本当の先生と大人とは?

習い事なども含めて先生と呼ばれている人達が巷には沢山おり、私も仕事を通じてや趣味の世界などで多くの先生と呼ばれる人達に会って参りましたが、その属する世界の『裾野』を広げる役目は末端の先生達が果たしているのでは? といつも考えております。

茶道・華道が廃れて行っている現状もこれと関係していて、建前では綺麗事を言っている先生が、現実には自分が先生として君臨することを目指している人が意外と多く、長く接していると先生自身の自己実現の道具として生徒を捉えていると判明することが遠因で生徒数が減少して言ったことも関係していると思っています。

お茶屋として四十年近く抹茶も販売して参りましたが、この地域の茶道の先生ほぼ全員近くと喧嘩に近い議論で離れ、今は本当に抹茶の美味しさを楽しむ人達だけが当店のお客様です。

その議論になった全員が『実るほど頭の垂れる稲穂かな』の正反対で、権威を振り回して風下には上から目線の身の程を判っていない我儘の言い放題で、逆に家元などの風上には驚くほど従順で、そんな中途半端な先生達が何処の世界の先生にも多いのも事実です。

最近は『身の程を知る』という徳を持ち合わせている人が少なくなりましたが、娘が小学生の時に習った算盤の先生に感動したことは今でも鮮明で忘れられません。

娘が小学校低学年の時に算盤を習っている友達の暗算が凄いので自分も習いたい! と言うので通い始め、短期間で一級まで合格して辞めたのですが、その別れの時に先生が私の所に来て娘の努力を褒めてくれて言った言葉が『算盤の先生をしていて一番楽しいことは、子供達の能力を引き出し自分を凌ぐような人間に育てることが喜びです』と述べたことでした。

兎角人間は上座に座って偉そうにしたがるものですが、その先生の生徒が真綿が水を吸うように伸びている要因は、先生が下座から子供達を上座に押し上げるように接していることが実は生徒数の増加と短期間でも生徒の能力が伸びる結果に繋がっていたのでした。

娘の話す様子からある程度は先生が良い人なのは理解していましたが、その後その先生から別な先生になってから生徒数が激減し、その算盤塾は無くなりました。

何事においても底辺の拡大が一流の稀有な人を生むことに繋がっているのですが、日本の伝統文化の存続を思うと末端の先生という肩書を持っている人達の姿勢とか有り方が命運を握っています。

何かの本で読んだのですが、バチカン市国の長年の繁栄は世界の未開の地へ出向き布教を続けた宣教師達の自己犠牲的精神によって支えられていると書いていたのと同様です。

末端の指導者(先生)になる人が自分の存在の意味や重要性を理解し、身の程を知って自分の個人としての達成や欲望を排除し、自分以上の生徒を世に送り出す使命を自覚し次世代を育てる仕事に励むことが、自分が属している集団の繁栄に大きく繋がっています。

社会においてもそうですが、どのような世界においても良い事の裾野を広げたり、繁栄に繋げたりする為に必要な要素は、個人としての努力が集団の繁栄に繋がっていると自覚できる本当の大人(特に末端の先生)の増加に頼る以外にないと思うのです。

私の趣味であったマラソンやトライアスロンでは、私はいつも後位の成績でしたが、上位の人達の気分を良くする為に私のような後位の者も必要な存在と家族にいつもうそぶいていました。

膝の故障も有りましたが、妻が言うようにひねくれ者ですのでマラソンの愛好者が増えてから止めて徘徊(散歩)にしていますが、自分自身が所属した集団の今の繁栄は喜んでいます。

近年は俳句を楽しんでおりますが、俳句の世界と対比した短歌の世界を眺めると見えてくるものを感じます。

現代において短歌の裾野を劇的に広げたのが俵万智さんだと思いますが、彼女の『サラダ記念日』など日常のカタカナ語を巧みに使った親しみやすい口語短歌が、多くの人達の心を掴んで短歌愛好家の裾野を一気に広げる事に繋がったと思います。

そのサラダ記念日発刊の前年に角川短歌賞を受賞しましたが、もし選考委員が過去の因習に囚われて俵さんを選んでいなければ、果たして短歌愛好家の裾野は広がっていたか? を思います。

身近な例では中学・高校の部活動ですが、演劇・合唱・ブラスバンド・剣道など子供達が初めて触れる部活動において、指導者である先生が変わると劇的に子供達のレベルが乱高下するそうです。

子供の感受性は敏感で、指導者の熱意も含めて大人の真意を的確に読み取って、先生の自己実現のためか? 私達子供の自己実現のためか? を肌で感じ取り、先生が厳しくても心から子供達を思って指導する先生の本心を無意識領域で感じ読み取って、子供達の本気度が劇的に変化している結果だと思います。

例え先生が出来ない事でも、先生が『お前なら出来る』とその子の持つ才能を評価して強いる厳しさは心に響き、先生が出来ない事でも自分が期待に応える喜びで努力をしますし、達成出来た時に生徒は期待に応えられた・先生は生徒のブレイクスルーを喜び合いながらも、先生も生徒も人間として一回り大きく膨らんで行きます。

『身の程を知る』という徳は、自分が属している世界においての自分自身の立ち位置を鳥瞰図で認識する所から始まっていて、その先生自身の立ち位置の認識が出来て初めて自分の果たすべき役割の認識に繋がり、生徒達の自己実現が優先されて行きます。

武田鉄矢が金八先生のドラマで言っていたのですが、『子供達は先生が偉いと思うと、先生からいくらでも学ぶ。 この先生はバカだと思ったら、何も学ばない。 子供達は偉いと思う人からしか学ばないと言っていましたが、兎角人間はそんなものです。

先生という字はきると書くように、後に続く者の手本となる人間性を持つことで、本当の先生と呼ぶ価値のある人達が末端の先生に増えないとその世界の裾野の広がりと膨らみは生まれません。そしてその広い裾野と膨らみの中から稀有な一流の者も輩出されて行くのですが、その一流になった人達の中でもその世界の裾野の多くの凡人に支えられていることを理解し実感できた人が人間としても一流の人間になれると思います。

巷に多い上から目線で先生をしている人は裸の王様みたいな幼児的な自己満足ですが、利口な生徒にとっては反面教師の役割としては機能してごく少数の優秀な人間を生むことに貢献はしています。

現代は先生だけでなくどの職業においてもブラック企業化していて、若者を非難・批評し利用するだけの大人の増加が目について、自分達以上の若者を育てようという気概に欠けた大人の増加が実は日本を駄目にしている面も有るのでは? と感じています。