金で買えないというお金の裏側にある負の部分を思い知ります。今後も時代と共に常識の変化が続き、生き方や死に方も変って行くと思いますが、いずれ資本主義が行きづまり豊かさを失った時に、人間はまた生と死の哲学を始め、生きて行く為には大切な手段であり道具であるお金では解決できないことがあることを悟る時期が来るのでは? と期待し願っております。

表社会では万能に見えるお金ですが、その裏側に潜んでいる怪しい影が世相の変化として如実に浮き上がってきています。