孤立より孤独を選択。

『奥様の初盆ですね』と有り難いことに多くの方々からお花やお供え物を頂き、ここまでを振り返って礼状を書きました。

以下はその礼状に加筆して現在の心境をブログに載せました。

妻を亡くして二ヶ月ほどの間は、一日に何度もぽろぽろ涙をこぼして泣いてばかりの子猫ちゃんでしたが、料理で妻のいない空白を埋め追われるように生活してから少しずつ回数が減って来ました。

その代わり突然悲しみが襲って来て、涙の量はさほどでもないのに息苦しくなり何か得体の知れない体の奥底からの寂しさと悲しみでして、これが慟哭なのか? と感じることが時に起こります。

こんな悲しみは初めての経験でしたので、始めは自分自身で驚きましたが『心の奥底で私が妻の死を受け入れる』その再確認作業の過程で起こり、その証として襲ってくるものと思います。

娘達のために妻の分もと思う事で頑張っていても、何処かで? 妻への甘えや妻からの癒しを失った悲しみと辛さの再確認です。

でも私は沢山のお客様の人生を見守ってきて思うことは、どんなに寂しく辛くても子供達の家庭への同居は望みません。

それは一人になって味わっている孤独より、子供達の家庭の中で味わう孤立の方が辛いと思うからです。

親子でも年代が違うと生活習慣や食習慣が違うだけでなく、加齢による体の機能低下に伴い部屋の温度やテレビの音量など全てにおいて、どちらかの忍耐が必要なうえに、体の衰えによる行動範囲の違いなど、様々な場面で同居しているけど別行動を強いられるようになり、その時に『一緒にいる家族の中で孤立している自分の確認』を迫られるものです。

長いお付き合いの固定客のお客様で商いをして来て、伴侶を亡くしてから息子さんや娘さんの家へ越して行き同居した人も沢山おりますが、あの方が! と驚くほどしっかりした人が半年や一年後に認知症になったと耳に入ることが多く、何故なのか? と思案させられて『孤立なんだ!』と思いました。

反対に現在も一人で一軒家やマンションに住んでいる高齢の人達が私の店に訪れる様子を観察していると、一週間先まで天気予報を見て体力を考えた最良の日に買物にやって来ます。

そして買物は外の空気に触れるストレス解消になり、商品捜しでは場所を求め記憶回路はフル稼働し、レジ支払い後の残金を確かめATMを横目に今後の財布の中身も思案し判断しています。

そんな過程における他者との緊張した会話の中に、社会との繋がりによる自己確認が含まれていて、特に気心の知れた私共のような所での日常会話を喜び楽しかったと言って帰ってくれます。

中には九十三歳で酸素を鼻につけ、食べ物は冷凍食品を通販で購入して、美味しいコーヒーとお茶だけが楽しみというので私が届けるのですが酸素のビニールパイプを引いて出てきます。

もう一人の九十四歳の上品なおばあちゃんは、認知症の夫を見送ってからずーっと一軒家で一人暮らしですが、九十歳頃から買物は二人の息子さんが交互に来て手伝ってもらっていますが、時々内緒で穏やかな天気の日にお茶を買いに来ます。

先日は久々にゆっくり話した時『息子さん達が、そろそろうちに来ない』と言うでしょうと聞くと、主人を見送ってからずーっと言われていたけど最近は諦めてくれたと言いました。

行かないその理由は? と聞くと、息子達や娘といっても長い間離れて別々の暮しをしていた所に私が入って行く事を想像しただけで孤独な今の生活の方がお互いの為に良いと思うと言い、隅のひと部屋にいて茶の間から笑い声が聞こえたら、たぶん年寄りの僻みから孤立を感じて辛くなるような気がするからと言いました。

このような方に『女学校に行った?』と聞くと、大概『どうして判るの?』と答えますが、他の似たような境遇で見識をお持ちの方達も言うことが似ていて、昔の教養教育を実感します。

自分で献立を考え、逆算して材料を考え、時間を逆算して下ごしらえをし、出かける用事も天気予報で下調べをしてから予定を組み、何事にも若い人達に依存しないで生き続けることが認知症を防いでいて、自分で何事もしなければならない境遇が足の衰えも防いでいることに繋がっています。

現代は独身で自活している若い人達でも実は孤独で、私なども店をやっていることで社会と細い糸で繋がり救われております。

閉店後に妻のいない家に帰宅すると、一人になった再確認を迫られ孤独を感じますが、そんな時は妻が好きだった歌謡曲をかけ想い出に浸り、一緒に歌いながら家事をして紛らわします。

人は誰もいない山奥に住み孤独に暮らすより、沢山の人がいる大都会で孤立している方が精神的にはキツク辛いもので、それは人間の持つ他者との比較で自分の位置を考える習性にあると思います。

無差別殺人を犯した人達の報道を聞くたび、その衝動の裏側に潜んでいるものは孤立した心から湧き出る他者への凶暴さで、その凶暴さを抑え込む蓋のような大きな役割を果たしているのが日常生活における他者との会話と繋がりだと思います。

私が妻と知り合い結ばれたのは東京でしたが、その頃の流行歌の中に『東京砂漠』という言葉がありました。

その頃から他人に干渉しない風潮が蔓延し、同じマンションにいても挨拶や会話がなくなりましたが、人は誰かに自分を挨拶のように認識されて、初めて自分の存在自体を確認しているものです。

初めて東京の街を歩いた時、人の多さに驚きましたが、ひとりも私を認識しない状況に言い知れぬ孤独感と不安を覚え、まるで自分が透明人間みたいに感じました。

人は無意識ですが会話を通じて社会との繋がりと自己の存在確認をしていて、世間話でも自分の話を聞いて欲しいものです。

私は孤独に生きて行く自信を失いかけた頃に妻に出会い、逢うといつも私の話をニコニコ聞いてくれる妻に安心と幸せを感じました。

孤独や苦境に陥った時、苦境や孤立から芽生える人間の邪悪な心を制御する分別として教育があると思うのですが、今のような実践優先の教育だけでは邪悪さを制御するための教養や見識に繋げるのは難しく、現代人は教養や見識はお金にならないとも思っています。

伴侶を失い一人になった場合、男性の方が潔い人は少なく女性の方に強さを感じますが、それは毎日生きるための料理をしないことも関連していると今は思えて、その上に男性は仕事を辞めると女性のように社会と繋がる横糸が少なく、強がって辛い状況を受け入れる柔軟性と忍耐力が女性よりないこともあるような気がします。

妻亡き後の九ヵ月の孤独な寂しさの中で、このようなことや先人の生き方を振り返り参考にしながら私の今後を思案し、透明人間にならないように仕事を続けて店に立ち、認知して娘達に迷惑をかけないように料理を作り、孫が手のかからなくなる迄は健康で力になれるように考え散歩や水泳も続けています。

妻の死後居間のテーブルにノートを置き、『政裕残日録』名づけて気が向いた時に書き付けているのですが、いつどこまで? 生きるのだろうと思いながら、妻に孫の成長や私自身の日常報告をするような気持ちで書きつけ、俳句にもしています。 

     虹消えて我が残日を妻に問ふ

ひとりになってからは二人でいた時には考えもしなかったようなことを沢山考えるようになった辛い時、妻がいつも言った『必ず私が先だから、見送ってね』の言葉を想い出し、妻にこんな思いをさせないで良かったと考え自分自身を慰めるように努めています。

一人になってからはいつも何か考えていて、ボーッとしている時がないので疲れるのですが、三食の献立から買い物をメモして料理をしながら洗濯機を回し、掃除やアイロンがけをしながらも音楽を楽しむ余裕を持つように心掛け、寝る前にラジオ体操とストレッチをしてから、仏壇の妻に一日の報告と泣き言をこぼして『おやすみなさい』と挨拶すると十二時近くですが、妻と一緒に過ごした想い出の全てが詰まった家だからこそ頑張れると思います。

いずれ時間と共に少しの余裕と遊びもある生活に出来れば良いな!とも考えていますが、そのあとには更なる老いも待っています。

それでも私は私達二人の喜怒哀楽の想い出の全て詰まっているこの家で、最後まで過ごしたい! が今の願いで、娘達の手を煩わせないように出来れば妻のように、寝ている間に一人で一気に『おさらば』したいと思っております。

孤独死などと世間の人は憐れみを言いますが、私は人からどう思われるか? ではなく、自分自身がどう生きたか? の方に価値があると思っているので、そんな最後を本気で願っています。