妻の死。

十二月八日早朝の五時頃に普段は寝息だけの妻のアッという声と大きなイビキに目が覚め、駆け寄って声をかけてもゆすっても反応がなく確認すると心停止状態だったので119番通報をして、救急車到着まで人工呼吸を続け、到着後は気道確保と人工呼吸器装着をして勤医協病院へ搬送されました。

各種検査後にくも膜下出血と判明し、脳専門の札幌禎心会病院へ救急車にて転送され、あの時に即死状態だったと告げられました。

禎心会でも手術は無理との趣旨説明を受け、それなりの覚悟を宣告され人工呼吸器の装着で死を待つ状況が三日間続き十二月十一日の午前十一時臨終を迎えました。

その間には臨時休業の張り紙だけで、ご来店のお客様や通信販売の方達にも知らせられずご迷惑をお掛けしましたが、それは妻と四~五年位前から半分冗談半分本気の日常会話で、どちらかが先に逝った場合にどのような葬儀を希望するか? 誰を呼んで欲しいか?

を話し合っていて、密葬で香典や供物を辞退して執り行うことで一致しておりましたので告別式が終わるまでは黙っておりました。

葬儀は妻の兄と姉と娘夫婦と孫と私の六人のみで、僧侶も呼ばず戒名も付けずに執り行い、新聞の死亡広告も載せずに済ませました。

遺骨はどこにも納骨せずに婿殿が用意してくれた仏壇に遺影と共に置いて、私が生きている限り残りの人生も妻と一緒に過ごすことを娘と婿殿にも快く了承して頂きました。

通夜は妻を見送るに相応しい本音の話しが進み、婿殿にはお父さんは普段生意気なことを言ったり書いたりしているのだから、その通りにしないと怒りますよ! と言われ何故か? 嬉しかったのが不思議でした。

今は1歳2ヶ月の孫を抱えた娘達夫婦に私のことで迷惑をかけないようにの思いで、慣れない炊事・洗濯・掃除と忙しさで紛らわしておりますが、閉店して妻の仏壇の遺影の前で『ただいま』と『おやすみ』を言う時には本当に一人になったことを思い知らされます。

夜も寝付けないのでラジオを買ってきてNHKラジオ深夜便をかけて横になっているだけでも体の為になると思い寝ています。

妻と結婚して四十三年間は私にとって本当に幸せな生活で、穏やかな妻が感情の起伏の激しい私のことを子供を諭すように『いいんだよ、好きにしなさい』と何事も包んでくれ、私の不足した母性を補い見守ってくれて私を真っ当な人間に導いてくれたと思います。

私達の家庭は私が孫悟空で如意棒を振り回し、三蔵法師役の妻の為に戦いながらも、実は三蔵法師の手の平の上で暴れている関係に似ているといつも思っておりました。

突然に込み上げてきて涙が出ることが多いのも、幸せが多かった分失った悲しみも大きいと受け入れながら泣いています。

育った文化が違う他人同士が共に暮らし、葛藤を繰り返しながら時にお互いの自我を剥き出しにして『こういう人なんだ』と理解に繋げた時間は親子・兄弟・親類よりも長く濃密に積み重ねて獲得した強い絆だったと再確認させられています。

その絆を断ち切られ失った空白の心を、店頭に立ちお客様と接して薄められる救いの時間を過ごしながら、妻のいない新しい日常に繋げられるか? これから試されると思っています。

ほとんどの方が20年~30年以上の固定客で、長い商いの生活を続ける中で私と同じ経験をした方達を見守ってきて、その残された人の悲しみと辛さを妻との日常会話で話していたせいか? 何事も私を優先して考える妻でしたが、先行きの話になると『お父さんは私より長生きして、絶対私を見送って下さい』が妻の口癖で、これだけは頑固に譲らない妻の願いで、それを叶えたことが唯一の救いですが、果たしても虚しさだけです。

人は愛する人のために生きることで自分の生きる力にしているのですが、支える相手を失い呆然としているが本当のところです。

俳句を誘って頂いたからの弔意の手紙の最初に・・・

   泣く時はひとりときめて夜半の夜

とあり、その瞬間にとめどなく涙が出ました。