人間が持つ邪悪さ。

一人身になってから仕事に加えて、炊事・洗濯・家事に追われながらも孫との情も交わしたく、書き留めたいことが思い浮かんでもブログを更新する為の時間が作れず苦心していますが、ひとり静かに思うことを言葉にする作業も生きている楽しみのひとつです。

最近多くなった無差別殺人や認知症の裏に潜むものに『価値観の分裂が進み、いったい何を信じていいのか? 誰もが見えない不安に怯えている時代になり、その上に人情が廃れて不人情がはびこり誰もが孤立している』社会状況も背景にあるような気がします。

携帯の普及によって家族間においてもプライバシーが生まれ、水洗トイレの普及で汚物を確認し合うような、お互いの醜い部分や邪悪さを見せ合うことなく暮らすと、清濁併せたものが人間の真の姿と認識し合いながら、汚い醜いものも含めて人を愛する行為に繋げることが文明の進歩につれて難しくなっている気がします。

便利で物質的に豊かになることが心を豊かにしてくれる事も認めますが、人への寛容さを失って逆に心を貧しくしてしまう部分も生まれていて、寛容さを失った社会の確認が多くの人を不安に陥れ増大させていることに繋がっている部分もあると思います。

新しい変化に飛びついて対応することも大切なことですが、忘れてはいけないことは人間そのものに焦点を当ててみると、歴史的に振り返っても生身の人間自体は何も変わっていないと思います。

社会でしか生きられないように出来ている人間の心に一番必要なものは言葉という会話を通じた人情という人との繋がりです

その逆が不人情で、これも昔から存在する人間の残酷な負の一面であって、人情も不人情も人間の普遍的な感情です。

しかし豊かになった現代の方が不人情が目立って増え、企業が社員を見捨てたり親が子供を虐待したり子が親を捨てたりしています。

昔の姥捨て山は単純な経済的事情で親を山に捨てましたが、年金が存在する現代は親の老老介護を見て見ぬふりをしたり施設に入れたりする姥捨てもあり、姥捨てという中身を注視すると人間の経済的事情と心の問題の両面があると思います。

私も娘が生まれ妻と三人で楽しい団欒を味わっていた時、例え親でもこの空間を邪魔されたくない感情を持ったことを覚えています。

時代小説などを読むと昔は間引きがありましたが、現代の一時期にもコインロッカーに我が子を捨てた時代もあり、便利な一時預かりのコインロッカーを悪用する邪悪さも人間で、心の部分に関して言えば人間の持つ邪悪さも普遍的な問題で、人間の深い心の内部に存在する邪悪な本音の部分は科学や文明が進んでも実は何も変わっていないと思います。

いつの時代においても子を気遣う親がいて、子を煩わしく思う親もおり、男と女はお互いに惹かれあい、幸せそうで豊かに暮らす隣人には嫉妬し、無理解な親や上司に腹を立てたり憎んだりを繰り返しているのが人間の歴史です。

私共の地域においても認知症や引き籠りやパラサイトや躁鬱病などの精神疾患の人も沢山おりますが、終戦後の明日の食料にも困る混乱期には今ほど多くなかったことを考えると、飽食による目の前の生きることへの切迫した緊張感の欠落も原因にあり、単に寿命が延びたことだけではなく中途半端な豊かさが人間の心を怠惰にし、心の深い内部で邪悪さが肥大して行っているような気がします。

かなり前に書いたブログの題名『白と黒』で書いたのですが、娘が就活で悩み苦しんだ後に私が教えられたことですが、『人間は白と黒半分ずつの心で生まれて来て、親や境遇や社会によって白が増えても黒が増えても、深い心の片隅には白も黒も残っている』という言葉が人間の本質を述べていると今も思います。

そうだとすれば経済的な問題で親や子を捨てる人間も、残酷と非難される心の問題で親や子を捨てる人も同じ人間のしている行為で、置かれた状況によって誰の心にでも芽生える危険が潜んでいます。

私自身も妻を亡くしてから、悲しみに沈み寂しさや忙しさの中で暮らしていると邪悪な心の黒を自覚させられることがあります。

そんな邪悪さが心に芽生えた時に、その人が正・邪のどちらの行為に向かうか? その大きな違いを生む分岐点になっているものは『その人が信じられる人』を持っているか? いないか? が大きく関与していて選択の大きな分かれ目なるような気がします。

先日一歳十カ月の孫が私の所に初めてのお泊りをし、夕方五時から翌朝の十時まで預かり夕食と朝食を共にしたのですが、自我に目覚め始め順調に邪悪さも垣間見えるようになり安心しました。

それは悪い事を知って悪い事をしないようにならないと、悪い人間に騙されたりイジメられたりして生き残って行けないからで、親が子供の為とレールの上の線路に乗せて育てると、邪悪な好奇心の芽を摘むことが失敗から学ぶ真の成長の芽を摘むことに繋がります。

邪悪さの抑制は、他者からの圧力ではなく自らの意志で行えるようにしてあげることで、そのためには子供が自分の邪悪な行為に自己嫌悪を感じている時に褒めることです

誰でも大人になるにつれて様々な誘惑と闘いながら、失敗や挫折を繰り返し成長して行くのですが、その過程ではいつも自分自身の心の中に芽生える怠惰な邪悪さとの戦いでもあります。

私は子供の教育や躾は親の仕事で、ジジとババは無情の愛を与えるだけで良いと思っていて、孫にとっての私は何事においても自分の思い通りになる人と信じさせるように接しています。

そのお蔭だったのか? 一度も泣かず愚図らず過ごし、食事の用意の時と眠る時だけ抱いてくれと寂しがり、噛んで含めるように説明すると少し思案してから『おんぶ紐を持ってきて、おぶれと催促』し、おぶって食事の用意中は冷蔵庫に張ってある物を渡すと喜んで背中で遊んでくれ、本当に楽しい一夜を過ごしました。

こんな片言の幼児でも『自分が信じられる人』への信頼こそが真の生きる力になっている!! を実感し確認できた一日でした。

時々孫による祖父母殺傷事件が報道されますが、養育義務のある親以外に子供への躾を強要する権利はなく、祖父母が躾と称した孫への人格否定を繰り返すと、抑圧された反撃は過激になります。

善人だけの世界や悪人だけの世界も不気味で、人情と不人情・善と悪に簡単に分けられない両面を持っているのが人間の真の姿と多くの人が認識しないで、偏執的な一面で捉える傾向が進むと、様々な状況で育った人間同士の理解が進まず分断され、誰もが陥る可能性を秘めている孤立した人の増加に繋がってしまいます。

文学(小説)や娯楽(映画)も相互理解を深める為の役目を果たしておりますが、人間生活に潤いを与える文化的なものが人間同士の潤滑油の役割を果たしている部分もあると思いますが、多くの人の生活が豊かな平等化が進んだ時代ほど文化的なものが花咲き繁栄したことは歴史が証明しています。

現在の格差や不平等感の進行が人間の邪悪なものを肥大させている部分もあり、その不満の爆発が重複障害者施設における殺人事件などのように、『一般社会における社会的弱者が、より弱者を貶めることで自分を正当化する』邪悪な自己正当化が蔓延しています。

人間が克服できないイジメも邪悪さで、学校でも会社でも知的障害者同士にも存在すると聞いた時は驚いたことを覚えてます。

いつも何処かで誰かが人間の根っこに存在する邪悪さを問いかける作業を続け、取りあえずその時代の答えらしきもの発信する文化を育んでいかないと、ファシズムのような野蛮な思いをしないと自覚できない悲劇が待っているのでは? と怖さを感じています。