物事の上達法と才能とは?

何事においても基本をマスターしないと上手くならないものですが、この基本練習ほど飽きやすいものはなく、挫折や独りよがりに繋がってしまう人が多いのはこの為です。

では飽きずに基本を自然にマスターする方法はないのか? と言うと、書道の練習方法にヒントがあります。

最初は手本を下に敷いて、なぞって真似て書き続けます。

次に手本を横に置き、目で見たイメージを頭に焼き付け、そのイメージを手でなるべく近い表現に再現して行きながら上達に近づけて行きます。

真似が上手になった時には、筆使いに基本は自然にマスターされていますが、それは真似ている時は自我を消して手本に合わせているからです。

基本を身に付け守った上に自分らしい字を書けるようになった人が実は書道の才能がある人と言えると思います。

昔何かの本で読んだのですが、ピカソが抽象画を描くようになる前はひたすら日本の浮世絵を模写していたそうです。

それを精密に繰り返し続けている過程の中からピカソ独自の抽象画が生まれたそうです。

私など凡人には抽象画への道筋は理解できませんが、アルテピアッツァ美唄で抽象的な彫刻家の安田侃さんの若い時のデッサンを見たのですが見事なものでした。

私の友人のお兄さんも抽象画を描くのですが、猫や紫陽花を描いた水彩画を頂いたのですが本当に見事です。

何事もある域に達しないと、その道筋は理解できないのでしょうがデッサンが絵の基本である事は誰でも理解できますが、浮世絵の模写から抽象画へは天賦の才能がないと辿り着かないように思います。

私の趣味の水泳上達法は一流スイマーの水上・水中ビデオを見て頭に焼き付け、そのイメージを真似て体に染み込ませる努力の毎日ですが、苦しくなると自我が出た楽する泳ぎになり綺麗でよく進む泳ぎが出来なくなります

私は『学ぶとは真似ること』と思い、俳句なども最初は良い句を覚え真似る努力をしているうちに、自分の表現したい内容が工夫して巧く十七字で表現できるようになりますが、語彙数(デッサンに似て)も同時に勉強しないといけないことを自然に思い知らされます。

昔商売を始めた頃にいろいろと教えて頂いた人に言われたことを想い出すのですが、その人は『今現在繁盛している店の真似をしろ』とよく言われました。

その後に軌道に乗って来た時『調子に乗って真似を止め、おごり潰れる』と叱られた事がありますが、真似から物事の基本を学び、自分自身の自我を消化して思想や哲学に近づけた形にした独自のものを作り上げないと継続できないことを思い知らされました。

娘が中学生の時『私には何か才能はあるのか?』と聞かれたことがあるのですが、沢山の好きなことの中から真似て独自のものが生まれたら、それがあなたの才能でしょうと答えました。

でも才能とは親指のように力はあるけど、指の中で一番短いように何かを失ったり犠牲にするものが有ると思うと話し、中指は一番長いけど一番力がないように、実は人差し指のようにバランスが取れているのが人生に一番役立ち大切では? と話したことがあります。

これも人それぞれの価値観によると思うのですが、天性の才能のある人はバランスなど考えることもなく突き進む程に天性の湧き出るものが突き動かすのだと思います。

矛盾しているようですが、模写がただ上手な人は独創性に欠けている人で、模写に没頭するほどに好奇心が強くそして模写から自然に離脱する自我が湧き出てくるのが才能ではないか? と思います。

凡人は一芸に秀でた人を羨みますが、ゴッホのように一芸に秀でた人の生み出す苦しみを実は凡人は理解していません。

非凡な人も凡人も生きることは辛く苦しいことが多いのかも知れませんが、生きる手本になる人から学び・真似をする謙虚さ持ち、小さな喜びを無上の喜びと感謝できる毎日にしたいものです。

最近作った俳句で『浄土あり忍土を生きる夜なべかな』の忍土とは浄土の反対の現生のことですが、夜なべを嘆くのではなく元気で夜なべができる体に感謝した句です。

才能やお金のような無い物を望んで不幸を実感するより、今ある当たり前の健康に感謝して過ごす方が幸せな気持ちでいられると妻に言うと、いつもの『負け犬の遠吠え』だねと言われました。