知識と知性は別なもの。

長い期間仕事を通じて様々な年代の様々な人達とお会いして不思議に思うことは、戦後の混乱期で教育機会に恵まれなかった年代の人達の中で苦労した人や、その正反対に混乱期の中でも教育機会に恵まれた人などに知性的な人が多いと感じることです。

そして年代が遡り、教育制度が整ってからの世代の方が知性的な人の割合が減少しているように感じる不思議を思います。

一般に知性を知識の量で推し測っている傾向が有りますが、私自身が知性的と感じる人は『今持っている自分の考えに固着せず、直観的のようですが良いと思うことは相手の考え受け入れ、それを素直に自分の考えと照らし合わせる作業を繰り返して、咀嚼し修正する勇気と柔軟性を持ち合わせている人達です。

そのような人達は、自分自身の今持ち合わせている既成概念を破壊(作り直す作業)できる素直さを持ち合わせている人ですので、様々な出会いの中で様々な人のものを吸収し変化し続けますので、いつお会いしても新鮮で成長も目覚ましく、なによりお話をしていて楽しいことが大きな特徴です。

逆にうんざりするほど楽しくない会話の人は、マスコミ的な既成概念の知識の洪水で、血肉化していないうわべの会話が多く、いつも多数派的位置で意見を述べて自己満足している輩です。

このような人達の増加の遠因は民主主義の多数決の影響か? 苦労をしていないせいか? まだ不明ですが、何故か教育制度が整った頃からの方が増加したような気がします。

日本人の知性劣化を強く感じた時が小泉政権の高支持率の時でしたが、『自民党をぶっ壊す』や『自己責任』という単純な言葉の繰り返しで大衆を扇動・誘導に乗せられた人達が大多数を占めた時で、これなどは言葉が悪いですが『知性が劣化した人でも理解できる言葉を使い、巧く取り入った結果のように感じていました。

その小泉改革の結果として、高額所得者には減税され、製造業にも派遣社員が解禁され格差が拡大し、支持していた人達の多くが中流から下流に落とされたわけですから、結局支持した人達が一番痛い目に遭っている皮肉で、このような時間的経過で眺めなければ『どの知性の判断が正しいのか?』は判らないものです。

特に政治とは時間経過という歴史的文脈でしか評価できないように出来ていて、独裁者を生む事も衆愚政治と呼ばれるものが原因で、今の安倍政権への繋がりも国民の知性の問題に起因しており、昨年の衆議院選挙における自民党の勝利は、秘密保護法や安保法案のような国民軽視や監視と戦争への危険より目先の生活という景気回復を選択した国民の責任もあると考えるべきです。

知性とは利害や自説に固執しないで人の話を聞く素直さと広さを持つことで、それは時間的経過を経て『腑に落ちるか、腑に落ちないか』で最終的に判断されるもので、多数派的思考やマスコミ論調に合わせた意見などの借り物では、本質的には知性的なものとは言えないと思います。

戦後の高度成長と平和(国内的には)が続き、取り敢えず飢えもなく生活できる状況が長く続いた為に、切迫した生き残るための感受性の退化に連動して日本人の知性が劣化したのだと思います。

感受性とか直観とかは目の前の権威や名誉やお金を視野に入れると鈍ってしまうもので、現代の知識人と呼ばれる中には権威や名誉やお金を視野に入れている人達の方が優遇されている傾向がありますが、このような人達こそ反知性的な人だと思います。

現代の危機は愛国心やナショナリズムのような排他的な傾向が強くなっていることで、集団的自衛権や秘密保護法などの進行も小泉改革の時と同じ逆説の繰り返しに見えます。

国家や組織における集団の未来は、多様な意見が闊歩するような社会の中にこそあって、それこそが実は未来の危機を未然に防ぐ力に繋がっているもので、そんな多様な構成員が多い組織や社会の存在が本当の知性的な人間を育む場所に繋がると思います。

終戦後の混乱期は、戦争中の刷り込まれた既成の価値観が崩壊した時で、誰もが不確かなものに覆われた不安の中で善悪や倫理に苦悩しながら生き、その荒波の中で人それぞれがそれぞれのやり方で生き残りを賭けて思考し行動した時代だったと思います。

恵まれていることに自責を感じる人と感じない人、倫理を外しても生き残ることを優先する人と、倫理を優先して死んで行った人や没落した人もいたと思いますが、どんな生き方を選んだとしても多様な価値観に嫌が負うにでも触れる生活の中で、誰もが何かしらの内省を強いられ知性が磨かれたのではないか? と思います。

知性も含めて人間が何か特別なものを手に入れる為には、生き抜くうえで巻き込まれる修行みたいなものが必要とされ、その修行として何故か理不尽な体験が必要なのでは? と思っています。

日常生活では海に浮く氷山のように、海面上に出た三分の一を建前で過ごしますが、海面下には三分の二の本音を隠し持って暮らしているのが日常で、困難な理不尽な状況を受け入れ乗り越えて手に入れた真の知性の獲得が、三分の一の見えている部分から三分の二の見えない部分を推察できる洞察力に繋がると思います。

他者からの協力を得られるような人間力が必要とされた混迷の時代が過ぎ、お金さえあれば生活できる時代になってから、生き残る為に知性より知識を活用した狡猾さの方が優先されるようになってしまった帰結として、現代は知識があっても知性・知恵・教養のない人達が増え大企業などでも不祥事が増えたのだと思います。

最近の若年層事件の心の深部には、子供を見守り待つ余裕のない大人の増加と相関があり、子供が時間をかけても解決しないことに一緒に耐え引きずって待つ大人の減少が遠因で、いつも性急で貧弱な薄っぺらい大人が投影しているような気がします。

幼児は成人するまで身の回りの大人から学び成長するのですが、その子供の成長過程においての忍耐を教えるには、一緒に待つという大人の忍耐が実は相手を思いやる知性です。

受験の為の知識より、大人が子供の心の起伏や振幅に寄り添って、その好奇心の赴く所から知識を獲得する喜びを体感させると、そこから広がって行く知識欲は純粋で抑圧もないので、遊び心や余裕にも繋がって豊かな人間性と真の知性へと発展すると思います。

知性の劣化は教育制度にもあると思いますが、全てが性急で余裕のない損得勘定優先の社会に人間が過度に順応した悲劇で、そこでは多様性を認めないイジメ社会が蔓延しがちです。

バブル崩壊以後は困難な時代が続きますが、人それぞれのエゴより今の困難を受け入れ多様な人間同士が助け合う自覚に特に強者が目覚めないと知性回復は難しいと思います。